27話 冷めない熱の余韻で
ライブ会場の轟音が止み、代わりに耳を突くのは会場からの退場を促すアナウンスと、撤収を始めるスタッフの声だった。
薄暗い会場の隅、人の波が少し引いたところで、三は足を止めた。少しだけ体調が戻り、先ほどまでのふらつきも収まっている。
「……終わったな」
「はい。……とてもかっこよかったです」
優はステージへ向けられていた視線を落とし、小さく呟いた。
「……じゃあ、俺はこれで」
三はそう言って、そそくさと会場の出口へ向かおうとした。
その背中に、控えめな声が届く。
「……あの、坂倉君」
三が振り返ると、優は少しだけ視線を逸らし、指先でメイド服の裾を小さく弄んでいた。彼女らしい、決して踏み込みすぎない、けれど確実な意志を持った視線だった。
「……さっき、家庭科室で助けた時のこと、なんですけど」
「……ああ、助かったよ。ありがとう」
「いえ……その」
優は言い淀みながらも、努めて平坦な声で続けた。
「……坂倉君、って呼ぶのが、さっきからずっと硬い気がして……。名前で呼んでもいいですか」
その言葉に、三は一瞬息を呑んだ。
想定外の言葉に視線が泳ぎそうになる。
三は動揺を悟られまいと、一度大きく息を吐き出す。心臓の音を平静なふりをして押し殺し、努めて無機質な声を作ろうとして
――結局、言葉の先走りを止めることはできなかった。
「……名前で呼ぶのは迷惑かからないか?」
口から出た言葉を、三は自分の耳で聞いて絶句した。
(おい、何言ってんだ俺は)
反射的に口から出たのは、拒絶でもなければ、適当に流す言葉でもなかった。むしろ、自分が踏み込む側になることを懸念するような、ちぐはぐな問いかけだ。
三は、自分の不用意さに冷や汗を流す。
対する優は、少しだけきょとんとした顔をした後、小さく肩をすくめて笑った。
「迷惑、ですか? ……そんなこと、あるわけないでしょう」
優は一拍置いて、少し照れたように視線を落とす。
「それに……私だけ名前で呼ぶのも、少し変ですし」
「……?」
「坂倉君も、その……名前で呼んでください」
三は息を呑んだ。
そんな提案まで返ってくるとは思ってもいなかった。ただ名前で呼ぶ。それだけのことのはずなのに、妙に意識してしまう自分がいる。
しかし彼女の反応があまりに自然で、拍子抜けするほど穏やかだった。自分だけが過剰に意味を見出し、挙句の果てに自分から踏み込む許可を求めているような今の状況が、ひどく滑稽で恥ずかしい。
「……そうか。なら…」
三は気まずさに耐えきれず、乱暴に頭をかいた。
「……優」
硬い響きだった。それでも、その一言を口にした瞬間、少しだけ肩の力が抜けた。
「……慣れないな」
優は小さく笑みを浮かべる。
「そうですね。……三君」
くすぐったいような、落ち着かないような感覚が胸の内をかすめる。
「じゃあ、また」
「はい。また」
三はもう一度名前を呼ぶ勇気はなく、軽く手を上げて会場の出口へ向かった。
◇
文化祭の熱狂から数日が経っても、校内のあちこちでその残響は消えていなかった。
教室や廊下、渡り廊下の掲示板に至るまで、話題はどこもかしこも文化祭の成功談と、誰が誰と何をしていたかという些末な噂話で埋め尽くされている。
蓮や斗真のメイド服姿はクラスの連中から散々いじり倒され、真っ赤になって言い返している光景は、もはや日常の風景と化していた。彼らの賑やかさは、この学校の空気に溶け込んだ騒音のようなものだ。
しかし、その雑多な噂話の中に、少しだけ温度の違う混線が混ざっていた。
「ねえ聞いた? 文化祭の時、古暮ちゃんが誰かと歩いてたらしいよ」
「え、あの古暮さんが? 本当に?」
「うん。メイド服のままだったって」
昼休みの教室や、放課後の女子トイレの洗面台など、女子生徒たちの溜まり場でその話題はひっそりと、しかし確実に広がっていた。
それは大きな事件というほどではない。ただ、常に周囲と一定の距離を保ち、誰に対しても等しく丁寧で、どこか近寄りがたい雰囲気を纏っていた「古暮優」という存在にとって、誰かと二人きりで歩くというのは、それだけで十分に特筆すべきニュースだった。
噂は尾ひれをつけられ、あるいは誰かの空想で彩られ、学校という閉じた箱の中でゆっくりと、確実な影を落とし始めていた。




