1話 雨の日のバグ
とある六月の六限目。
窓の外には灰色の雲が空を覆っていて、いつ降り出すかわからない。
朝の天気予報は晴れだったのにと、三は心の中でぼやく。
国語教師の熱血的な授業はジメジメとした気候に気力を奪われた三たちの心に届かず、机に突っ伏して眠りこけている者、ノートの端に落書きをしている者、あるいは三のようにぼーっと窓の外の空を眺めている者。
誰もが早く終わらないかと、その瞬間だけを待っていた。
静かと言えば静かだが、どこか退屈な熱がこもった、そんな教室だった。
やがて終礼を告げるチャイムが鳴り、国語教師が教室を後にした瞬間、先ほどまでの静寂が嘘だったかのように教室が騒がしくなる。
そんな喧騒からそっと意識を切り離すように、そっと最近読み始めたライトノベルを取り出し、ページをめくった。
別に、騒がしいクラスやクラスメイトたちが嫌いなわけじゃない。ただ、自分はあの中のどのグループにも属していないというだけのことだ。物語の主役でもなければ、脇役ですらない。それが三の定位置である。
「みーつー」
前の席の男子が振り返る。
「今度はなんの本読んでるんだ?」
「ライトノベル」
「それ題名じゃないだろー(笑)」
彼は三雲 蓮。整った顔立ちに、少し明るめに染めた髪。
子どもの頃はよく遊んでいたが、中学に上がってからはクラスが分かれたことから、めっきり話さなくなっていた。高校が一緒になったことで、向こうからよく話しかけてくるようになったのだ。
もっとも、彼はーー。
「俺、小説読んでると三行で寝ちゃうんだよねー。よくそんな細かい文字読めるわ」
蓮が面白がるように俺の手元の本を覗き込む。
そう、彼は紛れもない陽キャグループの中心人物だ。
誰からも愛され、常に人の輪の中心にいる。三とは住む世界が違っていた。
「いつも読んでるからな」
三はそう言って、淡々とページをめくる。
「おーい、蓮! 部活行くぞー」
「今行くー! じゃあまたな、坂倉」
三は曖昧に笑って会釈した。
蓮はじゃあねと手を振ると、嵐のように教室を飛び出していった。本当に、眩しいやつだと思う。でも、不思議と悪い気はしない。
周囲の生徒たちも次々と帰宅し、少しばかり閑散とし始めた教室の中で、三もようやく荷物をまとめようと立ち上がった。
その時、廊下側の扉が開いて、ひとりの女子が入ってくる。
古暮 優。
黒髪を肩まで伸ばした、おとなしい印象の女子だ。 おとなしい、というと地味な印象を受けるかもしれないが、彼女の場合は違った。派手なメイクや騒がしいお喋りで飾らなくても、そこにいるだけで自然と周囲の空気を洗練させてしまうような、独特の透明感がある。
この学校に首位で入学し、先生からの信頼も厚い。それでいて誰に対しても分け隔てなく親切で、決して自分の立場を鼻にかけない。男子からは高嶺の花として憧れられ、女子からは一目置かれる
――彼女がクラスの『中心的存在』なのは、そうなるべくしてなっているからだった。
三にとって彼女たちは住む世界が違う。だから本来なら、彼女が何をしていても、誰と笑っていても、関心を持つ理由なんてないはずだった。
なのに、なぜか目がいく。三が彼女に惹きつけられるのは、その完璧な美少女としての側面だけが理由ではなかった。
周りにたくさんの人が集まっている時でも、彼女は時折、まるで自分の周りだけ世界が切り離されたかのような、ひどく静かな目をする。話す時の独特の丁寧な間とか、ふとした瞬間に誰もいない窓の外をじっと見つめる癖とか。
なぜかわからないがそう言った小さなことに目がいく。
もっとも、三にとっては、蓮と同じように「遠くから眺めるだけの、住む世界が違う住人」に過ぎないのだが。
「あ、古暮ちゃん」
誰かが声をかける。
「今日、委員会じゃなかった?」
「うん。会長が不在でなくなったの」
優は小さく笑った。
その笑顔は愛想笑いじゃなく、本当に少しだけ口元が緩む程度のものだった。
三はそっと目を逸らす。
特に接点があるわけではない。同じクラスになって二ヶ月、プリントを回したり、朝に挨拶を交わしたり、その程度はあった。でも、それくらいである。
ただのクラスメイト。それ以上でも、それ以下でもない。
「坂倉君」
すぐ背後から聞こえた声に、三の心臓が音を立てて跳ねた。
背中を叩かれたわけでもないのに、電流が走ったように肩が震える。ゆっくりと振り返ると、そこには優が立っていた。
教室の誰かが彼女に呼びかけたのではない。彼女の視線は、真っ直ぐに三を捉えていた。
「……え?」
「これ、坂倉君の」
差し出されたのは、なんの変哲もない、けれど見覚えのある三のシャーペンだった。
「あ」
自分の机の上を見る。確かに、いつも差しているはずの筆箱の横にそれがない。どうやら落としていたらしい。
「悪い、ありがとう」
「いえ」
彼女はそれだけ言って、窓際の席へ戻っていく。
たったそれだけ。
たったそれだけなのに、雨が降る直前の湿った空気みたいに胸の奥がざわつく気がした。
……いや、気がしただけだ。
三は考えるのをすぐにやめた。面倒だし、自分らしくない。
◇
廊下の向こうで、運動部の掛け声が響いている。
窓の外は、さっきよりも暗かった。
三は鞄を肩にかけ、教室の後ろ扉へ向かう。
帰ろうとした、その時だった。
ザアッ――。
窓ガラスに、大粒の雨が叩きつけられる。
さっきまで遠慮がちに降っていた雨は、数秒で激しい土砂降りへと変わっていった。
「うわ、最悪」
「傘持ってきてないんだけど!」
教室に残っていた生徒たちが騒ぎ始める。
三は立ち止まり、窓の外を睨みつけた。
朝の天気予報を信じたツケがこれだ。カバンに入っているのは、気休め程度にしかならない小さな折り畳み傘だけ。家までは徒歩で十五分ほどだが、この勢いの雨の中を歩けば、小さな傘では確実に下半身がずぶ濡れになる。
とはいえ、ここで止むのを待つのも退屈だ。家までは遠くないが、この雨がすぐに止みそうにも見えなかった。
三は少し遅れて廊下へ出た。
その人混みの中に、優の姿を見つける。
彼女は一人だった。人気がないわけではない。でも、周りには自然と人が集まるタイプだ。なのに今は、誰も隣を歩いていない。
階段を降りる横顔を見て、三はふと思う。
(ああいう人にも、一人の時間ってあるんだな)
当たり前のことなのに、世界の中心にいるような彼女のそんな姿は少し意外に感じた。
昇降口に着くと、外は完全な雨の世界だった。
コンクリートの屋根を叩く音がやけに大きく響く。
三は鞄から申し訳程度の折り畳み傘を取り出す。
その時。
「あ……」
声の方向に視線を向けると、優が困ったように鞄の中を探っていた。何度か確認して、静かに息を吐く。
どうやら傘を忘れたらしい。
ラブコメの主人公であれば、間違いなくここで格好良く傘を貸すのだろう。だが、三にはそんな芸当はできない。三じゃない誰かが、そのうち声をかけるはずだ。
そう自分に言い聞かせた、次の瞬間だった。
優が突然、意を決したように土砂降りの雨の中へ走り出したのだ。
一瞬の出来事に頭が追いつかなかった。けれど、身体が勝手に動いていた。
「ーーっ、おい!古暮さん! 傘!」
気がつけば、三は雨の中に一歩踏み出し、彼女に頭上に小さな折り畳み傘を突き出していた。
「え……?」
優は目を丸くして、びっくりしたような顔でこちらを振り返る。
「それは、どういう……」
「この雨で行ったら、流石に風邪ひくだろ。この傘使って」
言い切った後に、猛烈に後悔が押し寄せてきた。何を言ってるんだ、俺は。
焦ると突拍子もない行動をしてしまうのは、小さい頃からの悪い癖だ。直そうと思っていたのに、またやってしまった。
だが、彼女が受け取るとも限らない。いっそ「いらない」と言われればいい、とさえ思った。
「それだと、坂倉君が濡れてしまいます」
「俺は男だし、家近いからさ。大丈夫だよ」
「……」
優は少しの間、黙って三を見つめていたが、やがて小さく口を開いた。
「なら……途中まで、ご一緒してもいいですか」
「え」
突拍子もない発言をするのは自分ばっかりだと、そう思い込んでいたようだ。まさか彼女の口から、そんな言葉が出るとは思わなかった。




