13話 白い天井の下で
最初に感じたのは、消毒液の匂いだった。
ゆっくりと瞼を開き白い天井が視界に映る。ぼんやりとした頭で周囲を見回し、そこでようやく自分が保健室のベッドに寝かされていることに気付いた。
どうしてここにいるんだろう。
そんなことを考えて――。
不意に記憶が繋がる。
書類を持って廊下を歩いていた時突然視界が揺れ身体に力が入らなくなり倒れた。
直前に誰かに名前を呼ばれた気がしたけどそこで記憶は途切れている。
「起きたのね」
近くから声が聞こえた。
見ると、保健の先生が椅子に座ってこちらを見ていた。
「先生……」
「気分はどう?」
「少しだるいですが、大丈夫です」
本当は全然大丈夫ではない。
それでもそう答えると、先生は呆れたように笑った。
「大丈夫だったら倒れたりしませんよ」
そう言われてしまえば返す言葉はなかった。
窓の外から歓声が聞こえる。体育祭はまだ続いている。
その音を聞いた途端、胸の奥がざわついた。軍リーダーのこと。生徒会のこと。
次々と頭に浮かぶ。
「皆に迷惑をかけてしまいました……」
思わずそう呟く。
体育祭はまだ終わっていない。
軍の仕事も、生徒会の仕事も残っているはずだ。
すると保健の先生は苦笑した。
「本当に真面目ね」
「でも……」
「大丈夫よ。さっき軍のリーダーの子たちが来ていたわ」
私は顔を上げた。
「『古暮には十分働いてもらったので、後は任せてください』って」
思わず目を瞬いた。
あの二人がそんなことを。
「それに生徒会も何とか回っているみたいよ」
「そうなんですか?」
「ええ。誰か手伝ってくれている子がいるらしくてね。先生たちも助かってるって話していたわ」
手伝ってくれている子。
生徒会の仕事を進んで引き受けるような人はそう多くない。
誰だろう。
「だから今は仕事のことは忘れて休みなさい」
「はい」
「体調が回復したら無理のないように参加してもいいですよ」
先生は優しく言った。
そう言って立ち上がった先生が、扉へ向かいかけてふと足を止めた。
「あ、そうそう」
何かを思い出したようにこちらを振り返る。
「古暮さんが倒れた時ね」
首を傾げた。
「古暮さんと同じクラスの坂倉三君?が支えてくれたみたいよ」
「……え?」
一瞬、言葉の意味が理解できなかった。
「頭を打たないように咄嗟にね。そのままここまで運ぶのも手伝ってくれたみたい」
彼が。
私を?
あの時、最後に聞こえた気がした声。
もしかして――。
「そう、だったんですか……」
「ええ。もし気になったら後でお礼を言ってあげなさい」
先生はそう言い残し、今度こそ保健室を後にした。
扉が閉まる音が響き、保健室は静寂に包まれた。微かにグラウンドに響く歓声が聞こえる。
私は静かに天井を見上げた。
軍のことも、生徒会のことも気になる。けれど今は休めと言われたのでそれに従うほかない。それに、『後は任せてください』と言ってくれた。
なら、少しくらい頼ってもいいのかもしれない。
目を閉じようとして、ふと先生の言葉を思い出す。
坂倉君が支えてくれた。頭を打たないように。それにここまで運ぶのも手伝ってくれた。
正直、そんな姿はあまり想像できなかった。そう思うと、少し可笑しかった。
「後で、お礼を言わないとですね」
誰に聞かせるでもなく呟く。
それだけ確認するように口にして、私はゆっくりと目を閉じた。
◇
体育祭の会場、メイングラウンド脇に設営された本部テント。
そこは各軍からの報告が絶えず、放送と歓声が入り混じる、体育祭の心臓部だ。古暮さんが保健室へ運ばれてから数時間、その一角で三は黙々とタスクを消化していた。
「古暮、次の競技の審判用紙、ここに入れとくな」
「軍の備品返却、こっちでまとめて欲しい」
軍のリーダーや運営委員たちが、当たり前のように坂倉に声をかける。本来なら古暮さんが指揮を執るはずの場所で、彼は額の汗を拭うことも忘れ、淡々とそれらの要求に応え続けていた。
「了解です」
彼は古暮さんが作成していた進行表を正確に読み解き、静かに指示を返していく。慣れない作業に三の肩は凝り固まっているが気にしなかった。
どうせこの後、三の出る競技は残っていないのだから。
ふと、机の端に置かれた古暮さんの手帳に視線が止まる。倒れる直前まで、彼女が何に悩み、何を優先しようとしていたか。その几帳面な筆跡を追っているうちに、三の中で小さな自責が渦巻く。
(……倒れるほど無理しなくていいのに)
三は表情を崩さないまま、より一層正確に、速く書類を整理することに集中した。彼女が戻ってきた時に、少しでも楽ができるようにと。
◇
近くの椅子へ腰を下ろし、スポーツドリンクの蓋を開ける。
一口飲んだところで、不意に聞き慣れた声がした。
「坂倉君」
三が顔を上げるとそこには保健室で休んでるはずの優が立っていた。
「あれ」
三は思わず瞬きをする。
「もう大丈夫なんですか」
「はい。ご心配をおかけしました」
そう言って頭を下げる。
顔色はまだ少し白いが、保健室で見た時よりはずっと良さそうだった。
「無理はしないでください」
「以後気をつけます」
優は三の手に持っているボールペンへと視線を向けた。
「私の仕事も引き受けていたんですよね」
「ああ、まあ」
古暮さんが倒れた以上、残った仕事をそのままにしておくのは気が引けた。だからできる範囲で手伝っただけだ。
「ありがとうございました」
優は深々と頭を下げた。そこまで感謝されるようなことをした覚えはない。自分にできることをしたまでだ。
「そんな大したことじゃないですよ」
「そんなことありません」
即座に返ってくる。
いつも通り落ち着いた声なのに、不思議と譲る気配がなかった。
「それと……」
優は少し言葉を選ぶように間を置いた。
「倒れた時も助けてくださったそうですね」
「ああ」
保健の先生が話したのだろう。
三は軽く頭を掻く。
「たまたま近くにいたので」
「それでもです」
優は小さく微笑んだ。
「本当にありがとう」
三は少しだけ視線を逸らす。こういう真っ直ぐなお礼はどうにも慣れない。
「どういたしまして」
それが精一杯だった。
しばらく沈黙が落ちる。
それ以上言うことも見つからず、三はスポーツドリンクを口に運んだ。




