3話 雨上がりのベンチで
翌朝、昨日の豪雨が嘘みたいに、空は抜けるような青さだった。
三はいつも通りの時間に教室に入り、自分の席に鞄を置く。
(……いつか学校で返してくれればいいから、か)
自分が勢いで言った別れ際の言葉が、通学路の間ずっと頭の片隅にこびりついて離れなかった。あんな必死な顔で強引に傘を押し付けて、自分は土砂降りの中を濡れ鼠になって走って帰ったのだ。
教室を見渡すと、彼女はすでに席に座っていた。いつも通り何人かの女子と楽しそうに話している。その輪の中に、昨日雨の中で困り果てていた彼女の影はどこにもない。
やはり、いつもの古暮優だ。
目が合うかもしれない、という妙な自意識が働いて、三はすぐに視線を落とした。挨拶をするべきか迷ったが、結局そのまま席に着く。
昨日のあれは、ただの「雨の日のバグ」みたいなもの。日常に戻れば、あの特別な時間も、雨の日の澱みと共に、どこかへ流れ去ってしまったのだ。
それでいいし、それが正しい。
「よっ、みつ。おはよ」
前の席から、蓮がいつも通りの軽い調子で振り返る。
「……あ。蓮、おはよ」
「何だよ、寝不足か? 元気ねーな。あ、そういや昨日さ、部活終わったあと外見たらエグい雨降っててウケたわ。お前、傘持ってなくてずぶ濡れで帰ったろ?」
「いや、折り畳み持ってたから、そんなに濡れなかった」
「マジ? 準備いいなー」
蓮は笑いながら、陽グループの方へと赴く 。
三は小さく胸をなでおろす。もしあの相合傘を誰かに見られていたら、今頃どんな噂が流れるか想像するだけで胃が痛い。
一限目のチャイムが鳴り、静かに一日が始まった。
授業中、三は教科書の陰に隠して、いつものようにライトノベルを開こうとした。……が、なんとなく気が進まなくて、そのまま本を鞄にしまう。
昨日の優の言葉が、どうしても頭をよぎるからだ。
『授業中も読んでるとき、ありましたよね』
(……変なところを見られたな)
たまたまだとは言っていたが、あんなふうに自分の行動を認識されていたという事実は、三にとってどこか奇妙だったが、嫌な感じはしなかった。
◇
昼休み。
騒がしくなる教室を抜け出し、三は購買で買ったパンを持って、少し離れた渡り廊下のベンチへ向かった。一人で静かに過ごせる、お気に入りの場所だ。
パックの緑茶を飲みながら、ぼんやりと中庭を眺める。
すると、パタパタと静かな足音が近づいてきて、三の近くで止まった。
「ここ、いたんですね」
顔を上げると、そこには昼の光を浴びた優が立っていた。
手には、ビニール袋に包まれた小さな塊を持っている。
「……古暮さん。どうしたの?」
「これ、返そうと思って」
優が差し出してきたのは、綺麗に洗濯されて折りたたまれた、三の小さな折り畳み傘だった。
「あ、ありがとう。わざわざ持ってきてくれたんだ」
「いえ、濡らしてしまったのは私ですし。……ちゃんと乾いてると思います」
三がそれを受け取ると、優は帰る風でもなく、少しだけ視線を泳がせた。
いつもならすぐに周りに人が集まる彼女が、今は三の前に一人で立っている。昨日と同じ状況だ。
「あの」
「ん?」
「昨日は……ありがとうございました。本当に助かりました
優は、昨日と同じように少しだけ口元を緩めて笑った。
その笑顔が、教室で見せる微笑みとは少し違う気がした。
「いや、俺も突拍子もないこと言って悪かったし。風邪、ひかなかった?」
「はい、全然。坂倉君は?」
「俺も大丈夫」
そこで会話が途切れ、また静かな時間が流れる。
でも、昨日の雨の中の気まずさとは、どこか違っていた。
優は中庭に視線を向けたまま、不意に、ぽつりと言った。
「私、いつも誰かと一緒にいますけど、今日みんな予定あってお昼1人なんです」
三にとって少しちくりとする言い回しだったが、深く考えることでもないかと思い直す。特に表情を変えることもなく、そのまま緑茶のパックにストローを突き刺した。
優は少しきょろきょろと周りを見渡してから、三の手元にある購買のパンに目を留めた。
「……あの、もし迷惑じゃなければ、ここで一緒に食べてもいいですか?」
驚きのあまり、危うく鼻から緑色の何かが噴き出すところだった。
「え、ここで?」
三は思わず声を裏返らせて、とっさに誰もいない渡り廊下の先を確認した。
ここは校舎の裏手に近く、普段からほとんど人が来ないからこそ三が隠れ家にしていた場所だ。
自分はあくまでクラスメートの1人。対して、彼女は紛れもない中心的存在。
そんな二人が一緒にいるところを、もしクラスの連中に見られでもしたら、一瞬で面倒な噂が広まるのは目に見えている。それはお互いにとって、絶対に避けたい事態だった。
優も同じことを考えているのか、小さなお弁当箱を抱えながら、どこか落ち着かない様子で周囲の窓を気にしている。
「あ、いや、迷惑じゃないけど……本当にここでいいのか? ベンチも狭いし、誰かに見られたらまずいだろ」
「ここ、誰も来なさそうですし……昨日、もっと狭い傘に入ってましたから」
優は少し声を潜め、いたずらっぽくそう言うと、三の返事を待たずに、ベンチの端へちょこんと腰掛けた。
すとん、と隣に座った優から、ほんのりと甘いシャンプーの匂いがして、三はとっさに背筋を伸ばす。
二人は示し合わせたわけでもないのに、なんとなく身体を縮めて、周囲の視線から隠れるようにして並んだ。
優が鞄から小さなお弁当箱を取り出し、蓋を開ける。色鮮やかで、すごく丁寧に作られているのが横目で見える。三の手元にある、購買の少し潰れた焼きそばパンがやけに惨めに思えてきた。
「美味しそうだな」
「ありがとうございます。」
「……あの、坂倉君」
「ん?」
優はお箸を持ったまま、チラリと渡り廊下の入り口に視線を走らせてから、じっと三を見てくる。
「いつも授業中、どんなライトノベル読んでるんですか?」
たまたま見かけたと言っていた読書の話を、彼女はちゃんと覚えていたらしい。
「あー……ファンタジー系のやつとか、色々。古暮さんは本、読まないの?」
「ライトノベルは読んだことがないです。でも、坂倉君がいつもすごく真剣に読んでるから、どんな世界なのかなって、少し気になって」
淡々とした口調のなかに、まっすぐな興味が混ざっているのが伝わってきて、三の耳の後ろが熱くなる。
「……じゃあ、今度一冊、読みやすそうなの持ってこようか?」
「いいんですか?」
優の目が、パッと明るくなった。
「うん。面白いか分からないけど」
「楽しみにしてます」
優は嬉しそうにそう言うと、周囲への警戒を少しだけ緩めて、小さく卵焼きを口に運んだ。
クラスのどこにいても誰かに囲まれているはずの彼女が、今、誰も来ない渡り廊下で自分の隣にいる。昨日の雨の日と同じように、お互いの間にある見えない境界線が少しだけ曖昧になっているような、不思議な落ち着かなさだけが二人の間に流れていた。
パンを食べ終え、お茶を口に含みながら、三は自分の胸のあたりに手を当ててみる。




