めざめ(3)
「あ!」
帰り道、学校を出てしばらく歩いたところで柚子は大きな声を上げた。沙也香が驚いて肩を震わせる。
「どうしたの?」
「忘れてた」
「何を?」
沙也香が深刻そうに尋ねる。
「光宗くんにLINE教えるの」
柚子の答えを聞いた途端、沙也香は心底どうでもよさそうな表情に変わった。
「気にしなくていいよそんなの」
沙也香はまったく興味のない様子でそれだけ返したかと思えば、そのまま黙りこんで立ち止まってしまった。何事かと沙也香の顔を覗きこむ。
「……どうかした?」
「スマホ置いてきた。最悪!」
「ええっ」
顔をしかめて言う沙也香に、柚子も悲痛な声を上げた。
「取りに行ってくる。先に帰ってて」
「えー、待ってるよ」
柚子はそう言ったが、沙也香は申し訳なさそうに首を横に振った。
「ここから学校に戻るのも時間かかるし、悪いからいいよ」
「んー……じゃあゆっくり歩いてるから会ったら一緒に帰ろ」
柚子の言葉に、沙也香は笑った。
「分かった。ありがとう」
「ちゃんとあるといいね」
「うん、机の中に入れた記憶あるから多分大丈夫。じゃあまた明日ね」
「ゆっくり歩いてるから!」
踵を返して学校へと戻っていく沙也香に笑いながら手を振って、柚子は自分のスマートフォンを取り出した。それから、LINEで沙也香にスタンプを送り、スマートフォンを戻して再び歩き始める。
猷秋高校の最寄り駅である新陽駅は、ここ新陽区で最も大きい駅だ。ここには四方通りと呼ばれる広く栄えた繁華街がある。新陽区で一番人が集まる場所だと言えるだろう。至るところでネオンやスクリーンの広告が光っているこの通りは、いつ見ても眩しいほどに明るい。超人気アイドルであるルサルカが映る広告もそこかしこにある。
四方通りでちょっと寄り道しようかな。そんなことを考えて少し先に見える大きな看板に向かって歩いていると、誰かに話しかけられた。
「そこのあなた様」
「はい?」
声が聞こえてきた方を見る。そこには薄いグレーと茶色で統一された落ち着いた色合いの和服に身を包んだ三人の大人たちが立っていた。男性が二人、女性が一人だ。男性の一人は細身で背が高く、もう一人は丸顔で大きなほくろがある。
「お待ちしておりました……!」
「……はい?」
道でも聞かれるのかと思ったが、三人から予想外の言葉が返ってきたので、柚子はキョトンとしてそう返した。
「姫君がお力を解き放たれる……それは姫君、そして我らが白面金毛九尾の狐様の忠実なるしもべへの合図! ずっと……ずっとこの時をお待ちしておりました!」
一人の男性が興奮気味に、しかし恭しく捲し立てる。訳が分からず呆然としていた柚子は、こう言うしかなかった。
「……ひ、人違いじゃないですか?」
「間違えようもございません!」
女性が甲高い声で叫んだ。
「ああ……おいたわしや姫君。前世の記憶を失くされていると伺っていましたが、まさか本当だったとは。ご自分がどれほど尊い存在なのかを知らぬまま……今まで……」
そう言うと、なんと女性は泣き始めた。柚子はギョッとして女性から一歩後退りした。何? 何これ? 危ない人……?
「偉大なる母君、白面金毛九尾の狐様のこともお忘れになっておられるのでしょう。おいたわしや……おいたわしや……ですがもうご心配はいりません。私めたちの元へお戻りください。共に殺生石から白面金毛様を蘇らせるのです!」
もう一人の男性も声を震わせている。柚子は固まっていた。オカルト不審者? え、こういう時どうすればいいの? どうにか絞り出した声は、掠れていた。
「知らないです。人違いです」
そう言って素早くその場を立ち去ろうとしたが、間に合わなかった。三人が柚子の両腕を同時に掴んできたのだ。柚子は「ヒッ」と声を上げた。
「人違いなど! とんでもございません!」
「姫君、この時を……この時を皆が待ちわびておりました。また姫君にお会いする日を皆が夢に見ておりました……!」
「今こそ白面金毛様を甦らせる時です!」
彼らはほぼ絶叫していた。やがて、三人の大人たちの顔つきが変わっていく。目は吸いこまれそうなほど真っ暗な丸に。鼻も丸くなり、黒く色づいた。耳も丸みを帯びた形に変わりながら頭の上まで伸びていく。肌は無数の茶色い毛でびっしりと覆われた。背丈は低くなり、いつの間にか着ていた着物も消え失せ、柚子の目の前には巨大な鼬が、そう、二本足で立ち、ものを言う鼬が三匹立っていた。
「きゃあああああ!」
今度は柚子が叫ぶ番だった。化け物! 化け物だ! 柚子は弾かれたように走り出した。目の前の曲がり角で左に曲がったところで、柚子はその奇妙な光景に愕然として思わず立ち止まってしまった。
「なんで? なんで誰もいないの?」
柚子は辺りを見渡した。普段はかなり人通りの多い路地のはずだが、今は人っ子一人いない。困惑して立ち尽くしていた柚子は、ハッとして後ろを振り向いた。化け物たちが全速力でこちらへやってきている。三匹のうち一匹の雄の鼬はどこか違う方向へ向かい、残りの二匹は柚子めがけて走っている。柚子は叫び声を上げて再び逃げ出した。
「姫君……姫君、どうかお待ちください! 私めたちの元へお戻りくださいませ! 白面金毛様を復活させるのです! 今こそ!」
雄の鼬の声を無視して柚子は必死に考えた。逃げたってきっと無駄だ。助けを呼ばなきゃ。でも誰もいない。どうしよう? 警察を呼ぶ? でもそんな余裕もない! どうしよう、どうしよう! このままじゃ死ぬ、殺される!
――だったら、殺される前に殺せばいい。
どうしてそんな考えに至ったのかは分からないが、柚子はそんなことを思いついた。その瞬間、自分が自分ではなくなったような、そんな気がした。
柚子は急に立ち止まった。二匹の鼬も動きを止めて、息を殺して柚子を見つめている。柚子はゆらりと振り向いた。その姿は、明らかに人間ではなかった。
風にそよぐ稲穂のように揺らめく金髪に、ぴんと伸びた獣のような耳、蝋人形のように青白い顔、光のない瞳。そして、何よりも目を引くのは、臀部から花のように大きく美しく生えた金色の九本の尾。
「ああ……お美しい……お美しい……! 姫君、お会いしとうございました! お会いしとうございました!」
雌の鼬は感極まり、涙を流しながら絶叫していた。その姿はとても嬉しそうで、恍惚とした表情を浮かべている。
しかし、柚子は何をするでもなくその場にガクンと膝をついた。耳は元の大きさになり、九本の尻尾も消え、髪の色も暗くなり、いつも通りの姿に戻っている。柚子は地面に手をついて喘いだ。
「はあ、はあ」
息絶え絶えに今自分に起こったことを振り返る。一瞬記憶が飛んだと思えば、いきなりどっと疲労感が襲ってきた。立ち上がるのもままならない。何? 今、何が起こったの?
だが、考えている暇はなかった。いつの間にか鼬たちがすぐ近くまでやってきて、柚子を見て泣き叫んでいる。
「お力を解き放たれてまだ間もない故に、お身体への負担が大きいのでしょう……ですが、姫君ほどのお方ならすぐに慣れるはずです。どうか、どうかご心配なく……ああ……姫君……!」
雌の鼬はそう言ってさめざめと泣いていたが、いきなり口を閉じた。耳をピクピクさせている。二匹とも、何かを感じ取ったのか石のように動かなくなり、しばらくある一点を見つめていたが、やがて血相を変えてその場から逃げ去ろうとした。その瞬間、乾いた銃声のような音が響いて雌の鼬がその場に倒れ、柚子は叫び声を上げた。
だが、鼬は生きていた。立ち上がって再び走り出そうとする姿を見て、心配そうな様子で待っていた雄も駆け出した。雌の鼬の脇腹の辺りからは血が滴っているが、傷は治り始めている。柚子は目と口を大きく開けて呆然としていた。
もう二発銃声が鳴る。雌の鼬は倒れて動かなくなった。雄の鼬はよろけている。脚に当たったらしい。ヨロヨロと立ち上がろうとしたところに、どこからともなく髪の短い女性が駆けつけてきた。女性が直接鼬に拳を打ちこむ。鼬は勢いよく吹っ飛び、建物の壁にぶつかってそのままぐったりと動かなくなった。先程違う方向へ向かった雄の鼬の姿は見えない。何が起こったのか、よく分からなかった。
「群治郎! 他に被害者はいないわ!」
近づいて雄の鼬の様子を確かめた女性は男性の方に向かって声を張り上げた。女性は白衣に馬乗袴という和装姿という出立ちだ。袴は深い紅色と黒のグラデーションになっている。
「はいよ」
柚子は群治郎と呼ばれた男性の方を見た。女性と同じ袴を着た黒髪の中年男性だ。先程の音は本当に銃声だったらしく、手に持っていた見た銃を、腰につけたホルスターに戻している。群治郎が、動けなくなっている柚子をちらりと見た。なんだかその目に咎められているような気がして、柚子は慌てて視線を逸らした。
女性がこちらに近づいてきた。柚子に目線を合わせて屈みこみ、手を差し出す。
「お怪我はございませんか」
女性が丁寧な口調で優しく言う。柚子が口を開こうとすると、「ないよ」と群治郎が勝手に代わりに答えた。女性が群治郎を睨みつける。
「あんたに聞いたんじゃないわよ」
「わーってるよそんなこと。でも俺、ヤバいもん見ちゃった」
群治郎はそう言うと、柚子を見つめ、一言。
「君、妖怪でしょ?」




