教育の時間です
息を吹き込むと、メリタの胸が上がる。どうやら肺に空気が送られているようだ。
私は左手で彼女の脈拍が途切れていないことを確認しながら、彼女の呼吸を助ける。救護班が私の周囲を取り囲んだが、構わずに続けた。無論担架が既に用意されていたが、移動している暇はない。
心臓は止まっていなかったので、重篤な状態ではないかもしれない。だが、続けるしかない。
救護の方々は私のしていることの意味を知っているからか、特に何も言わない。いつでも代わる準備があるとばかり、手早くメリタの容態を診ている。
「ぅぅっ、ごほっ」
脈をとりながら息を吹き込むということを何度となく繰り返すうちに、メリタは自発的な呼吸を回復した。
私はそこで彼女から一度離れる。意識が戻ったわけではないが、これ以上は私がついている意味もなかったからだ。救護班がすばやく彼女を担架に乗せ、試合場を後にする。
「ありがとうございます、迅速な処置に感謝します」
「邪魔をした、すまない」
私のしたことは余計なことでしかなかったかもしれない。救護班のリーダーらしい人物に私は頭を下げた。彼はとんでもない、と言い返してすぐにその場を去っていった。
メリタを載せた担架と救護班は、視界から消えていく。会場内の救急室で治療を受けることになるのだろう。メリタは優秀な剣士であり衛兵でもあるのだから、適切な治療がされるものと思われた。これ以上私が心配しても仕方がない。
私は試合に意識を戻した。
既に私の対戦相手は試合場に上がっている。
ほんの数秒で勝負はついた。
休憩時間の存在を告げられるまで、私は試合場に立ち続けてしまった。
リジフ・ディーも私と戦おうとして試合場に入ってきたので、このまま試合が始まるのかと考えていたが審判団が慌てて乱入してきたのである。
大会進行の都合もあるので、休憩時間をとってくれと。
そう言われては仕方がないので、私はメリタの様子を見に行こうとしたが、それはかなわない。医療部隊が治療しているので、邪魔をしてはならないというお達しがあった。
リジフはといえば、さっさと試合場を降りて立ち去っている。休憩時間は長い。ここに立ち尽くしている必要などなかった。
観客席に戻ってくると、大変機嫌の悪そうなイリスンに出迎えられた。
メリタがリジフに倒されたので激怒しているに違いない。そこで私はきっと、彼を打ち倒して見せると約束した。だがイリスンの機嫌は殆ど変化がない。
なぜなのか。
「私がこれだけスム様に好意をよせているのに、どうしてよりにもよって姉なんぞにキ、キ、キスなんかしちゃうんですか!?」
顔を赤くして、私に詰め寄るイリスンは鼻息も荒くそんなことを言い放った。正直少し私も怯んだ。精神的修業を父母と散々にやってきたはずだったが、今のイリスンには怯んだ。
彼女の肩をつかんで引き剥がし、私は冷静に話をしなければならなかった。イリスンの怒りの火に油を注ぐようなまねはできない。
「あれはキスではなく、救命行為だ。命の危機にあった彼女の手当てをした。それだけだ」
「ですが少しくらいはためらってくださってもいいのではありませんか。何しろ私という妻がすでにあなたにはあるのですから」
「言質をとろうとしないでほしい」
キコナと密約を結んだ以上、私が英雄となる可能性はすでに低くなっているのだが、イリスンは私と結婚するということをどうやら諦めていないらしい。というより、以前よりもアピールが強くなっている気がする。
厳しい話だ。このままいくと本当にイリスンは私の婚約者になってしまいそうな気がする。
しかし私が未来を憂いている間に彼女は私に密着してくる。
「あれですか、スム様。淡白なように振舞っておられますが、つまり私の誘いを断っている理由はなんなのですか」
「なんなの、とはどういう意味だ」
「なんやかやと理由をつけては断っておられ、私の肌に触れることすらしていないではありませんか。普通なら、大喜びでベッドインするはずです。スム様とて健全な男子であられるでしょう。何かできない理由でもおありなのですか。女性がお嫌いとか、むしろ男性のほうに性的な魅力をお感じに」
「そういうわけではない」
むしろイリスンの誘惑は悩みの種だ。彼女をメリタから紹介されて、純潔を捧げると言われたときには「間に合っているからいい」とは言ったが、私とて普通の男である。人並みに性欲はある。
だがイリスン・ボックはヒャブカ将軍の抱えるメイドの一人であり、私は彼女を借り受けている身である。これで彼女に襲い掛かってまかり間違い妊娠させてしまったなどとなれば、とても将軍に顔向けできない。
それに我慢できないというほどではない。自分を律するということはエイナ・エテスから散々に言われた。女癖の悪さで知られたスリム・キャシャのようになってほしくないという一念からの言葉だと思われるが、とにかく言っていることはまともなので私も逆らわなかった。
「では、やはりアレで。好みの問題ですか。私などより姉のほうがよいと」
「誰もそんな話はしていないだろう」
「いいえ、あんなにあっさりと姉と情熱的な口付けを! 悔しい! 悔しい! 悔しい!」
「落ち着け。泣くな」
「泣くなとはなんですか、泣くななんて。スリム・キャシャの孫なら女の涙に胸を貸すくらいのことはしてください!」
それをすると病気がいちだんとひどくなりそうな気がしてならなかった。何よりジャクがこちらをぽかんと見つめている有様である。
しかしやがて彼女は何か得心がいったのか、イリスンの真似をして私にしがみついてこようとしてきたのだった。
「わたしもあそびたい、スム、いれて」
「少し待て、ジャク」
この上ジャクまで加わっては収集がつかない。私は必死に二人をたしなめ、落ち着かせた。
そして結局、休憩時間の終わりまでには「絶対に二人を見捨てない、両者の同意がない限りずっと一緒」などという婚約に近い約束をさせられてしまった。ジャクだけならまだかわいいものだが、イリスンはまずい。
現状を維持するだけで一先ず約束は果たされるが、イリスンの攻撃から逃げ続けなければならないということにもなる。
しかし、それをとにかく約した後もイリスンの怒りはほとんど減じなかった。
まだ怒っている。それがどうしてなのかは、私もわかっている。
「スム様。私と結婚することが決まったのは嬉しいのですが、まだ手放しには喜べません」
「そんな約束はしていない。だが、君がどうして手放しに喜べないのかはわかっているつもりだ」
気を抜くとこんなことをいうのだから始末に終えない。
イリスンはふざけているようにみえたが、その目は試合場に向いていた。
「私、人をいたぶって喜ぶような手合いは嫌いなのです。ましてやそれが姉に向けられたともなれば、憎悪すら感じておりまして」
「気持ちはわかる」
「そしてスム様も、姉のことを想っていらっしゃるのなら、彼に罰を下してくださいますね」
詰め寄ってくるイリスンから目をそらし、私はジャクを抱き上げた。足の弱い少女は、私にされるままに肩に乗せられている。ジャクもメリタによく懐いていた。
呼吸停止するほど痛めつけて、殴り飛ばしたリジフ・ディーに対する怒りは無論私にもある。あるが、怒りに任せて戦うことほど危ういこともない。
できるだけ冷静になって戦うべきだ。エイナ・エテスはいかなるときも取り乱さずに落ち着いているべきだと私に教えてきた。
私自身もエイナ・エテスの教えを否定しない。
しかしそれでも私は振り返って、イリスンにこう答えた。
「私とて怒っている。ただ試合をするだけで終わるつもりもない」
ジャクをイリスンに引き渡して、私は会場に降りる。
客席のざわめきなどは、既に私の耳に入らなかった。私の迅速な救命措置がメリタを救ったなどと勝手な喧伝をする大会運営部の煽りも、メリタとの仲を勘ぐる無粋な声も、私を波立たせない。
目の前の対戦相手は、リジフ・ディー。それだけが私の心を平静でなくする。
「逃げずによく来たな。あんまり遅いからデブすぎて動けなくなったのかと心配してたところだ」
彼は笑いながらそんなことを言う。武器は特に変更がなかった。片手剣だけだ。盾は持っていない。ダガーも。
「そんな心配はいらない。これでも鍛えている」
「そりゃあよかった。お前は徹底的にここで痛めつけてやらねェと気がすまないからよ。二度と俺に口答えできないように、己の力量をわきまえさせてやる」
「ああ、期待してる」
短く会話を終わらせる。そうして私は、軽く右足を引いた。
リジフ・ディーもするりと片手剣を抜き放った。試合用なので木剣だが、それでも油断できない。彼は私を痛めつけようとしているのだから、遠慮なく急所を狙ってくるだろう。
彼は試合前だというのに、剣術大会の決勝だというのに笑っている。余裕をみせている。油断をしている。
黒髪の少年は、片手半剣の男を再起不能にしたことをなんとも思っていないようだ。粉砕骨折したことは知らなくとも、骨折をしたことはわかりそうなものなのに。バシャークに重傷を負わせたことを歯牙にもかけないような性格なのだから、当然といえば当然かもしれないが。
メリタはあのまま放置されていれば命の危険まであった。そうしたことを、全く考えていない。
ならば私は彼に、教えてやるべきではないか、と思える。
怪我をする痛みを。
また、何かを失うということを。
罪悪感というものを。
試合開始の笛は、高らかに鳴った。客席が震え上がる。試合会場まで、その振動が伝わった。
それと同時にリジフが私に向けて一挙に飛び掛ってきた。軽く左へ行くとフェイントを入れてからの、凄まじい速度の踏み込みである。メリタと戦ったときには全く見せなかった動きだ。
それに合わせ、こちらも前に出た。そして私は右手を振り抜く。
硬く握った拳を。




