26話 あわいの静寂
ガタッ。
もう一度力を込めても、引き戸はびくともしなかった。
三は小さく息を吐き、手を離す。
「……駄目か」
壁へ背中を預け、静かにその場へ腰を下ろす。スマートフォンを取り出そうとして、ポケットが空なことに気付いた。
着替える時、教室へ置いたままだ。誰かへ連絡することもできない。無理に開けようとして戸を壊すより、誰かが来るのを待つ方が早いだろう。皿を取りに来るはずだろうし。
そう判断すると、三は目を閉じた。
部屋の中は静かだった。遠くから聞こえる文化祭の賑わいだけが、かすかに耳へ届く。誰もいない空間。やることもない。自然と考え事をする時間になっていた。
最近、少しだけ妙だった。
入学した頃の自分なら、学校は授業を受けて帰るだけの場所だった。誰かと深く関わる気もなければ、関わられることも望んでいなかった。
そうある必要があると思っていた。
なのに最近は、そう考えることが少なくなっている。それが良いことなのか悪いことなのか、自分でもよく分からない。
……いつからだろう。何がきっかけだったのか。考えてみても、答えは浮かばなかった。
「……」
三は天井を見上げる。考えても仕方のないことを考えている。そう思うと、少しだけ可笑しかった。 朝から動き続けていた疲れが、一気に押し寄せる。昼食も食べていない。静かな部屋は思っていた以上に居心地がよかった。
「……誰か、来るだろ」
小さく呟き、壁へ頭を預ける。瞼が重い。眠るつもりはない。少し休むだけ。そう思って目を閉じる。
どれくらい経っただろうか。
コン、コン。
何かを叩く音が聞こえた気がした。
「……」
誰かが何か言っている。ぼんやりとした意識の中で、その声だけが遠く聞こえる。返事をしなければ。そう思った。けれど、口は動かなかった。意識は、また静かに闇へと沈んでいった。
◇
教室ではピークをようやく乗り切り、あちこちから安堵の声が上がる。
「はぁ……疲れたぁ」
「今日すごかったね」
「古暮ちゃん人気やばかったよね」
「外まで列できてたもん」
優は照れくさそうに笑いながら食器を片付けていた。そんな中、一人の女子が辺りを見回す。
「そういえば、坂倉君は?」
「あれ?」
「さっき、お皿割れたじゃん。それで予備のお皿取りに行って……」
「……それから見てないかも」
教室の空気が少しだけ変わる。
「え?」
「もう結構経ってない?」
「古暮ちゃん、何か聞いてる?」
返事はなかった。
「……あれ?」
優は、もうそこにいなかった。
優はメイド服の裾を押さえながら廊下を駆けていた。
(坂倉君……!)
周囲の視線など気にする余裕はない。家庭科準備室の前へ辿り着き、勢いよく引き戸へ手を掛ける。
ガタッ。
「開かない……?」
嫌な予感が胸をよぎる。優はガラス越しに中を覗く。薄暗い室内。壁にもたれ掛かるように座る三の姿が見えた。
「坂倉君!」
返事はない。
「坂倉君!」
優は何度も引き戸を揺らす。
「三君!」
必死に戸を叩く音だけが、廊下へ響いていた。
◇
誰かが話している声が聞こえた。ぼんやりとした意識の中で、その声だけが少しずつ近付いてくる。重い瞼をゆっくりと開く。視界はぼやけていた。何度か瞬きをすると、少しずつ焦点が合っていく。
「……古暮さん?」
「坂倉君!」
安心したような声だった。三はゆっくりと身体を起こす。
「起きた?」
隣にいた家庭科教師が優しく声を掛ける。
「あ……すみません」
「謝らなくていいわ」
「古暮さんがすぐ見つけてくれてね。二人で引いてなんとか開いたのよ」
教師は微笑む。「少し疲れが出たみたいね。水、飲める?」
「あ、はい」
三はペットボトルを受け取り、少しずつ喉を潤した。
「朝から忙しかったものね。軽い脱水もあると思うから、今日は無理しないこと」
「はい」
「気分は?」
「もう大丈夫です」
教師は三の様子を見て安心したように頷く。「それならよかった」
立ち上がると、優へ視線を向けた。「古暮さん、ありがとうね」
「いえ……」
「私は教室へ戻るから、二人とも無理だけはしないように」
そう言い残し、教師は廊下の方へ歩いていった。静かになった家庭科室で、三は小さく息を吐いた。
「……ごめん、探しにきてもらって」
三は視線を床に落としたまま、ぼそりと呟く。
「大丈夫です、それより無事でよかった」
優は淡々と、しかし安堵した様子で軽く肩をすくめる。感情を大げさに表さない彼女の静けさが、今の三には心地よかった。
「あの後メイド喫茶は?」
「……なんとか回りました。午前中は乗り切ったと思います」
淡々と報告する優に、三は少し申し訳なさを覚える。
「……そうか」
「……古暮さん。この後の予定は?」
三が尋ねると、優は小さく頷いた。
「……友達のバンドを見に行く予定でした」
「俺は大丈夫だから、見に行っていいよ」
三はそう言い立ち上がると、頭がふらりと揺れ、思わず壁へ手をついた。
「っ……」
「……無理しないでください」
優がすかさず腕を支える。メイド服の柔らかな布越しに、彼女の手の温もりが伝わった。三はそれを振り払うことなく、少しだけ身を預ける。
「このまま、坂倉君を一人にするのは……」
その瞳にははっきりとした懸念が浮かんでいる。三は優の方を少しだけ向いて言った。
「……じゃあ、俺も見に行く」
優はきょとんとした表情で一瞬瞬きをし、それから小さく頷き二人で家庭科室を後にした。
文化祭の熱気は、昼を過ぎてさらに増していた。廊下を歩く二人の姿は、否が応でも人目を引いた。一方はメイド服の少女、もう一方はその傍らに立つ、どこか気だるげでアンバランスな男子生徒。
「ねえ、あれって……」
「メイドカフェの子? え、可愛い……」
「あっちのクラスも行ってみようかな」
周囲から聞こえてくるのは、無邪気な好奇心ばかりだった。メイド服姿の優と、それに付き添うように歩く三の姿は、周囲には「何かのアピール」か「出し物の宣伝」のように見えているらしかった。二人の間に流れる奇妙な空気や、三が少しだけふらつく危うさには、誰も気付かない。二人は意図せず、文化祭という舞台の中で最高に目を引く「看板」となっていた。
騒がしい廊下を抜け、少し薄暗いライブ会場へ足を踏み入れる。
爆音と熱気が、二人を包み込んだ。
バンドが奏でる激しいリズムが、身体の芯を震わせる。三は壁際に立ち、優と並んで演奏を見つめた。
会場のあちこちで揺れるペンライトの光が、二人の横顔を交互に照らす。
三はふと、隣で音楽に聴き入る優を見つめた。
ステージ上の照明を反射したのか、あるいはこの場の熱狂がそうさせるのか。彼女の瞳は、いつもよりもずっと強く、キラキラと輝いて見えた。
それは、メイド喫茶で客を相手にしていた時の表情とは、明らかに違うものだった。
三は何も言わず、ただその輝きを隣で眺めていた。先ほどまでの体調不良が嘘のように、胸の奥が少しだけ熱くなるのを感じていた。
ライブの轟音は、二人の間に流れる空気をより一層濃密なものにしていた。
ボーカルの叫びとギターの咆哮が混ざり合い、会場のボルテージが最高潮に達する。その熱狂の渦の中で、優はふと視線をステージから外し、隣に立つ三を見上げた。
「……坂倉君のおかげで、ライブ観に来れました。ありがとうございます」
彼女の口元が動き、絞り出された言葉。三は少し照れくさそうに視線を落としながら、首を横に振った。
「……違う、逆だ。俺が倒れ込んでたんだから。……あのまま部屋で動けなくなってたかもしれない。こっちの方こそ助けてくれて、ありがとう」
三の言葉は、爆音にかき消されることなく、確かに優の耳に届いたようだった。優は嬉しそうに、けれど少しだけはにかむように微笑む。
再びステージへと視線を戻す。眩いライトが会場を照らし、友人のバンドがラストのサビへと突入する。ドラムのビートが心臓の鼓動と重なり、三の体調も、さっきよりもずっと安定してきているのが分かった。
優はステージの輝きに瞳を揺らしながら、また少しだけ三の方へ身体を寄せた。
「……三君と、見に来れてよかったです」
彼女が静かに紡いだその言葉は、しかし、ドラムの激しい連打と会場の歓声にかき消されてしまった。
三はただ、ステージの熱狂に見惚れているのかと思った。優が口元に浮かべた、どこか切なげで、しかし充足したような微笑みに気付くことはなく、三もまた、そのキラキラと輝くステージを二人で並んで見つめ続けていた。




