教育的指導(物理)
教育的指導(物理)
イグニスが大地を蹴った瞬間、訓練所の空気が爆発したかのように震えた。
赤い鱗に包まれた巨躯が、闘気を纏って砲弾のように突進してくる。
踏み込みによって分厚い土の地面が抉れ、砂埃が舞い上がった。
「死なねえ程度に手加減してやるよォ! 『先生』ェ!!」
頭上高く振り上げられた巨大なバトルアクスが、空気を切り裂きながらマモルの脳天へと振り下ろされる。
竜人族の膂力と、武器自体の途方もない重量、さらに落下時の重力加速度が乗った一撃。もし直撃すれば、人間の身体など縦真っ二つにされるか、あるいはトマトのように潰されるだろう。
周囲で見ていた自警団の団員たちが、思わず悲鳴を上げて目を背ける。
リーダーであるマンミアも「いけない!」と叫び、手にしたパイルバンカーに手を伸ばした。
だが、対象であるマモルは、一歩も動いていなかった。
恐怖で硬直しているわけではない。
彼の極めて冷徹な数学的頭脳が、その一瞬の間に、すべての物理現象を演算していたのだ。
(斧の総重量はおよそ八十キロ。振り下ろしの初速、遠心力、そしてあいつ自身の体重と突進の慣性エネルギー。合計の破壊力は凄まじいが――)
力任せの攻撃ほど、ベクトルは単純になる。
合気道において、相手の力を真正面から受け止めることは愚の骨頂である。相手が出した力を、いかに効率よく別の方向へ流し、あるいは相手自身に還すか。
それが、理合というものだ。
(作用線は完全に一直線。ならば、軌道をわずかにズラすだけでいい)
斧の刃がマモルの額に届く寸前、コンマ一秒の世界。
マモルは、半身に構えていた身体を、スッとわずかに左へ開いた。
転換。
最小限の足捌き。マモルの身体が、斧の直撃軌道から数センチだけ外れる。
「なっ!?」
渾身の力で振り下ろしたはずの斧が、何の手応えもなく空を切ったことに、イグニスは目を見開いた。
自分の全体重を乗せた攻撃が外れれば、その反動は当然、自分自身に返ってくる。イグニスの身体が、斧の重みに引っ張られて前のめりに崩れかける。
だが、マモルの真の狙いはそこからだった。
「……ッ!」
空振りして地面に激突しようとする斧の柄に向けて、マモルは手にしていた三節棍を弾くように放った。
カチャッ、と金属音が鳴る。
三節棍の連結部分である鎖が、まるで生き物のように太い斧の柄に巻き付いた。
「なにィ!?」
イグニスが驚愕の声を上げた時には、すでに遅かった。
マモルは三節棍の端を握ったまま、イグニスの突進エネルギーと斧の遠心力を、自らの身体を軸とした円運動へと変換した。
合気の『呼吸投げ』の要領である。相手が前に進もうとする力に、自分の引く力を同調させる。
ベクトルが完全に反転し、増幅された。
「しまっ――!」
スポーンッ!
イグニスの分厚い掌から、巨大な両手斧がすっぽ抜けた。
いや、むしり取られたのだ。
マモルの三節棍に絡め取られたバトルアクスは、そのままの勢いで宙を舞い、訓練所の隅にある頑丈な木製の丸太標的にズドンッ! と深々と突き刺さった。
「あ……」
最大の武器を失い、さらに重心が完全に前へ流れたイグニスは、無防備な体勢でつんのめった。
そこへ、マモルの三節棍が容赦なく襲いかかる。
奪い取ったのとは逆の端を振るい、イグニスの膝裏の関節を的確に打ち据えた。
骨を砕くような一撃ではない。だが、神経の束が集中する急所へのピンポイントな打撃は、竜人族の強靭な下半身から一瞬にして力を奪い去った。
「グワァッ!?」
膝から崩れ落ちるイグニス。
倒れ込む巨体に合わせ、マモルは流れるような動作で相手の背後へ回り込んだ。
イグニスの右腕を捕らえ、手首を極め、そのまま肩、肘の関節を限界まで捻り上げる。そして、イグニスの背中に自分の膝を押し当て、完全に動きを封じた。
「イデデデデデデデッ!! 折れる! 折れるゥゥッ!」
訓練所に、巨漢の竜人が発する情けない悲鳴が響き渡った。
マモルは、汗一つかかずに、冷ややかな視線でイグニスを見下ろした。
そして、あくまで淡々とした、教師特有のトーンで語りかける。
「痛いか?」
「い、痛ェよ! 腕が千切れるッ!」
「そうか。お前が力任せに振るった暴力は、それ以上に痛いものだ。だいたい、感情に任せて大振りの攻撃をするなど、隙だらけにもほどがある。もし実戦なら、今のでお前は死んでいたぞ」
マモルは手首の極めを、ほんの数ミリだけキツくした。
「ギブ! ギブギブギブ! 参ったああああ!」
地面をバンバンと叩き、完全降伏のサインを出すイグニス。
マモルはそれを見て、静かに極めを解き、スッと立ち上がった。
「……よし。これで補習は終わりだ。次からは、もう少し頭を使って戦うことだな」
ワイシャツの埃をパンパンと払い、何事もなかったかのように三節棍を布袋にしまう。
その背中は、凶悪な魔物を討伐した英雄のそれではなく、放課後の指導を終えて職員室に帰る教師の背中そのものだった。
* * *
訓練所は、水を打ったような静寂に包まれていた。
誰もが、目の前で起きた出来事を理解できずに固まっている。
あの、ポポロ村の自警団の中でも一、二を争う腕力を持つ竜人のイグニスが。
魔法も、闘気も使えない、ただの細身の人間の青年に。
一切のダメージを与えることもできず、それどころか相手に指一本触れることすら叶わず、一瞬で地面に組み伏せられたのだ。
「あ、あのイグニスが……一瞬で……?」
マンミアが、信じられないものを見るような目でマモルを見つめていた。
彼女には見えていた。マモルがイグニスを倒した際、そこには圧倒的な暴力の応酬など存在しなかった。ただ、イグニスの力を利用し、理詰めで制圧しただけだ。
それは、実戦を生き抜いてきたマンミアから見ても、あまりにも洗練された、無駄のない技術の極致だった。
「やったああああっ♡ やっぱりマモルさんね♡ 信じてたよ!」
静寂を破ったのは、キャルルの嬉しそうな歓声だった。
彼女はウサギの耳をピンと立たせて跳ね回りながら、マモルの元へと駆け寄ってきた。
「マモルさん、カッコよかった! ほらね、私の言った通りでしょ!」
「おいおい、勝負は時の運だ。今回はたまたま、相手が熱くなって自滅しただけさ」
マモルは苦笑しながら、謙遜してみせる。だが、その言葉が逆に彼の底知れなさを際立たせていた。
一方、真守の足元には、いつの間にかリーザがスライディングで滑り込んできていた。
「マモルP……! なんという男らしさ……! やはり貴方様の財力と武力は、私を養うためにあるのですわね! 何処までも、何処までも養って貰いますぅぅぅ!」
「お前は本当にブレないな。足にしがみつくな、歩きにくいだろ」
真守がリーザを引き剥がしていると、ようやく痛みが引いてきたイグニスが、ふらつきながら立ち上がった。
彼は自分の両手をじっと見つめ、それからマモルの方を向いた。
「……あんた」
イグニスの声には、先ほどまでの刺々しい反抗心は消え失せていた。
代わりに宿っていたのは、純粋な強者に対する畏敬の念だった。
「あんた……一体何者なんだ? その細腕で、どうやって俺の斧を……」
「だから言っただろう。俺はただの数学の教師だ」
「教師がそんなことできるかよ……っ」
イグニスは毒づいたが、その表情はどこか晴れやかだった。
竜人族は、力こそすべての種族だ。自分を完膚なきまでに叩きのめした相手を、尊敬することはあっても憎むことはない。
イグニスは、真っ直ぐにマモルの前に立つと、深く頭を下げた。
「……悪かった。俺が井の中の蛙だった。あんたの強さは本物だ」
「分かればいい。……怪我はないな?」
「ああ。不思議と、関節が痛かっただけで、折れちゃいねぇ。あんた、俺を殺そうと思えばいつでも殺せたんだろ?」
「教師が生徒を殺してどうする。それに、俺は無駄な殺生は嫌いなんだ」
その言葉を聞いて、イグニスはフッと笑った。
「マモル先生……いや、『先生』と呼ばせてくれ。俺に、あんたのその技を教えてくれないか?」
イグニスの言葉に、周囲の団員たちも次々と「俺にも!」「私にも教えてください!」と声を上げ始めた。
先ほどまでの侮蔑の視線は、今や完全な尊敬と期待の眼差しへと変わっている。
「……やれやれ。まあ、俺にできる範囲の助言ならしてやるよ」
マモルが肩をすくめてそう言うと、訓練所は割れんばかりの歓声に包まれた。
こうして、地球のしがない数学教師は、異世界の血気盛んな若者たちを、一切の魔法もチートも使わずに、ただの物理法則と合気道だけで完璧に『わからせた』のである。
それは、マモルという男の器の大きさを、ポポロ村の住民たちに深く刻み込んだ瞬間だった。
(しかし……これじゃあ、平穏なスローライフからはどんどん遠ざかっている気がするな)
大はしゃぎするキャルルと、足にすがりつくリーザを引きずりながら、マモルは内心で深くため息をつくのだった。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます!
「合気道と物理演算のカウンター、気持ちよすぎる!」
「イグニス、綺麗にわからされたな笑」
「マモル先生のオカン力と大人の余裕がカッコいい」
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次回、第10話「知略の鬼と秘伝書」!
マモル先生のウワサを聞きつけ、今度は知的な変異種(樹人)が家に押し入ってきます。お楽しみに!




