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心の底に沈むもの

 教室の窓から見える校庭は、季節をひとつ越えていた。

 夏の名残を残した風が、乾いた砂を舞い上げては遠くへ運んでいく。

 部活動の声も、チャイムの音も、どこか遠くの世界の出来事みたいに聞こえた。

 私はその日も、ノートを開いたまま、何も書けずに時間を過ごしていた。

 田角先輩の事件が「解決」してから二週間。

 なのに、私の中では何も解決していない。

 ——あの朝、見てしまったもの。

 あの冷たい空気の中で、何もできなかった自分。

 記憶は、波のように押し寄せてきては、何度も私を飲み込んだ。


 「月野、最近元気ないな」

 担任の先生が放課後、そっと声をかけてくれた。

 「大丈夫です」

 そう答えながらも、目を合わせることができなかった。

 先生はそれ以上は何も言わず、職員室の方へ歩いていった。

 背中が小さくなっていくのを見送りながら、私は机の上の指先を見つめた。

 誰かが触れた形跡もない。

 なのに、そこには確かに「触れなかった痛み」が残っていた。


 帰り道、かえでが校門の前で待っていた。

 「みか、帰ろ」

 彼女はいつものように部活バッグを肩にかけ、少し息を弾ませていた。

 「最近、部活来てないじゃん。先生も心配してたよ」

 「……うん」

 「無理しなくていいけど、外出た方がいいって。ずっと家にいると、考えちゃうでしょ?」

 かえでは軽い調子で言ったけれど、その声の奥に、心配の色が滲んでいた。

 私は小さく頷いて、並んで歩き出した。

 街灯が一つ、また一つと灯る。

 沈みかけた太陽が、二人の影を長く伸ばしていた。


 家に帰ると、母が夕飯の支度をしていた。

 包丁の音と、煮物の匂い。

 そのすべてが、なぜか現実感を失っていた。

 食卓につくと、母がぽつりと呟いた。

 「……あの事件、犯人が捕まっても、気持ちは楽にならないものなのね」

 「うん」

 「学校の人たち、何か言ってこない?」

 「別に」

 

 

 ほんとうは違う。

 


 廊下ですれ違うたびに、誰かの囁きが聞こえる。

 「死体、見つけた子だよね」「怖くないのかな」「あの子、泣かなかったんだって」

 そんな言葉が、私の背中に貼り付いて離れない。

 私は無言で箸を置いた。

 母はそれ以上、何も言わなかった。


 夜。

 眠れないままベッドの上で天井を見ていると、スマホが震えた。

 ——かえでからだった。

 『眠れないなら電話しよっか』

 私は少し迷ってから通話ボタンを押した。

 「みか?」

 「うん」

 「……なんかさ、私、田角先輩夢に出てきた」

 「え」

 「笑ってた。すごく優しい顔で。だから、ちょっと救われた気がして」

 かえでの声は少し震えていたけれど、穏やかでもあった。

 「みかのこと、怒ってる人なんていないよ。あの人もきっと分かってる」

 「……そうかな」

 「そうだよ。だって、あんたがどんな子か、私が一番知ってるもん」

 その言葉に、胸の奥がじんわりと熱くなった。

 電話を切ったあと、私は久しぶりに涙を流した。

 理由も分からないまま、ただ涙が止まらなかった。


 次の日から、私は少しずつ外に出るようになった。

 かえでが放課後に部室に誘ってくれて、一緒にボールを触る日も増えた。

 シュートを打つたびに、心の中の何かが少しずつ戻ってくる気がした。

 「ほら、みかのフォームまだきれいじゃん」

 かえでが笑う。

 「久しぶりに見たら、なんか懐かしいな」

 「懐かしい?」

 「うん、最初にバスケ誘った時もこんな感じだった」

 その時の彼女の笑顔は、まるで事件なんてなかったみたいに自然で、まぶしかった。

 あの頃のかえでに戻ったみたいで、私はほっとした。


 けれど、夜になるとまた、静寂が押し寄せる。

 暗い部屋の中で、天井の影がゆっくり動く。

 遠くで犬が吠え、時計の針が小さく刻む音が響く。

 ——助けられなかった。

 その言葉だけが、何度も浮かんでは沈んでいく。

 夢の中では、あの朝の光景が繰り返された。

 田角先輩の唇が、かすかに動く。

 声は聞こえない。

 ただ、言葉にならない何かを私に託そうとしていた。

 目を覚ますたびに、心臓が強く打ち、喉が渇いていた。


 ある日の朝、登校途中にふと立ち止まった。

 通学路の途中にある小さな祠の前で、花が新しく供えられていた。

 誰が置いたのか分からない。

 紫色のリボンで結ばれた花束。

 ——田角先輩が好きだった色だ。

 胸がざわついた。

 誰かが、まだこの事件を忘れていない。

 いや、忘れようとしていない。

 風が頬を撫で、リボンの端が揺れた。

 その瞬間、背後からかえでの声がした。

 「……みか?」

 振り向くと、彼女がそこに立っていた。

 制服の裾を風になびかせながら、少し驚いたような顔をして。

 「こんなとこで何してるの」

 「……花、供えてある」

 「誰かが置いたんだね」

 かえでは花束に視線を落とし、静かに手を合わせた。

 その横顔は、どこか祈るように美しかった。

 しばらくの沈黙のあと、かえでは小さく言った。

 「……大丈夫。少しずつでいいから、前に進もう」

 私はその言葉に頷くことしかできなかった。


 夕暮れの校舎。

 かえでと二人で昇降口を出ると、茜色の光がグラウンドを染めていた。

 風の匂いが、夏のぇ終わりを告げていた。

 「ねえ、みか」

 「うん?」

 「もし、あの事件のことを完全に忘れられたら、それって幸せなんかな」

 「どういう意味?」

 「わかんない。忘れたら楽になるかもしれんけど、なんかそれも違う気がして」

 かえではそう言って笑った。

 その笑みはいつもの明るさを装っていたけれど、

 目の奥には、消えない影があった。

 その影を、私はその時、深く考えようとはしなかった。

 ——かえでもまた、苦しんでいるんだ。

 そう思っただけだった。


 その夜、私は再び夢を見た。

 田角先輩が、静かにこちらを見つめている夢。

 その背後には、もう一つの影があった。

 形ははっきりしない。

 でも、なぜか——見覚えがある気がした。

 誰なのかを思い出そうとした瞬間、目が覚めた。

 窓の外では、朝焼けが静かに広がっていた。

 



前作のランクインありがとうございます。

明日22:00ごろに次に話を出す予定です。

高評価をおねがいします。

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