影
風の匂いが変わったのは、十月の終わりだった。
朝の空気がひんやりして、吐く息が白くなり始めたころ、
学校の廊下にひとつの噂が流れ始めた。
「また、事件が起きたらしいよ」
誰かの小さな声が、静かな教室に波紋を広げた。
最初はただの噂だと思っていた。
でも昼休み、職員室の前で教師たちが真剣な顔で話しているのを見て、胸の奥がざわついた。
放課後、かえでが私を見つけて駆け寄ってきた。
「みか、ニュース見た?」
「見てない。何かあったの?」
「町外れの河原で、女の人の遺体が見つかったんだって。……田角先輩のときと、似てるんだって」
私は思わず足を止めた。
「似てるって、どういうこと?」
「傷の位置とか、持ち物の残り方とか……ニュースで言ってた。あとね、手の甲に——」
かえでは言葉を切った。
「手の甲に、切り傷があったんだって。前の事件とまったく同じ場所」
教室のざわめきが遠くでこだましていた。
世界が音を失っていくように感じた。
息をすることすら、痛かった。
ニュース番組の映像では、現場が青いシートで覆われていた。
河川敷の草むら。無数のカメラのフラッシュ。
アナウンサーの声が淡々と伝える。
「本日午前、〇〇市の河川敷で女性の遺体が発見されました。首の右側に深い傷があり、県警は先月起きた殺人事件との関連を調べています——」
画面の下には、見慣れた地名が映っていた。
私たちの町から、車で三十分ほどの場所。
まるで、何かがこちらに近づいてくるような感覚がした。
「どういうこと……?」
母が呟いた。
「だって、あの犯人は捕まってるんでしょ?」
私は返事ができなかった。
ニュースの映像が、まるで私の記憶を掘り起こすようだった。
——田角先輩の冷たい手。
——切り傷の角度。
——あの、掴もうとしていた空気。
テレビの光が部屋の中を淡く照らし、私の手のひらに、またあの時の冷たさが蘇る気がした。
翌朝、学校は再び騒然としていた。
「やっぱりあの不良グループ、嘘だったんじゃない?」
「冤罪じゃん……ニュースでも『供述に不自然な点』って言ってたよ」
「まじでやばくない? 警察どうなってんの?」
生徒たちのざわめきが交錯する中、私は席に座ったまま、手を組んでいた。
指先が冷たい。
あのとき「捕まった」と聞いて、安心した自分がいた。
あの不良たちの顔も知らないまま、「犯人」という言葉を信じていた。
——信じたかっただけだったのかもしれない。
「みか、大丈夫?」
かえでが心配そうに覗き込んだ。
「……ねえ、私たち、もう一回あの事件を調べよう」
「え?」
「だって、このままだとまた誰かが——」
言葉の途中で喉が詰まった。
かえではしばらく黙ってから、小さく頷いた。
「……分かった。やろう。二人で」
彼女の声は真剣だった。
その表情を見て、少しだけ救われた気がした。
その日から、私たちは放課後の図書室に通うようになった。
地元新聞のバックナンバー、事件の記事、県警の会見記録——
調べてみると、いくつもの小さな「矛盾」が見つかった。
最初の事件で押収された田角先輩の財布。
指紋の決め手とされた男の証言には、空白の時間があった。
そして何より、凶器がまだ見つかっていない。
「じゃあさ、あの人たちが犯人じゃなかったら……誰が?」
かえでが呟いた。
私は首を横に振った。
誰なのか、分からない。
でも確かに、何かがずれている。
「ほら、見て。二つ目の事件、遺体の発見現場に“目撃者はいない”って書いてある」
「うん」
「でもさ、遺体の状態が“前回と酷似”って、どうやって分かったの? 誰かが見てるってことじゃない?」
かえではノートに赤いペンで線を引きながら言った。
私は唇を噛んだ。
言われてみれば、確かにおかしい。
まるで、誰かが——「見せた」ように思える。
図書室の窓の外で、夕陽が落ちていく。
橙から群青へ、空の色が変わるたびに、
田角先輩の笑顔がぼんやり浮かぶ。
「ねえ、かえで」
「なに?」
「田角先輩、あの日、誰かに呼ばれたようになってたの覚えてる?」
「うん。……覚えてるよ」
「もしかしたら、その“誰か”がまだ、この町にいるのかもしれない」
かえでは黙っていた。
ペン先を止めたまま、目だけをこちらに向けていた。
「……そうかもね」
そう言った声は、どこか遠く感じた。
彼女の横顔が、夕焼けに照らされて赤く染まる。
その影が、ゆっくりと机の上を伸びていった。
帰り道。
駅前のコンビニのガラスに、私たちの姿が映っていた。
制服の襟を直すかえでの手。
少し疲れたような自分の顔。
「これからどうする?」
「新聞の人に話を聞いてみたい。最初の事件の記事を書いた記者さん」
「……危なくない?」
「分かんない。でも、確かめたいの。もう誰かが間違って捕まるのは嫌だから」
かえではしばらく黙ったあと、静かに言った。
「……分かった。私も行く」
夜風が吹き抜け、落ち葉が足元を転がった。
その音が、やけに大きく響いた。
数日後、私たちは駅前の喫茶店で記者と会った。
若い男性で、どこか落ち着かない様子をしていた。
「田角さんの事件? あれはな、変だったよ」
「変……?」
「うん。警察が“早く終わらせたがってた”。世間が騒いでたから、とにかく誰かを捕まえたかったんだろうな」
男はコーヒーをかき混ぜながら、低く笑った。
「でもな、俺は見たんだ。現場近くの防犯カメラの映像。
あの夜、田角さんと一緒にいたのは、あの不良じゃなかった」
「じゃあ、誰が——」
「顔は映ってなかった。けど、女だった」
その言葉に、心臓が一拍遅れて跳ねた。
「髪が長くて、細い体。」
帰り道、誰も喋らなかった。
街の灯りが点滅するたびに、心の中で何かが軋んだ。
女の人——。
それが誰なのか、私は考えたくなかった。
でも、避けるほどに、胸の奥がざわめいた。
風の中に、あの日の冷たい匂いが混ざっている気がした。
「ねえ、かえで」
「ん?」
「もし、犯人が女だったら……どう思う?」
「さあ。男でも女でも、関係ないよ」
「でも、田角先輩のこと、恨む理由なんて女の人には——」
「分からないよ。人の心なんて」
かえでは笑って言った。
けれど、その笑みは、いつものものではなかった。
夜風に吹かれながら歩く彼女の背中を見て、
私はなぜか言葉を失った。
——田角先輩を呼んでいた“誰か”。
——映像に映っていた“女の影”。
その二つが、少しずつ重なり合っていく。
まだ確信には至らない。
けれど、胸の奥で何かが形を持ち始めていた。
その形に気づくことが、どれほど恐ろしいことなのか、
そのときの私は、まだ知らなかった。
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次の話は明日8:00ごろを予定しております。
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