第十六話
その日の紅葉は、燃えるようだった。山の端から庭へかけて色とりどりの葉が公達の目を楽しませている。紅葉狩の宴は盛大だった。酒。楽。笑い声。その中央で、有雅は舞っていた。
錦の袖が翻り、強く踏み込む足。鋭く光る白剣。夏の藤見で朝成が剣舞を舞った時とは違う。有雅の舞は、静かな炎を見ているようだった。その熱が見ている者の胸へ、じわじわと伝わる。
朝成は盃を持ったまま、ほとんど飲めずにいた。隣の公達が感嘆したように言う。
「有雅殿、見事だな」
朝成は曖昧に頷く。
見事なのは知っている。知っているから困るのだ。しかも今宵は独舞ではない。もう一人、若い武官が共に舞っている。
距離が近い。
袖を払う。呼吸を合わせる。時折、互いの腕が触れそうになる。朝成の眉間へ、静かに皺が寄った。
(近いぞ、近すぎる!)
先日、二人きりの部屋で、十たびの呼吸の間だけ貪ったあの愛おしい身体に、あの白い肌に、他の男が触れそうになっている。そう思うだけで、朝成の胸の奥が妬みで激しく燃え上がりそうだった。
その時だった。舞い終わり、相手役の男が笑いながら有雅へ近づく。
「いや、美しい舞だった」
有雅が軽く笑って応じる。その笑顔に朝成の胸が妙にざわついた。さらに男は、主から賜った紅葉の枝を見て言う。
「それほど見事な枝なら、こうした方が映える」
そう言って、有雅の髪へ挿そうと手を伸ばした。
ぱし、と。
気づけば朝成がその手首を掴んでいた。場が一瞬静まる。男が目を瞬く。朝成自身も、自分の行動に困惑している。
「……触れば、散る」
低く、凄みの利いた声でそれだけ言う。男は気圧されたように曖昧に笑った。
「これは失礼」
手が離れる。その間有雅は、じっと朝成を見ていた。その目の奥が笑っていて、朝成はますます面白くない。
宴の後。人も少なくなった庭で、有雅は改めて賜った紅葉の枝を見ていた。夕暮れの光を受け、葉が赤く透けている。
背後で衣擦れがした。振り返らずともわかる、朝成だ。有雅は小さく笑いながら言った。
「……触れば、散る、か」
朝成は答えない。有雅は振り返り、
「嫉妬深いな」
「何の話だ」
「先ほどの」
朝成は眉を寄せた。
「髪へ挿されるのが嫌だったか」
「違う」
「では?」
朝成はしばらく黙る。だが否定しきれず、結局視線を逸らした。有雅は堪えきれずに笑う。その笑顔が悔しく、そしてどうしようもなく愛しくて、朝成は低く言った。
「……お前は近頃、人をからかう」
「己は狐だからな」
そう返して、有雅はふと紅葉の枝を差し出した。朝成が目を上げる。
以前、藤を渡したのは朝成だった。だが、今度は……。
有雅が静かに告げる。
「お前へ」
ただ一言。朝成の指先が、わずかに止まる。
人目もない。言い訳もない。まっすぐ向けられた贈り物に心が跳ねる。
朝成が受け取ろうとした、その瞬間。
「まあ、綺麗!」
ぱっと横から枝が消えた。二人が同時に振り向くと、枝を持つのは小萩だった。
「小萩」
「これはいただきます」
しれっと言う。有雅が呆気に取られる。
「何故」
「紅葉は良い香になりますもの」
小萩はくすくす笑った。
「兄上へ調じて差し上げますからね。それともお二人で香を合わせる……おつもりですか?」
朝成が激しくむせた。有雅の耳まで一気に熱くなる。だが小萩だけは涼しい顔だ。
「兄上の舞はとても綺麗でした」
「……そうか」
「朝成さまはずっと怖い顔で見ておりましたけれど」
「小萩殿」
「だって本当ですもの」
朝成は額を押さえた。有雅は顔を伏せ、肩を震わせて笑っている。
小萩は調香の準備をせねばと、颯爽と去っていった。
夜風が吹き抜け、有雅の身体からあの夜と同じ甘い藤の香がふわりと朝成を包み込む。
「取られてしまったな」
「だが香にするのも悪くない。小萩殿の腕前は確かだ。…明るく、気立ての良い姫君だな」
有雅はふと寂しげな陰を宿した瞳で問う。
「あのとき… あの藤見の宴で、己が是と言ったなら」
朝成はしばらく考え、まっすぐに有雅を見つめた。
「会いに行ったまでだ。己は池に落ちた姫君に、なんとしても会いたいと願っていたのだからな」
「では」
「『では』はない。己は池で出会ったあの御方にただお会いしたかったのだ。……それに」
朝成は有雅をさらに近くへ引き寄せ、耳元で囁く。
「己の藤花は、とうに狐が持ち去った」
そう言って、朝成は有雅の首筋の黒子に吸い付くように唇を寄せた。
「たいそう馥郁たる狐だ。己の心は吸い尽くされてしまったぞ」
朝成は、先程までの忌々しい武官との舞のことなどすっかり忘れて、上機嫌に目を細めている。
『紫の ゆるる香りを 見ぬ人に』
あの夜の、届かぬ恋の歌に、今あえて返すなら──。
「細紐結ぶ 恋一つあり……」
有雅は掠れた吐息のような声で優しく愛おしげに紡ぐ。
歌い終えると同時に、有雅は悪戯っぽく微笑み、朝成の肩を飾る直衣の紐に、白い指先をかけた。
きゅっと手元へ引いた刹那、結び目がするりと解けて、朝成の襟元がはらりと大きく着崩れる。
「……っ有雅?!」
不意を突かれ、目を見開く朝成。その狼狽える顔が可笑しくて、愛おしくて、有雅は優しく笑いながら、緩んだ衣の合わせをさらに我が手へと引き寄せた。
二人の直衣の袖が、茜色からやがて夜の帷へと溶けていく。
外の庭では、いつの間にか鈴虫が密やかに羽音を震わせ、二人だけの濃密な静寂を優しく包み込んでいった。
雲の切れた空の上、満月を過ぎた十六夜の月が、静かにかかっていた。




