4話 本棚の前で
交わした言葉の数は、決して多くはなかった。お互いに次の言葉を探すような、短いやり取りがぽつりぽつりと続いただけだ。いつもなら、この手の沈黙には耐えられずつい逃げ出したくなるはずなのに、不思議と息が詰まるような気まずさはなかった。
ただ、手元のパックの緑茶を飲み干したとき、喉の奥に妙な渇きのようなものが残った。
お気に入りの、いつも通り静かなはずの渡り廊下。
なのに、自分の世界の境界線がほんの少しだけ揺らいで、いつもと違う色の空気が流れ込んできているような、そんな名前のつかない違和感だけが、静かに胸の底へ沈んでいった。
優が小さなお弁当箱の蓋をパチン、と閉めると、まるで魔法が解けたように、昼休みの終わりを告げる予鈴が校舎に響き渡った。
「あ……もうそんな時間ですね」
優は名残惜しそうに、でも手際よくお弁当箱を包みへと戻していく。
三も、飲み干してペシャンコになった緑茶の紙パックを握りつぶし、立ち上がった。
「じゃあ、俺、ゴミ捨ててから教室戻る」
「はい。……あの、坂倉君」
立ち上がりかけた優が、座ったまま三を少し見上げるようにして呼び止める。
「明日、本……楽しみにしてます」
「ん。読みやすいやつ、ちゃんと探しておくよ。……あ、でも」
三はそこで言葉を区切り、廊下の先をチラリと盗み見た。まだ誰も来る気配はないが、いつ誰が通ってもおかしくない。
「その、本を渡すときも、タイミングは考えるから」
「……そうですね。私と坂倉君が話してると、変に目立っちゃうかもしれないですし」
優は小さく頷いた。「二人だけの秘密」を共有したような、少しだけ嬉しそうなニュアンスが混ざっている。
「じゃあ、また教室で」
「うん。また後で」
優が先にベンチを立ち、小さく手を振ってから、渡り廊下の向こうへと歩いていく。
静けさが戻ったはずの中庭。
けれど、自分の手のひらに残る紙パックの感触や、鼻先をかすめたはずのシャンプーの匂いが、確かに「いつもと違う昼休み」だったことを証明している。
(……早く戻らないと、遅刻するな)
三は小さく息を吐き出し、胸の奥のざわつきを無理やり抑え込むようにして、ゴミ箱のある昇降口へと歩き出した。
◇
学校が終わり、家へと足を運んだ。
夕日に照らされた帰り道は、昨日二人で並んで歩いた景色と同じはずなのに、どこか違ったものに見える。
(……あぁ、昨日は雨が降ってたからか)
視界が妙に広く感じるのも、地面の色が乾いているのも、全部そのせいだ。これがいつもの『普通』。そう自分に言い聞かせるように、三は一人で帰路についた。
家に帰った三は、そのまま二階の自分の部屋へ直行し、ベッドに鞄を放り出して本棚の前に立った。
ずらりと並んだ文庫本の背表紙を眺めながら、う、と小さく唸る。
(……何を持っていけば正解なんだ?)
明日、学校で古暮優にライトノベルを貸す。昼休みに勢いで口走ってしまった約束が、今になって重くのしかかっていた。
何しろ、昨日の昼休みに蓮から「何読んでるんだ?」と聞かれた時でさえ、三は頑なにタイトルを言わなかった。というか、言えなかった。
ライトノベルというジャンルは、大抵の場合、タイトルをそのまま口に出すのが妙に恥ずかしい。やたらと長文だったり、世界観が凝縮されすぎていたりして、音読するだけで自意識が爆発しそうになるのだ。
本屋で買う時だって、お目当ての作品が見つからなくても、絶対に店員に「『〇〇』ってどこにありますか?」なんて聞けない。意地でも自力で見つけ出すか、諦めて帰るかの二択だった。だからこそ、読む時は必ずお気に入りのブックカバーをかけて、自分の世界を隠すのが三の鉄則だった。
そんな『秘匿された趣味』を古暮優に貸すのだ。チョイスを間違えれば、自分の社会的尊厳(そもそも元から無いようなものだが)に関わる。
「……さすがに、これはナシだな」
最初に手が伸びた、表紙の女の子の露出度がちょっと高いファンタジーものを慌てて棚の奥に押し戻す。あんなものを貸して、明日から変な目で見られるのは御免だった。
かといって、設定が複雑すぎるダークファンタジーや、マニアックな専門用語が飛び交うSFも、普段ラノベを読まないと言っていた彼女にはハードルが高すぎる。
「読みやすくて、タイトルがそこまで痛くなくて、表紙がファンシーすぎないやつ……」
そんな都合のいい本が……と棚を指でなぞっていく。
しばらく悩んだ末、三の指が一冊の文庫本の上で止まった。
それは、アニメ化もされた有名なボーイ・ミーツ・ガールものの作品だった。
席替えで偶然隣同士になった、接点のない男女二人。ある些細な共通の趣味をきっかけに、少しずつ世界を広げていくという王道中の王道だ。
文章が軽快でテンポが良く、ラノベ特有の小難しい設定も少ない。何より、タイトルが数文字でスッキリしていて、もし万が一、誰かに見られて口にされることがあっても致命傷にはならない。
「……これなら、まぁ、大丈夫か」
三は棚からその本を引き抜き、少しだけホッと息をついた。
だが、すぐに「あ」と思いついて、机の引き出しから布製のシンプルなブックカバーを取り出す。彼女に貸すのだ。表紙のイラストをそのまま晒して持っていかせるわけにはいかない。
丁寧に本にカバーをかけながら、三はふと思う。
明日、これを渡すとき、自分はどんな顔をすればいいんだろうか。
机の上にぽつんと置かれた、地味なカバーに包まれた一冊の本。
それを見つめていると、不意に胸の奥が妙にソワソワとし始めて ――。
ーーガチャンッ!
「おにぃー、ご飯できたって」
「お、おい!ノックしてから入れよ!」
「さっきからノックしてるのに返事ないのおにぃーなんだけど」
ノックされていたことに気づかないほどに自分の世界に浸っていたのだろうか。かと言って高校男子の部屋に突撃してこないでほしいものだ。
夜の変な時間にも平気で突撃してきて気まずくくなるのが想像できる。いや、想像もしたくない。
そんなくだらない危機感とは裏腹に、
「ところでおにぃなんかあった?」
「へ?」
唐突な問いかけに、三の心臓が跳ね上がった。
動揺を隠すように、とっさに机の上のブックカバーで包んだ本を、教科書の山の下へと滑り込ませる。
「な、何がだよ。別に普通だけど」
「怪しいなあ。さっきからずーっと本棚の前でうろうろしてるし、ノックにも気づかないくらい、何かに集中してたじゃん」
咲はドアに寄りかかったまま、ジト目で三をじっと見つめてくる。
「別に、明日持っていく教科書探してただけだよ」
「ふーん……」
咲はあからさまに疑わしそうな目をしながら、三の机の方へ一歩近づいてきた。
三は条件反射のように、教科書の山の下へと滑り込ませる。
「あ、分かった。ラノベの新作の発売日だったとか? それで頭がいっぱいだったんでしょ」
「……まぁ、そんな感じ。だから、もう部屋から出ろよ。すぐ下に降りるから」
「はいはい。早くしないと、お母さんに怒られても知らないからねー」
咲はそれ以上追及することなく、ひらひらと手を振って部屋を出ていった。
バタン、と今度はちゃんとドアが閉まる音がして、三は大きなため息とともにベッドへ倒れ込む。
(危ねぇ……)
中学生の妹の坂倉咲は、とにかく昔からこういう時の勘が嫌に鋭い。
あいつの勘の鋭さは知っていたが、まさかここまで一瞬で見抜かれそうになるとは思わなかった。
もしあのまま、古暮優に貸すための本だとバレていたら、どんな顔をして弄られていたか。
……そう思いながら、ベッドの天井を見つめていた三は、不意に強烈な自己矛盾に襲われて動きを止めた。
(待て、なんで俺はこんなに必死に隠そうとしてるんだ?)
ゆっくりと身体を起こし、教科書の下からさっきの本をもう一度引っ張り出す。
地味な布カバーに包まれた、一冊のライトノベル。
ただ、クラスメイトに頼まれたから本を貸す。それだけのことだ。やましいことなんて何一つないし、悪いことをしているわけでもない。
それなのに、自分は咲が部屋に入ってきた瞬間、まるで特大の犯罪の証拠でも隠すかのように、必死にこの本を隠蔽しようとしていた。ノックも聞こえないほど焦って、冷や汗までかいて。
「……何やってんだ、俺」
ぽつりと呟いた声が、静かな部屋に虚しく響く。
隠そうとすればするほど、まるでそこに「特別な意味」があるのだと、自分自身で認めてしまっているみたいじゃないか。
自分が古暮優という存在を、どれだけ過剰に意識してしまっているか。突きつけられたその事実に、三はただ一回、軽く首を振って、思考の糸をプツリと切り離した。




