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第十四話

待宵の月が、清涼殿の長い廊を白く照らしている。

夜も更け、周囲の宿直の者も今は二人の他は誰もいない。 ただ虫の声だけが、静かに庭を渡ってゆく。

朝成は文机に向かったまま、もう随分と長い間、筆を進められずにいた。 向かいの席には、有雅がいる。ただそれだけで、朝成は妙に息苦しく、心が落ち着かない。小萩殿から

「兄が香を見に纏うと、重くて艶めかしい別の香に変わる」

と聞いてから、なおさらだった。

違うのだ。あの夜の人は小萩殿ではない。 では、誰なのか。 その答えに朝成の心がじりじりと近づいてゆく。近づくほどに、全身が震えるほどの思いが込み上げてくる。

有雅が、ふっと筆を置いた。

「……暑いな」

低い声が、静まり返った部屋にぽつりと落ちる。 今夜は風が弱い。灯火の熱が、じわりと肌へまとわりつくように重かった。

有雅は暑さに耐えかねたように、無造作に直衣の襟を少しだけ緩めた。 その何気ない仕草に、朝成の視線は吸い寄せられるように奪われる。 灯火に照らされた、白い首筋。少し乱れた、濡れたような黒髪。

ふと、夜風がすり抜けて灯火が小さく揺れた。 その瞬間、有雅が襟を直そうと、小さく首を傾けた。

「――ッ」

朝成の呼吸が、完全に止まった。


小さな、白い首筋に刻まれた、ひとつの黒子。


見間違えようがなかった。

あの嵯峨の池のほとり。濡れた髪。震える指先で結んだ単衣の細紐。 その時、肩越しにほんの一瞬だけ覗いた、白いうなじ。 暗がりの中で確かに目に焼きついた、あの黒子。


世界が、凄まじい音を立ててひとつに重なった。


蛍の夜。藤の香。濡れた薄衣。川風。『 いずれの空に 消えゆかむとて』と囁いた、あの低く、けれどどこか切ない声。

全部。全部、他ならぬ目の前の男――有雅へと繋がっていた。

朝成の手から、握られていた筆が落ちた。 からり、と乾いた音が転がる。

有雅が怪訝そうに振り返った。

「……朝成?」

もう駄目だった。考えるより先に、身体が動いていた。

立ち上がったのかどうかさえ定かではない。まるで時間の流れが引き延ばされたかのように、周囲の虫の声が遠のいてゆく。覚束ない足取りのまま、朝成は、吸い寄せられるように有雅へと近づいてゆく。

そして、机に向かったままの有雅の背後から、衝動的にその身体を激しく抱き締めて、縋りついた。

有雅の身体が、息を呑む音とともに強張る。

「……っ、朝成……?」

掠れた声。朝成は答えられない。ただ、腕の中に閉じ込めたその身体の厚み、骨の硬さ、そして立ち上る体温が、あの夜に抱きすくめたものと全く同じだった。


ようやく見つけた。ずっと、ずっと狂おしいほどに追いかけていた人。香だけを頼りに。気配だけを頼りに。名も知らぬまま、恋し欲した相手。

それが、ずっと、最初から隣にいた。

朝成は有雅の首筋に顔を埋め、震える息を吐き出した。

「……紐を」

声が、ひどく掠れる。有雅が、ぴたりと息を止めたのが分かった。

「忘れられぬのだ」

沈黙。遠くで鳴く虫の声だけが、二人を置いてきぼりにする。 朝成の腕の中で、有雅の身体が微かに震えていた。 朝成は額を有雅の硬い肩へと押し当てたまま、狂おしさを堪えるように低く続けた。

「池の夜より、ずっと……お前を」

有雅の指先が、かすかに動いた。 朝成を拒絶することも、その腕を振りほどくことも、もうできないと悟ったように。

やがて。 衣服の擦れる音の向こうから、とても静かな声が落ちた。

「……気づいて、しまわれたか」

その声は、あの蛍の夜に、袖越しに朝成の心を奪ったあの人と、まったく同じ響きだった。

朝成は、そっと目を閉じる。 もう、二人とも逃げられない。

雲の切れた空の上、待宵の月は、ほとんど満ちようとしていた。

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