2話 小さな折り畳み傘の下で
三は数秒間、固まったまま優を見る。
周囲を打ちつける雨音だけがやけに大きかった。
「……途中まで、って」
「坂倉君が困るなら、一人で帰ります」
淡々とした口調だった。無理に頼んでいるようにも聞こえない。
それに、元はと言えば自分が勢いで声をかけたのだ。今さら断りづらい。
「いや……別に困らないが……」
「じゃあ、決まりですね」
優はそう言うと、三の明確な返事を待ずに、傘の下へ半歩踏み込んできた。
三は思わず息を止める。
近い。
女子と相合傘なんていつぶりだろうか。いや、そもそも人生の記憶にない。
「……狭いですね」
「悪かったな、小さくて」
優が少しだけ笑う。
責めるようなニュアンスは、まったくなかった。
二人は校門を出る。
雨は変わらず強い。
アスファルトを激しく打つ音。水たまりを踏む音。布一枚を隔てて傘に当たる雨音。
その全部が、妙に近く、大きく感じる。
隣を歩く優は、思っていたよりもずっと静かな人だった。
学校でも騒ぐイメージはなかったが、ここまで物静かだとは思わなかった。初対面みたいな相手と相合傘なのだから、静かなのも当然かもしれないが。
あるいは、彼女の周りに人がいることが多かったせいで、勝手に賑やかな印象を抱いていただけかもしれない。
沈黙に耐えかねて、三は必死に知恵を絞り、言葉をひねり出した。
「……古暮さんって」
「はい」
「いつも誰かといるイメージあったわ」
投げかける言葉を間違えた気がした。これではまるで、いつもストーカーのように観察していたみたいじゃないか。
優は少し考えるように前を見る。
「そうですか」
「うん」
「坂倉君は?」
「え」
「一人でいること、多いですよね」
不意打ちみたいな言葉だった。先ほど自分が放った「いつも誰かといるイメージ」という言葉に対する、見事なお返し。こちらの観察眼をさらりと棚に上げ、的確に核心を突いてくる。
(……一本取られたな)
三は自嘲気味に少しだけ笑う。
「まあ、楽だから」
「そうですか……」
「古暮さんは?」
「私は……」
優はそこで言葉を切った。
ちょうど車が目の前を通り過ぎ、激しい水しぶきが跳ねる。三はとっさに傘を彼女の方へと大きく傾けた。
「別に、普通です」
彼女はそれだけ言って、また前を向く。
信号待ちで立ち止まった。
傘を叩く雨音だけが、途切れずに続いていた。
優は前を向いたまま、不意にぽつりと言った。
「坂倉君って、読書好きなんですね」
「……まあ、それなりに」
「授業中も教科書の後ろで読んでるとき、ありましたよね」
見られていたらしい。
三は少しだけ気まずくなる。
「見られてたのか」
「たまたまです」
優は淡々と返した。
信号が青に変わる。二人はまた歩き出す。
「どんな本、読むんですか」
「色々。基本的にライトノベルが多いけど」
「そうだろうと思いました」
「偏見だろ、それ」
「少しだけ」
その言い方が真面目すぎて、三は思わず吹き出しかけた。
優が少しだけ、不思議そうにこちらを見る。
やがて、分かれ道に差し掛かった。
「私はここ、右です」
「俺は左だから、ここでさよならか」
「ここまでありがとうございました。坂倉くんのおかげで助かりました。ではーー」
優は小さく頭を下げる。傘の中で小さく頭を下げると、三の返事を待たずに、その狭い空間から一歩、土砂降りの雨の中へと出ようとした。
一瞬で彼女の肩が激しい雨に打たれ、黒髪が濡れ始める。
「――っ、おい、待てって!」
身体が勝手に動いていた。三はとっさに優の腕(あるいは濡れかけた肩)を引き戻すようにして、自分の折り畳み傘を彼女の頭上へと強く押し向けた。
自分の身体が完全に傘の外へとはみ出し、冷たい雨のシャワーが容赦なく制服を濡らし始める。
「え……? 坂倉君?」
優は驚いたように目を丸くして、傘の下から三を見つめる。
「ここからはお互い一人だろ。俺は男だし、家もすぐそこだから。その傘、そのまま使って帰って」
「でも、それだと坂倉君が完全に濡れてしまいます……!」
「いいから。……じゃあな。それ、いつか学校で返してくれればいいから!」
それだけを早口でまくしたてると、三は彼女の返事を待たずに背を向けた。
「あ、坂倉君――!」
背後から優が引き留めるような声をあげた気がしたが、激しい雨音にかき消されてよく聞こえなかった。三は振り返ることもせず、カバンを頭の上に掲げて、土砂降りの通学路を全力で走り出した。
何をやってるんだ、俺は。
脳内で自分に対するダメ出しが止まらなかった。ただのクラスメイトに、あんな必死な顔で傘を押し付けて濡れて帰るなんて、まるで安っぽい自己満足の塊みたいじゃないか。
けれど、走りながらふと頭をよぎったのは、引き留めた瞬間の優の、あの驚いたような表情だった。普段、教室で大勢の友達に囲まれている時には決して見せない、等身大の女の子の顔。
激しい雨の冷たさが制服を濡らしていく。柄にもないお節介を焼いてしまった自責の念と、自分の中の規律を自ら破ってしまった妙なバツの悪さを誤魔化すように、三はさらに足の速度を上げた。




