めざめ(4)
群治郎の発した言葉に、柚子は声を返すことができなかった。
妖怪? 確かに、夜遅くに一人で出歩いていると、妖怪が後ろをついてくるという冗談めいた話は昔聞いたことがある。要は、子供に言うことを聞かせるためのお伽噺のようなものだと思っていた。でも私が妖怪って? なんで? どういうこと?
事態が理解できず、群治郎と女性を交互に見つめる。女性が立ち上がって不機嫌そうに腰を当てた。
「何言ってるの?」
「見ちゃったんだよ。この子が九本の尻尾出してるところ」
群治郎がそう言うや否や、女性の顔色がサッと変わった。女性は群治郎の胸倉を掴み、先程までの冷静さはどこへやら大声で怒鳴り散らす。
「ほ、本当に見たの? この子が……この子が、白面金毛の娘だって?」
「ばっちり見たぜ」
群治郎は女性の凄まじい気迫に怯むことなく答えた。女性は手を離すと、溜息をつき、険しい顔で柚子を見つめた。それから、群治郎の腰のホルスターから拳銃を抜き取り、柚子に突きつける。柚子は息を呑んだ。
「お前の計画はここで終わりだ」
女性は声を絞り出して柚子を睨みつけた。柚子はまるで凍りついたかのように固まっていた。どうすればよいのか分からず、無理矢理拳銃から視線を逸らす。その時、ハッとして柚子は勢いよく顔を上げた。額が銃口を掠めそうになる。
「い、一匹逃げました!」
慌てて声を上げる柚子を見て、群治郎と女性は目を見合わせた。やがて、群治郎が再び柚子に視線を向ける。
「……」
群治郎は黙って女性から拳銃を取り上げた。
「ちょっと!」
「鎌鼬は基本的に三匹一緒に行動する。なんで二匹しかいねえんだと思ってたところではあったな」
「何言ってるの?」
群治郎が冷静に言った。女性が信じられないという声で言った。
「私たちを油断させるために演技してるのよ! 妖怪は同種や眷属にしか仲間意識がない。わざわざ教えてくれたのは他の妖怪なんてどうでもいいから!」
「それはそうかもな……でもとりあえず危ないから俺の武器は返して」
群治郎は考えながらそう言って拳銃を腰に戻すと、素早くスマートフォンを取り出し、誰かに「一匹逃げた。こっちはちょっと非常事態なんでよろしく頼むよ」と連絡を入れた。それから「まずは団長に報告しなくちゃな……」と呟き、やがて柚子の前に屈んで手を伸ばした。
「立てますか?」
柚子は逡巡したが、その手を握り返した。群治郎に支えてもらってようやく立ち上がる。
「もしかしてもう魅了されてるってこと?」
女性は途方に暮れた様子で愕然としていた。それから、キッと柚子を睨みつける。最初に声をかけてくれた時のような優しさは微塵も感じられなかった。
「……とりあえず、あきらは団長に連絡頼むよ」
群治郎が柚子の方を見たまま言う。
「……」
女性、あきらは苛立ちを一切隠さずに鼻で大きく息を吸いこむと、深く吐き出しながらスマートフォンを取り出して二人から少し距離を取った。舌打ちする音が聞こえてきた気がする。
「どうしてあんな弱い妖怪に襲われてたんですか?」
「え?」
急な質問に柚子は面食らった。知らない。突然見知らぬ人たちに絡まれて意味不明なことを言われたかと思えば、いつの間にこんなことになっていたのだ。何も分からない。柚子が黙っているのを見て、群治郎は眉をひそめて首を傾げた。
「俺の言っていることの意味が分かりますか?」
柚子は首を小刻みに横に振った。群治郎は困ったような顔でじっと柚子を見つめた。
「どの辺が分からない?」
「ぜ、全部……」
「全部?」
群治郎は繰り返した。それから、怪訝な顔で柚子を観察する。
「……前世の記憶がないのか? それともそういう演技をしてる?」
化け物に襲われるというただでさえ恐ろしい経験をしたというのに、理由も分からず大人から嫌悪感を剥き出しにされ、厳しい声で質問攻めにされて、柚子はすっかり怯えていた。何も言わずに目に涙を溜めて唇を震わせている柚子を見て、群治郎が僅かに目を見開く。次に口を開いた群治郎の声は、とても優しかった。
「ごめんなさい、怖かったですね。もう大丈夫。仲間が逃げたもう一匹を探してます。おじさんたち怪しいものじゃないよ。陰陽師っていうの。ほら」
しれっと出てきた馴染みのない言葉に驚いていると、群治郎は懐から名刺を取り出して一枚柚子に手渡した。そこには確かに「陰陽師」と記されている。名前は高畠群治郎。
「……」
柚子は未だに信じられない思いで群治郎の声を見上げた。表情に出ていたのか、群治郎が苦笑する。
「いや、怪しいか」
群治郎は自虐するように呟いた。
「簡単に言うと、妖怪と戦って人々を守る職業だよ」
「……妖怪」
柚子は呟いた。群治郎が「そう」と頷く。
「まあ、よく分かんないよね。妖怪が出てくることなんてほとんどないから、知名度は低い」
群治郎は低い声でそう言うと、柚子に笑いかけた。
「本当はすぐに家に帰してあげたいところなんだけど、ちょっとそうは言ってられない状況でね……何もしないでそのまま待っててくれますか? あいつを待ってる間、なんか質問があったら答えるよ」
群治郎の言葉に、柚子は少し迷ってから口を開いた。
虎城あきらはスマートフォンのコール音を聞きながら「早く出ろや……」と呟いていた。普段は抑えているが、怒ると口が悪くなってしまう。若い頃からの癖だ。
「はい、もしもーし」
十コールほど鳴ってからようやく相手が出た。やる気のない間延びした声に溜息が出そうになるのをどうにか堪え、必要最低限の言葉だけを発する。
「もしもし。虎城です」
「うん、知ってる。君の名前が画面に出てたからね。で? どうしたの?」
相手の緩い態度には腹が立つが、ここは耐えてきちんと連絡事項を伝えなければならない。なぜなら、電話の相手は自分の所属する陰陽団のトップである団長の山川太郎だからだ。
「白面金毛の娘を……見つけました」
太郎の返事はない。あきらは続けた。
「理由は不明ですが、鎌鼬に襲われているところを発見しました。状況整理もまだできていないのですが……パッと見、本人には妖怪である自覚がなさそうに見えます。前世の記憶もないようです。演技でなければの話ですが」
あきらは群治郎と少女の会話を眺めながら言葉を並べ、最後に嫌味っぽく付け加えた。太郎は何も返さなかったが、微かに笑い声のようなものが聞こえてきた。あきらは憎しみのこもった声で続けた。
「殺すべきでしょうか?」
あきらの言葉に、太郎はなおも黙り続けていたが、やがて軽い口調で答えた。まるで、今日の夕飯についてでも語るかのように。
「いや? 陰陽師にしよう」
太郎の返事を聞いた瞬間、あきらの目が大きく見開かれ、そして歪んだ。冷静ではいられず、群治郎たちに聞かれないようにと声は落としたままではあったが、強い口調で返す。
「陰陽師に? 奴のおかげでどれほど苦しめられたか分かってるんですか? 何が起きるか分かりません。無害なふりをして私たちを騙しているんですよ!」
あきらは激しく説得したが、太郎は何も言わなかった。代わりに返ってきたのは、こちらの神経を逆撫でするようなクツクツという喉を鳴らした笑い声。
「あきらくん、安倍清明って知ってる?」
「もちろんです」
あきらはむきになりながら乱暴に答えた。
「安倍清明は半分狐だ。彼の母親は白狐だからね。そして彼女の母親も狐だ。それもなんと、未だにいろいろ言われて恐れられてる白面金毛九尾の狐だ。強くなりそうだよねえ、仲間に引き入れない選択肢はないよ」
安倍清明とは、恐らく日本で最も有名な陰陽師だろう。彼の母親は「葛の葉」と呼ばれる白狐であったと言われている。あきらは呆然として太郎の声を聞いていた。
「でもまあ、そうだね。確かに危険だ。だからあきらくんと群治郎くんにはできるだけ彼女の近くにいてもらおうかな」
拷問のつもりだろうか、とあきらは思った。
「……それにしても、白面金毛の娘は無事に九回目の転生を遂げたってわけか」
太郎は、先程までとは打って変わって低く唸った。
「正直、僕が団長やってる間にまた会えるとは思ってなかったから驚いたよ。前に会ったのは……十九年前か」
「……そうです」
あきらは深い溜息と共に返した。
「……うん。僕だって、あの悔しさを忘れたわけじゃない。とりあえず会ってみたいな。そこにいるんだろう? 今から連れてきてもらっていいかな」
口調こそ柔らかいものの、太郎は命令のつもりでそう言っているのだということはよく分かっていた。あきらは観念したように返した。
「はい」
「ありがとう。それじゃ、待ってるよー」
太郎はそう言って電話を切った。通話の切れたスマートフォンを眺めながら、あきらはもう一度溜息をついた。
「妖怪って何なんですか? さっきのあれも妖怪だったんですか?」
柚子が言うと、群治郎は頷いた。
「うん、さっきのも鎌鼬っていう妖怪。何って言うと難しいけど……まあ、モンスターみたいなものだよ。感情のあるやつも多いし、種類によって姿は結構違ってて、ほとんど人間みたいなのもたまにいるけど」
群治郎は薄く笑って続けた。
「まあ、俺もちゃんとしたことは分かってないけどね。妖怪っていうのは、長い時間をかけて人間の恐れや憎しみみたいな負の感情が実体化したり、生き物に取り憑いたりして生まれたものだって言われてる」
「……」
柚子は言葉を失っていた。にわかには信じられない。けれど、自分の経験したことを考えると、信じないわけにもいかなかった。柚子はしばらく考えてから再び口を開いた。
「妖怪って……その……」
柚子が質問を口にする前にあきらが戻ってきた。相変わらずイライラしている様子だったが、先程よりは少し落ち着いているようだ。
「お、おかえり。ありがとな。そんで、団長はなんて?」
「彼女を陰陽師にしたいから今すぐ連れてこい、とのこと」
あきらは事務的に答えた。
「え……えっ」
群治郎が目を丸くする。
「そうよね……よかった、私がおかしいわけじゃないわよね」
あきらが頭に手を当てて疲れたように言った。それから、険しい表情で柚子と群治郎を一瞥する。それから、唸るような声を上げた。
「……子供の姿してるからって騙されてるんじゃないわよ」
「……」
群治郎は無言だ。あきらは大きく息を吐くと腕を組んだ。
「……本当に前世の記憶がないって言い切れるの?」
「……俺には彼女はすごく怯えてるように見えるけど」
群治郎は真面目な声で呟いた。あきらは一瞬苦しそうな顔をしてから、もう一度柚子の方を見た。
「……私は虎城あきら。あなたは?」
「……藤原柚子です」
「そう。……そう。それじゃ……悪いけど、今から一緒に来てください。こんなこと普通はありえないんだけど、緊急事態なの。殺されないうちにあなたを基地まで連れていかないと」
柚子はあきらの言い方に苛立ったものの、何かを言い返す気にはなれなかった。




