8話 騒然とした教室の中で
テスト期間が明け、教室には別の意味での緊張感が漂っていた。
返却されたテスト用紙を手に、一喜一憂する生徒たちの声が飛び交う。
後ろから二番目の自席で、三は机の上に裏返された数枚の解答用紙を、周囲に見えないようそっと捲った。
よし。どれも平均点ギリギリ。で、数学は九十八点、と。これだけあれば文句はないだろ
そこそこな点は取れたのだから親の小言を完全にシャットアウトしつつ、学校で変に浮き足立つこともない。そんな絶妙なラインをそつなく取れたことに内心で小さくガッツポーズを決め、放課後の自室篭もりが死守されたことに安堵する。
「うわ、古暮、また合計点トップじゃん!」
「すごーい! 古暮ちゃん、数学も九十点超えてるじゃん!」
さらに後ろ、教室の最後列にある窓際の席では、いつものように陽キャグループが古暮優を囲んで大騒ぎしていた。
へえ、本当に頭いいんだな……
あの図書室で、数学のワークの横にラノベを置きながら半分も読み進めていた優の姿を思い出す。彼女にとってはあの程度、ただの息抜きでしかなかったらしい。
そんな中、担任から「列ごとに後ろから前に解答用紙を回収しろ」と指示が出る。
最後列にいる優がそのまま回収担当になり、一番後ろの席から順番に、淡々と用紙を集めながら前へと歩いてきた。
自分の番が近づき、三は慌てて机の上の答案をひとまとめにしようとした。しかし、少し焦ったせいで手元が狂い、一番上に重ねていた数学の解答用紙が、ひらりと通路側の床へ落ちてしまった。
しかも運悪く、点数の書かれた面が上を向いた状態で。
(あ、クソっ……)
三が拾おうと身を乗り出すより早く、後ろから歩いてきていた優が、ちょうど三の机の横でスッと立ち尽くした。
優の視線が、床に落ちた用紙へと注がれる。そこに赤字でデカデカと書かれた『九十八点』という数字が、完全に彼女の視界に飛び込んでいた。
「……っ」
その大きな瞳が、九十八点という数字と、前を向いたまま床に手を伸ばしかけている三の後頭部を、何度も往復した。
床の用紙をパッと拾い上げ、他の教科の答案と一緒に後ろ手で優へと差し出した。
「ほい、これ俺の分」
「……え、あ、うん。受け取った、から……」
いつもならハキハキと喋る優が、微かに声を上ずらせて用紙を受け取り、そのまま前の席へと進んでいく。
床に落とすとか完全に油断してたな。後ろ手でパッと渡したし、誰にも見られずに済んだからセーフか。それに見られたとて問題はないし。
そんな三のあずかり知らぬところで火種が燻ったまま、六限目のホームルームが始まった。
「皆さん、テストのことは一旦忘れましょう。再来週の体育祭について決めてください。クラス委員の人」
「ーーじゃあ、始めます。まずは応援リーダーの選出。誰か立候補、もしくは推薦はありますか?」
クラス委員が黒板に『体育祭・役割決め』とデカデカと大きな字で書き殴る。
その瞬間、教室内が一気に色めき立った。テストの重苦しい空気から解放された生徒たちが、待ってましたとばかりに騒ぎ出す。
三は、静かに机に突っ伏した。みつにとってこの手のイベントは全く関係のない出来事なのだ。クラス全体が熱を帯び、誰が適任かといった噂話や、立候補を促す押し付けがましい声が周囲に満ちた。
いつもなら押し付け合いになるところだが、今回はすぐに男子の席からバッと手が上がった。
「俺やります!」
声を上げたのは蓮だった。お祭り男の蓮は、こういう行事が大好物だ。「他にいませんか」とクラス委員が黒板に蓮の名前を書く。
続いて、女子の陽キャグループからも一人、「じゃあ、私もややります!」と元気よく立候補が出た。
しかし、そこからピタリと手が止まる。応援リーダーは放課後の居残り練習や他クラスとの調整など、面倒な仕事が山積みだ。二枠目がなかなか埋まらず、教室にじわじわと気まずい沈黙が流れ始める。
「他にいませんか?」
担任がクラスを見回したその時、黒板の前に立っていた蓮が、ニヤニヤとした笑みを浮かべながら三の方を見た。
「先生ー。じゃあ男子のもう一人、みつを誘っていいすか? こいつ、あー見えて何でもそつなくこなすし、要領いいから俺の相方にぴったりなんすよ」
おい!なんてことを言いやがる。俺が場違いだとみんなが思ってるだろ。
一瞬、教室に微妙な間が流れる。しかし、クラスメイトたちの反応は決して冷ややかなものではなかったがそれは期待などという綺麗なものでもなかった。自分たちが動かなくて済むための、露骨な他人任せの精神が透けて見えた。
「坂倉さんは応援リーダーやってくれますか?」
クラス全員の視線が、一斉に三へと注がれる。
「え、いや、俺はそういうのちょっと……」
全力で拒絶しようと口を開きかけた三だったが、蓮が「頼むよ三、お前がいてくれたらマジで心強いんだって!」と、いつになく真剣な目で拝み倒してくる。ここで冷たく突き放すのも、クラスのみんなからどう見られるかわからない。
「はぁ。分かったよ。やるよ」
三が諦めたように小さく溜息をつくと、教室が「おーっ!」と拍手に包まれた。三の名前が黒板に書き加えられる。
その瞬間だった。
「あの!」
教室の最後列から、鈴の鳴るような、けれど少し緊張で震える声が響いた。
優だった。
おとなしい彼女が自ら手を挙げるなど、誰も予想していなかった。教室内が一気に静まり返る。
「……女子の、もう一人のリーダー。私、やります」
優が静かに立ち上がっていた。
ーーだが、その驚きはすぐに、地鳴りのような歓声へと変わった。
「マジで!? 古暮がやってくれんの!?」
「最高じゃん! 古暮ちゃんなら絶対大丈夫だし!」
普段は控えめだが、誰に対しても誠実で、成績もトップの優。クラスの誰もが、彼女の持つ天性のカリスマ性と人望を疑っていなかった。「優がやるなら間違いない」という絶対的な信頼と期待が、教室中を包み込んでいく。
そんなお祭り騒ぎの中、三は驚いて思わず後ろを振り返った。
優の大きな瞳が、まっすぐに三を射抜く。
その表情には隠しきれない不安や心細さが滲んでいた。
だが、それだけではなかった。
なぜか優は、不安げな表情のまま、その瞳の奥にじりじりとした熱を宿して、じっと三を凝視しているのだ。
(……な、なんだ? なんで俺をそんな目で見てるんだ……?)
三には、彼女の視線の意味がさっぱり分からなかった。
ただ、おとなしいはずの美少女から向けられる、言葉にならない凄まじい圧迫感に圧倒されるしかない。
三は、言葉を失った。
何がどうしてこうなった。友人の巻き込みと、隣のレーンに飛び込んできた優の静かな闘志によって。
教室中が歓声と拍手に沸き立つ中、これから始まる怒涛の毎日に思いを馳せ、心の中で深くため息をつく。




