↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
2/71

めざめ(2)

 勢いよく起き上がった柚子は、荒い息を吐きながら愕然としていた。唾を飲みこんで渇いた喉をどうにか潤し、両手で首をゆっくりとさする。夢の中で痛みを感じる前に目を覚ましたはずだが、それでもなぜか首元が痛むような気がしたのだ。


 恐ろしい夢だった。まさか自殺する夢を見るなんて。それも、あんなにリアルな苦痛を帯びた夢を……。


 汗をかいたせいで髪やパジャマが肌に貼りついて気持ちが悪い。胸の辺りまで伸びた髪を掻き上げて、枕元に置いていたスマートフォンの画面をつける。液晶画面に表示された時刻を見るなり、柚子はベッドから飛び起きた。


「ヤバいっ!」


 部屋を出て大慌てで洗面所へ向かう。廊下ですれ違った母親に「おはよう」と挨拶をすると、「おはよう。何度も起こしたのに」と返されてしまった。


「うそうそ、全然気付かなかった!」


 柚子は今にも泣き出しそうな声を上げた。縁起が悪い気がして、自殺する夢を見たとは言えなかった。


 顔を洗い、リビングにある父親の仏壇に線香を上げてから、チラッと時計を確認する。柚子は狭いキッチンに向かい、冷蔵庫の中にある菓子パンを一つ取り出すと立ったまま口の中に放りこんだ。パンを咀嚼しながら冷蔵庫から牛乳パックを取り出し、水切りラックに置いてあったグラスに注ぐ。


「やだ、行儀悪い」

「今日だけ許して」


 母親に非難がましい目で見られて申し訳ない気持ちになりながらも、柚子は牛乳を飲み干してからそう返した。


 歯磨きや着替えなどの身支度を済ませると、柚子は部屋の鏡に映る自分を見て溜息をついた。チャームポイントである大きなつり目に元気がない。ヘアアレンジをする余裕もなさそうだ。ヘアブラシで髪を軽く梳かしてから通学鞄を手に取る。部屋を出ようとして、柚子は慌てて鏡の前に戻った。スカートが捲れている。手で叩いて裾を戻してから、もう一度部屋を飛び出す。


「行ってきます!」

「行ってらっしゃい」


 慌ただしくアパートの玄関を出ていく柚子に、母親は心配そうな声で挨拶を返した。


 柚子はスマートフォンを取り出して時間を確かめた。親友との待ち合わせ場所である最寄り駅まで、歩いて十分近くかかるほどの距離があるが、時間まで五分しかない。柚子は思わず天を仰いだ。雲一つない青空だ。


 親友には、自分が待ち合わせに遅れた時は先に行っていてほしいと以前から伝えてある。だが、彼女は絶対に自分を待ち続けるだろうと分かっていた。そういうタイプなのだ。待たせるのは悪い。柚子は小さく息を吐くと、ワイヤレスイヤホンを両耳につけ、二人組の人気アイドルユニット「ルサルカ」の曲の中でも特にアップテンポな楽曲を流して全速力で駆け出した。


 走るのは嫌いじゃない。むしろ、結構好きな方だ。風を切る音が気持ちいい。なんだかいつもより体が軽い気がする。柚子は人にぶつからないように気をつけながらそのまま走り続けた。


 やがて、柚子は待ち合わせ場所である駅の入口に到着した。いつも目印にしている大きな広告看板の近くに親友の姿はない。やはり、間に合わなかった。だが、先に向かってくれていてよかったと柚子は思った。高校に進学してまだ間もないというのに、自分のせいで彼女まで遅刻させてしまっては申し訳ない。


 今看板に貼られているのは、ルサルカのメンバー、KAORIとALISAがアンバサダーを務める化粧品ブランドの広告だ。それを見て、柚子は異変に気がついた。耳元ではまだ同じ曲が流れている。同じアルバム内の次の曲が再生されているはずなのに、まだ最初に流した曲が終わっていないのだ。


 何かがおかしい。柚子は現在時刻を確かめようとスマートフォンを取り出した。画面をつけようとしたその瞬間、背後から「おはよう」という声が聞こえ、柚子は驚いて勢いよく振り向いた。


「あれっ?」

「ん?」


 中学生の頃からの親友である天野沙也香が、キョトンとした顔でこちらを見つめている。柚子は思わず目を瞬いた。


 沙也香はショートカットが印象的な背の高い女の子だ。以前は長く伸ばしていたが、進学時にバッサリ切った。柚子が何も言わないせいか、沙也香が不安げな表情を浮かべる。


「大丈夫? 何かあった?」

「あ……ごめん。寝坊して全速力で走ってきたとこで……」


 柚子はそう言いながらスマートフォンの画面に目をやり、無言で固まった。待ち合わせ一分前。


「全速力?」


 沙也香は目を丸くして繰り返した。


「全然疲れてないのすごいね。さすが柚子」


 沙也香は軽い声色でそう言った。彼女は柚子が何をしても肯定する傾向がある。


 それから、沙也香はさっさと駅の構内へと入っていってしまった。沙也香に言われて初めて、柚子はあれほど全力で駆け抜けたというのに自分が息切れしていないことに気がついた。


「あれ……?」


 柚子は首を捻った。確かについ先程まで走っていたはずなのに、疲れをまったく感じない。一体どうして? なんだか気味が悪かったが、先を歩く親友の後ろ姿を見た柚子はそれ以上考えるのをやめて後を追った。


 二人の通う猷秋《ゆうしゅう》高校はここ新陽《しんよう》区(く)にある都立の進学校で、最寄りの新陽駅まではこの駅から二十分ほどかかる。電車に乗っている間や学校まで歩いている間に他愛もない会話をしているうちに、柚子は今朝見た悪夢や全速力で走ったことをすっかり忘れていた。


 校門の中に入り、昇降口で靴から上履きへと履き替える。下の方にある自分の下駄箱にスニーカーを入れて頭を上げた瞬間、柚子の目の前が真っ白になった。


「痛っ!」


 後頭部を押さえて涙目で見上げる。ちょうど頭の辺りにある段の下駄箱の扉が閉まりきっていない。そこに思いきり頭を強打してしまったらしい。


「大丈夫?」


 沙也香が慌てて声をかけてきた。


「だいじょばない……」


 柚子は力なく呻いた。沙也香は開きっぱなしになっていた下駄箱を柚子の代わりにお前のせいだとでも言うように恨みがましく睨みつけ、叩きつけるようにして勢いよく閉じた。


「最悪……たんこぶできちゃった……」


 後頭部をさすりながら、柚子は一年生の教室がある四階へと階段を上っていった。気が滅入ったついでに、あの悪夢や全力疾走を思い出してしまった。今日は本当についていない。


 一年二組の教室までやってくると、柚子と沙也香はそれぞれ自分の席に荷物を置くために一旦離れた。まだ学校が始まったばかりで一度も席替えをしたことがないので、苗字が「あ」から始まる沙也香とは席が遠い。それでも、親友と同じクラスになることができたのはかなり幸運だったと言えるだろう。


 柚子の席は窓際の列の前から二番目にある。一つ前はクラスの委員長の席で、彼女は姿勢正しく席について本を読んでいた。柚子はドサッと椅子に座りこむと、鞄を机の脇のホックにかけ、深い息を吐きながら両手で頬杖をついた。すると、沙也香が柚子の席までやってきた。


「柚子、保健室行く?」


 沙也香の言葉に、柚子は「あー、行こうかな」と返しながら再び後頭部に手を当てた。そして、違和感を覚えて声を上げる。


「ん? あれ?」

「どうしたの?」

「……たんこぶなくなってる……」

「え、どういうこと?」


 柚子が呟くように言うと、沙也香は驚きの声を上げた。


「痛みは? 消えてる?」

「うん、もう痛くない」

「それはよかった……けど、もしかしてたんこぶも気のせいだったとか?」

「ええっ、そんなことないよ! さっき本当にあったもん」


 沙也香の言葉に柚子はそう言い返した。もう一度触ってみたが、やはりたんこぶはない。でも、さっき触った時は微かにこの辺りが膨らんでいたはずなのだ。


「まあ、痛みが治《おさま》ったならよかった」

「うん……そうだね……」


 柚子は、まだ後頭部を撫でながらどこか上の空で答えた。




 四時限目は体育だ。ジャージに着替えて髪をポニーテールにまとめた柚子は、列に並んで自分の番を待っていた。


 今日の授業は新学期恒例の体力テストだ。中学生の時にも同じことをした。生徒たちは、五十メートル走のタイムを測定するために男女別に分かれて出席番号順にコース付近に並んでいる。五十メートル走のタイムを計り終えた生徒から、別の項目のテストを受けることになっている。柚子は体を解しながら考えごとをしていた。


 走るのは好きだ。それに、タイムはできることなら自己ベストを出したい。是が非でも本気で走りたいところだったが、あることが頭に引っかかっていた。それは、朝の全力疾走だ。


 あの時は確かに沙也香を待たせないようにと全速力で走った。だが、現実的に考えれば間に合うはずなどなかったのだ。それに、まったく疲れなかったというのもおかしい。少なくとも三分は走り続けていたのだから。そう思ったところで柚子はまたおかしな点に気がついた。走っている間、減速した覚えもない。


「……」


 なんだか妙な胸騒ぎがしていた。自分は今本気で走ってはいけない気がしたのだ。刻一刻と自分の番が迫っている。どうするのか、ちゃんと決めないと。


「位置について」


 スタートの合図を担当している体育委員の声が響く。出番だ。柚子はクラウチングスタートの姿勢を取った。


「よーい」


 鋭く短いホイッスル音を聞いてから、柚子は飛び出した。


 いつもよりずっとゆっくりと、軽い動きで。


 ゴールした後、不完全燃焼でスッキリしないまま体育教師に記録を聞きに行くと、なんと七秒台のタイムを告げられて柚子は唖然とした。あれほど手を抜いたにも関わらず、自己ベストを叩き出してしまったのだ。


「藤原、速いな。陸上部入るか?」


 嬉しそうに言う教師に曖昧な笑みだけ返し、柚子は次の種目である立ち幅跳びの測定をしている列へと向かった。


 それからはもうおかしなことばかりだった。だいぶ力を抜いたはずの立ち幅跳びでも二メートル以上の記録を残し、ハンドボール投げでも一球目はコースを外れてどこかへと飛んでいって見えなくなり(消えたボールは放課後に運動場の隅で見つかったらしい)、挙句の果てに、なんと握力測定器を一つ壊してしまった。


「はあ……」


 深い溜息をついて机に突っ伏す。授業を終えて昼休みを迎えた時、柚子は精神的な意味ですっかり疲弊しきっていたが、体力は有り余っていた。一体この体はどうなってしまったというのだろう。まるで人間じゃないみたいだ。


「藤原さん、握力測定器握り潰したってマジ?」


 ふと声をかけられ、柚子は言い返しながら顔を上げた。


「んなわけ! あれはやる前から壊れかけてたんだよ」


 そういうことにしておく。


「あはは。まあそうだよねー」


 話しかけてきたのはクラスメイトの男子生徒だった。確か名前は光宗《みつむね》勝元《かつもと》。つり眉にたれ目。髪を明るく染めて、左耳にシルバーのピアスを一つつけている。女子生徒と仲良くなるのが上手いタイプの男子だ。


「藤原さん、強くて可愛くて最強じゃん」


 勝元が言う。柚子はニヤッと笑った。


「ありがと。確かに私は最強の存在だから仕方ないな……」

「俺藤原さんのそういうところ嫌いじゃないよ」


 澄まし顔で言う柚子に、勝元はにこやかな表情のままそう言った。それから、着崩した制服のポケットからスマートフォンを取り出す。


「藤原さん、よければLINE教えてくれる?」


 何でもないことのように連絡先を尋ねてくる。


「いいよー。……光宗くん、クラスの女子みんなに聞いてるよね」

「ほんとは藤原さんに一番に聞きたかったんだけどねー」


 ちょっと意地悪なことを言ってみたが、勝元は笑顔を崩すことなくそう返してきた。


「一番じゃなくて残念でした」


 からかうような口調でそう言って、スマートフォンを取り出そうとする。


「柚子ー、早く行かないと食堂埋まっちゃうよ」


 親友の声が聞こえてきて、柚子は「あっ」と声を上げた。沙也香がすぐ近くまで来て、勝元のことを疎ましげに見ている。柚子はスマートフォンをスカートのポケットの中に戻しながら、もう片方の手を顔の前に当てて勝元に向かって謝る仕草をした。


「ごめん、後ででいい?」

「いいよ。行ってらっしゃい」


 そう言って穏やかに手を振る勝元にもう一度「ごめんね」と告げる。沙也香はまだ嫌そうな顔をしていた。柚子は財布を持って席を立つと、沙也香の両肩に手を乗せて「ごめん、行こ行こ」と朗らかに声を上げた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。