灰吹きから蛇が出る(6)
手が熱い。じんじんする。燃え上がりそうなほど熱い。
必死に何も考えないようにしようとしたが、ふと気がつくと右手に意識が向かってしまう。手があの時と同じ形を作っている。あの、柔らかくて大きいものに触れた時と同じ形を。
藤原のおっぱいってこんな形してるのか……やっぱでけえな……。心の中でそう呟いてから、翼はハッと顔を青くした。
やめろやめろ、マジでやめろ! そんなこと考えてる場合じゃねえ! 今あいつは腕なし様の牙が刺さって重傷なんだぞ? すっげー痛そうだったのに俺めっちゃキモい妄想して……普通に最低だ!
無表情を取り繕ってはいるものの、頭の中は沸騰寸前だった。腕なし様の牙が刺さった痛みに絶叫する彼女を見て咄嗟に動いたあの時のことが大昔のように感じられた。少しでも痛みを和らげることができればと思って飛び出したはいいものの、まさか彼女の胸を触ってしまうなんて。
可哀想だったろ! めっちゃ痛そうで!
痛みに耐えながら大丈夫だと無理していた彼女の姿を思い出す。痛々しいその姿を想像すれば、脳内を埋め尽くすこの場違いな感情も吹っ飛ぶはずだ。だが、気付けば想像上の彼女の上半身の服がどこかへ消えていた。彼女の痛みに呻く声が、高くてどことなく扇情的な声に変わっていく。丸くて柔らかい乳房の頂点にある突起は見えない。なぜなら、自分が彼女の胸を揉んでいるから……。
マジでやめろ!
翼は脳内の自分に向かって思いきり吠えた。
こんなことぜってえ本人に言えねえ……いや言うつもりもねえけど! 光宗と都にもバレたくねえ! 落ち着け! 落ち着け!
唇を真一文字に結び、硬い表情のまま微かに両手の指を動かしている弟を見て、椿は心の底から訝しげな顔をしていた。
木々を鮮やかに彩る葉が、風に吹かれて揺れている。艶やかな着物を着崩した女性とコルセットのついた可愛らしいデザインの着物を着た少女は、山上からどこかを見下ろして苦々しげな表情を浮かべていた。
「チッ」
少女が思いきり舌打ちをする。
「ほんと最悪」
少女はブツブツと続けた。
「ちょっと目を離してる隙に名前もない田舎の蛇に好き放題させちゃった。マジで屈辱」
少女は意を決した様子で続けた。
「もう黙って見てられない。あたしも動くから」
少女の言葉に、女は目を開いた。少女の顔を見て眉をひそめる。
「何か方法があるって言うのかい?」
疑わしげなその顔を見て、少女は唇を尖らせた。
「何その感じー。ふふん、ちゃんと考えてるんだから。……そっちこそ、せっかく海の奴ら利用しといて一人しか殺せなかったじゃない」
不満げに言う少女に、女は気まずそうな顔をする。
「あの時の一番の目当てはそれじゃない。陰陽師たちを揺さぶることが目的だったんだ」
「はい言い訳ー。あたしだったらもっと殺してやったのに。今回はあんたも手伝ってよね」
少女はわざとらしく残念そうな顔をしてから、口元を半月型に歪ませた。そして、ギラギラと光る目を細めてにやりと笑う。
「姫君は絶対にあたしが連れ戻してみせる」
数時間後、陰陽団基地東京支部のいつもの部屋に集合した仲間たちは、右腕に包帯を巻きつけただけでピンピンしている柚子を見て驚愕の表情を浮かべていた。
「大丈夫なの?」
深刻な声で尋ねる椿に、柚子は平然と答える。
「うん。腕なし様の牙に毒とかもなかったし、運良く骨は折れてなかったから、薬塗ってればそのうち治るって」
「あれで骨折れてなかったってマジか……?」
涼介が信じられないという声で呟いた。
「でも今日はもう安静にしてなね」
部屋の端の机に頬杖をついていた群治郎が言う。
「はーい」
柚子は気の抜けた返事をした。
「……すごく痛そうだったけど……」
沙也香が自分も痛みを感じているかのように顔を歪めながら言う。
「めっちゃ痛かったのはほんと! でも傷はそこまでじゃなかったの」
柚子がそう返すと、沙也香と椿は顔を見合わせた。
「まあ、大丈夫ならよかったよ」
勝元がそう言いながら柚子の隣に腰かけた。
「まあ……」
涼介が曖昧に声を上げる。
「そりゃもちろんそうだけど……お大事にね」
「お大事に」
沙也香と椿も続けて言う。柚子は「ありがとう」と返したが、一人だけ何も言わないままだ。勝元が怪訝な表情で翼の方を見た。
「一橋くんどうしたの?」
勝元の言葉につられて一同は翼に視線を向けた。翼は無言でぼうっとしていたが、声をかけられてようやくハッと我に返った。
「あ! わ、わりい……えと、その、ふじっ、藤原……」
翼は急激に顔を真っ赤にさせたかと思えば、パクパクと口を開いたり閉じたりし始めた。そればかりでなく、目を泳がせて大量の汗もかいている。柚子が翼の顔を見上げると、彼と目が合った。翼は変な顔をして目を逸らした。
翼のよく分からない言動にポカンとする仲間たちをよそに、柚子は彼が自分に対してどういう感情を抱いているのかを瞬時に理解した。見慣れているのですぐに分かる。だが、どうして急に?
「お、おお、お大事に……」
翼は上擦った声でそう言うと、いつも座っている席に急いで腰かけた。一同は呆然としていたが、やがて沙也香も柚子の後ろである翼の隣の席に、椿と涼介は柚子と勝元の隣の机に向かう。
「話って何かな?」
「……昇格の話かな」
柚子が言うと、勝元が答えた。
「聞きたいことは他にもたくさんあるわ」
椿が静かに言う。その瞬間、部屋の襖が開いた。入ってきたのは太郎にあきら、咲也、そしてつぐみだ。
「みんなお疲れ様」
太郎が言う。柚子たちは軽く頭を下げた。
「今日は非番にも関わらずありがとうね。……みんなまだ子供なのに責任感強いねえ。まあ、組織としてはありがたいんだけど」
太郎がおおげさに肩をすくめながら言うと、隅にいる群治郎が普段よりも荒々しい声を上げた。
「だから俺は言ってるんですよ。入団は十八歳以上からでいいじゃないですかって」
「まあ……群治郎くんの言いたいことは分かるけど。聖ゲオルギオス騎士団とか、今は二十一歳以上じゃないと入れないしね」
太郎の言葉に柚子は首を傾げた。
「聖ゲオルギオス騎士団って?」
翼が問う。
「世界で最も規模の大きい対モンスター組織だよ。陰陽団よりもずーっと大きい。本部はローマにあって、世界中各国に支部がある。昔はキリスト教徒の男性しか所属できなかったんだけど、今は二十一歳以上なら誰でも入団試験を受けられるんだ。それでもやっぱり大多数がキリスト教徒だけどね」
入団試験の難易度も陰陽団の比じゃないよ。太郎がそう付け加える。柚子は目を瞬いた。
「他にもそういう組織があるんだ……」
世界で最も規模が大きいということは、当然他にも似たような組織があるということだ。妖怪が出るくらいなのだから、他の国でもその文化圏に生息するモンスターがいるのだろう。言われてみれば当然のことだが、考えたこともなかった。
「まあ、子供が危険な戦いに参加して妖怪に殺されることに関してはもちろん僕もよくは思ってないけど……でも、結果的にこれでよかったんだよ」
太郎はそう言って意味ありげに微笑んだが、その笑顔の意味は分からなかった。
「……さて、その『子供』である君たちに朗報だ。大人はいい顔しないかもしれないけどね」
太郎はそう言って四人の大人たちの顔をチラッと見た。柚子たちは思わず背を正す。
「話を聞いたところ、腕なし様は君たちが今までに戦った妖怪たちとは明らかに格が違った。戦い慣れてこそいなかったみたいだけど、咲也くんの言うように彼女は妖堕ちした元神様で、かなりポテンシャルが高かった。その妖怪相手に君たちは賢く、力強く立ち回った。被害も建物がちょっと破壊されたのと軽い負傷者が一人だけ」
仲間たちが自分を見ているのが分かったが、柚子は無視した。
「君たちの妖怪討伐数はまだそこまで多くないけど、戦歴は立派なものだ。そもそも、ちゃんと陰陽師になる前からちょいちょい妖怪と戦ってるしね。よって、今この瞬間から君たち六人を三級陰陽師として認めます」
おおっ、と部屋の中に小さく声が上がった。
「これであきらくんも君たちが積極的に戦おうとすることに対して文句が言えなくなるよ!」
やけにいい笑顔で言う太郎に、あきらは感情の読み取れない光のない目を向けていた。
「今までは弱い妖怪相手の簡単な任務しか任せなかったけど、これからはもっと戦ってもらうよ。もちろん、まだ当分の間は今まで通りあきらくん群治郎くんに見てもらうけどね」
太郎はそう言うと、一息ついて続けた。
「さて……次に話すのは腕なし様のことについて。さっき勝元くんたちに少し話を聞いた上で、咲也くんとつぐみくんにいろいろ調べてもらってたんだ。二人とも、頼むよ」
太郎が咲也とつぐみに目配せする。二人は頷いた。咲也が一歩前に出た。
「まずは今回の話を少し整理するよ。みんなもある程度情報を共有していると思うけど、さっき言った通り腕なし様は元神様。水神だったんだ。そして、みんな当たり前のように腕なし様って呼んでるけど……それは前にみんなが遊んだおまじないからつけられた名前だよね?」
咲也の言葉に、涼介以外の三級陰陽師たちがまばらに頷く。
「『腕なし様』。僕が水地小にいた頃は『脚なし様』とも呼ばれていた。その正体は腕も脚もない蛇の姿をした水神。腕なし様は、奈良時代の頃にとある村落の人たちと契約を結んで、生贄を捧げてもらう代わりにその人たちの生活を守っていたんだ。その時に生贄として捧げていたのが馬、牛、そして女の人。その儀式が回り回って違う形で語り継がれて、『腕なし様』というおまじないが作られていった」
咲也が一呼吸置く。みんな黙って話を聞いていた。
「その村落はある時、一人を残して滅んでしまったんだ。腕なし様は信仰を得られなくなり、弱ってやがて妖怪へと堕ちてしまった。だけど、その『腕なし様』のおまじないで『どうぞ』と言った人たちの生気を奪って徐々に力をつけていった、っていうのが僕の見解だ。そして、多分それは合ってる。……みんなが他のお友達も含めて九人でおまじないをやったって話を聞いたよ」
一同の表情が僅かに強ばった。あきらが怒った声で「なんですって?」と呟いたが、咲也は反応せずに続けた。
「その時、柚子ちゃんがおまじないを中断したとも聞いたよ。そして、腕なし様が怒って椿ちゃんに一瞬だけ取り憑いて現れた。でもみんな負けなかった。それで柚子ちゃんは腕なし様の怒りを買ってしまったんだね」
咲也はあくまで白面金毛にまつわる話には一切触れずに嘘を交えて説明するつもりのようだ。柚子は少しホッとしていた。恐らく柚子の正体を知る太郎たちは本当の話を知っているのだろうが、ここではその方が安心できる。
「そこで、腕なし様は柚子ちゃんに復讐する方法を考えて、なんだろう、周りのお友達を殺すという作戦を思いついたのかな。まず始めのターゲットに勝元くんを選び、近づいていった」
柚子は控えめに頷いた。勝元と沙也香、椿も頷いている。
「陰陽師として軽率な行動は避けようね……と言いたいところだけど、まあ、いつ何が起こるかは分からないよね。でも、とりあえずそういった類のおまじないはもうやらないように」
咲也がしっかりとした声で言った。一同がか細い声で「はい」と返事する。咲也は満足げに深く頷いた。
「陰陽師としての才能がある君たちには多少なりとも霊力がある。『狐狗狸さん』とかも危険だからだめだよ! 実際にその土地にいる厄介な動物神とかを呼んじゃって面倒なことになったりする可能性があるからね」
そんなこともあるんだ……。柚子は心の中でこっそりと呟いた。つくづく不思議な世界だ。自分もその一部だというのにいつまで経ってもよく分からない。
「それで、柚子ちゃんたちの同級生の……えっと、加賀智江里さんという子が腕なし様だったんだよね?」
咲也の言葉に再び頷く。そこで、柚子は何かがおかしいということに気がついた。数分ほどしか椿に取り憑くことができなかった腕なし様の正体が加賀智江里? それは変だ。人間に化けることが可能なら、あの時椿に取り憑く必要などなかったはず。つまり、加賀智江里は椿の後に取り憑かれたということではないか? しかもかなり長い間……。
嫌な感じがする。ざわざわと胸騒ぎがする。柚子は息が荒くなってくるのを感じていた。本物の加賀さんはどこにいるの? 無事なの?
「みんなが腕なし様を倒した直後、警察にある通報が届きました」
今度はつぐみが口を開いた。普段の溌剌とした様子はなく、事務的な口調だ。
「荒川の……四方通り近くの橋から見えるところに、何か奇妙なものが浮いているって」
つぐみ以外、誰も口を開こうとしない。
「そしてそれは、死体だということが分かりました。でも、おかしなところがあって……水死体ってね、その、時間が経つとどんどん膨らんで色が変わっていくの。まずは体内に発生する腐敗ガスの影響で……」
「つぐみちゃん、今はその話はいいよ」
勝元たちの顔を見た咲也が、そっとつぐみに声をかけた。
「あ、すみません。えと、それで……その、簡単に言うと、その死体は数時間前に誰かが川に落ちて死んでしまった、という状態ではないくらい時間が経っているものだったんです。これから解剖とかもされると思うけど、その死体は……なんて言うのかな、その状態であること以外は完璧な状態だったの。流されてきた形跡もない、魚に食べられた形跡もない、で逆に不審で……何か妖怪に関係があるかもしれない、ってことでついさっき警察から陰陽団に連絡が来たんだ。なので、みんなが戦い終わってしばらく話してる間、団長と私と何人かの陰陽師、それから超対の人たちでその様子を見てきました」
つぐみがそこまで説明を終えると、今度は再び太郎が口を開いた。
「腕なし様に殺された加賀智江里さんの死体だと言ってほぼ間違いない。恐らく死後から一ヶ月以上経っている」
柚子はガツンと鈍器で脳天を殴られたような衝撃に襲われた。柚子だけでなく、みんな顔面蒼白で愕然としている。
「もしかして、ナンパから助けた時にはもう死んでたってこと……?」
勝元が額に手を当てて呆然と呟いた。
「急いで調べてきたけど、ご家族もみんな殺されている。腕なし様、とやらは勝元くんに近づくために少女を何らかの方法で溺死させて成り代わり、自分の変化に気付きそうな身近な存在も全員殺していた。ご友人たちは無事みたいだけど、周りの子たちはどこまで分かっていたかも分からないから、こっちは今も調査中だ」
「そんな……」
柚子は掠れた声で囁いた。両手で口を押さえて必死に声を堪える。気を抜いたら叫んでしまいそうだった。
私のせいだ。また私のせいで人が死んだ。私が生きてるせいで、何も関係のない罪のない人が死んだ。
もう無理だ。耐えられない。どうして自分が生きているのか分からない。私なんて死んじゃえばいいのに。それだけでこの世界の人たちはどれほど安心して生きていられるか。なんで? なんでこんな思いをしなくちゃいけないの? 団長はなんで私を生かしてるの? 殺していい理由があるんだから殺してほしい。もう何も考えたくないよ。
「現時点では君たちの学校に真実を伝えようと思ってるけど、生徒たちには本当のことは言わないだろうね。でも、君たちは陰陽師だから事実を伝えるよ」
太郎の声がどこか遠くから聞こえてくるようだった。彼が何と言っているのかも聞き取れなかった。勝元が真剣な表情でじっと自分を見つめていることにも気づかなかった。ただただひたすらに気分が悪かった。
本当の加賀さんはどんな人だったのかな。柚子はそんなことを考えた。きっと、腕なし様なんかよりもずっと良い人だっただろう。妖怪に恨みを持つ元神様に殺されていい理由なんて、一つもなかったはずだ。
こんなこと、考えたくもなかった。
もう限界。私はどうすればいいの……。




