6話 優しい嘘
渡り廊下の静寂の中で、蓮の足が止まった。
心臓が肋骨の裏を激しく叩き、血の気が引いていく。
蓮の目が、大きく見開かれた。
彼の視線は三を通り越し、柱の影で身をすくませている優へと注がれる。いつもの、誰に対しても分け隔てない屈託のない笑みはそこにはなく、ただ純粋な「戸惑い」と「驚き」が彼の顔を支配していた。
「……古暮、さん?」
蓮の口から漏れたのは、いつもクラスの女子を呼ぶ時の軽いトーンではなかった。どこか硬く、戸惑いの混じった低い声。
終わった。
……案の定だ。一番避けたかった事態が、一番避けたかったタイミングでやってくる。隠し事というものは、なぜこうも脆く、都合の悪い時に限ってバレてしまうのか。
「あ、三雲君」
その時、後ろから、信じられないほどに凛とした、澄んだ声が響いた。
彼女は一歩前へ出ると、まるで今さっきまで柱の陰に隠れて動揺していたことなどなかったかのように、いつもの、あの周囲の空気を洗練させる完璧な微笑みを蓮に向けている。
「奇遇ですね。三雲君もお昼休みですか?」
「あ、あぁ……うん。購買のパン、ここで食おうかなって思ってさ」
蓮が珍しく、気圧されたように言葉を詰まらせている。彼の視線は、優の手に握られた地味な布カバーの本へと注がれていた。
「古暮さんは……坂倉と、何してたんだ?」
直球な問い。
背中に冷や汗がドッと噴き出した。言い訳を考えようにも、頭が真っ白になって言葉が出てこない。
「この前の、お礼を渡そうとしていました。」
優は迷いのない動作で、手にした本を蓮に見せるように少し掲げた。
「一昨日、急な大雨が降ったでしょう? 私、傘を忘れてしまって困っていたら、坂倉君がご自分の折り畳み傘を貸してくださったんです。坂倉君ご自身は、ずぶ濡れになって走って帰られたのに」
「え……」
蓮の視線が、今度は三へと移る。その目には、驚きと、どこか納得のいったような光が浮かんでいた。
昨日、「ずぶ濡れで帰ったろ?」と蓮に聞かれた時、「折り畳み傘を持ってたから大丈夫だった」と嘘をついたことがバレた。皆まで言う必要もないし騒ぎ立てられたくないから言わないでいたのだが。
そのパズルが、蓮の頭の中で繋がったのだ。
「昨日、傘をお返しした際、改めてお礼を申し上げたのですが、それでも『お礼なんていらない』と固辞されてしまいました。ーーでも、せめてもの感謝として、坂倉君が読書家だとお見かけしていたので、私のお気に入りの本をお貸ししたいと無理をお願いした次第です。」
優は小さく笑う。
その完璧なロジックと、一切の淀みのない声音。内心、驚愕のあまり息を呑んでいた
彼女が言っていることは、9割が事実だ。けれど、決定的な残り1割ーー本当は三が本を貸す側だったのに、彼女はそれを「私からのお願い」として、誰の目にも疑いようのない「お礼のやり取り」という形に、完全に立場をすり替えてみせたのだ。
ここで待ち合わせ、ラノベの貸し借りという『二人だけの秘密』を共有していたという事実は、彼女の完璧なロジックによって、巧妙に隠蔽されている。
それをこの短時間で考え言えるのはクラスの中心的存在として生きる彼女だからこそ出来たことなのだろう。
「……あ、あぁ! なんだ、そういうことか!」
蓮の顔に、いつもの屈託のない、眩しい笑顔が戻ってきた。彼はぽんと自分の頭を叩き、心底納得したようにケラケラと笑う。
「なんだよみつ、お前そんな格好いいことしといて、朝俺が聞いた時は『傘あったから大丈夫』とか言って隠すんだもんなぁ! 隠さなくてもいいのに」
「いや……別に、大したことじゃないし」
引きつった笑みを浮かべながら、ようやくそれだけを絞り出した。
蓮は優の方を向き、少しだけ誇らしげに胸を張る。
「いや、驚いたわ。でも、お前が根っから優しいやつだってのは知ってるからな。古暮さんに風邪ひかせなかったんだから、ファインプレーだな!」
「本当に感謝しています」
優は丁寧に頭を下げた。
「じゃあ、私はこれで失礼します。三雲君、坂倉君、また教室で」
優はそう言い残すと、流れるような動作で渡り廊下を去っていった。本を優から三に渡すという話であったが、蓮が不自然な様子を見せない以上、ここで指摘して余計な詮索を招くのも得策ではない。三はあえてその違和感に蓋をし、やり過ごすことにした。
残されたのは、三と蓮の二人だけ。
「いやー、焦ったわ。一瞬、お前らが付き合ってんのかと思った」
蓮が笑いながら三の肩を組み、手にしたパンを一口齧る。
「あるわけないだろ。住む世界が違う」
「まぁな。古暮さんは高嶺の花だし。でもさ」
蓮は中庭に目を向け、ぽつりと言った。
「みつが誰かに傘貸すなんてちょっとびっくりした。……なんか、ちょっと懐かしい」
その言葉に、ドクリとした。
蓮の横顔は、いつもの底抜けに明るい「陽キャ」のそれなのに、なぜか一瞬だけ、ひどく寂しそうな色を帯びているように見えた。
「……何言ってんだよ。ただの気まぐれだよ」
「はは、そうだよな!よし、教室戻るぞ」
蓮はすぐに元の調子に戻り、三の背中を叩いた。
三は優の完璧な機転によって、一命を取り留めた。
教室に戻ると、優はすでにいつもの女子グループの輪の中心にいた。
彼女の机の横にかけられた鞄の隙間から、三が昨日、自意識と戦いながら丁寧にかけた、地味な布カバーがほんの少しだけ覗いていた。




