第92話 勘十郎に向く目
「勘十郎様、こちらへ」
女中がそう言って障子を静かに開けた時、勘十郎は一度だけ廊下の奥を見た。
父の部屋へ向かう廊下は、昔から特別な場所だった。
誰もが声を少し落とし、歩幅を少しだけ狭める。だが近頃は、その静けさの質が違う。敬いというより、何かを押し殺すような静けさだ。
勘十郎はその空気の変化が好きではなかった。
「兄上は?」
思わずそう訊く。
女中は一瞬だけ言葉を詰まらせ、それから目を伏せた。
「ただ今は……お見えではございませぬ」
勘十郎は小さく頷いた。
そうだろうと思っていた。
兄は近ごろよく城を空ける。いや、正確には“空けているように見える”だけで、実際には何かを掴もうとして動いているのだろう。火の筒だの、異国の武だの、勘十郎にはまだ遠い話ばかりだ。だが、兄がただ遊んでいるわけではないことくらいは分かる。
分かるからこそ、少し苦しかった。
部屋へ入ると、信秀は床几にもたれるように座っていた。
弱っている。
それは見れば分かる。
顔色は薄く、肩も少し痩せた。だが目だけはまだ鋭かった。体の方が先に老いを見せても、その目だけは簡単に鈍らぬ。そこが、父らしかった。
「参りました、父上」
勘十郎が膝をつくと、信秀は短く頷いた。
「うむ」
それだけの返事なのに、部屋の空気が少し引き締まる。
父はまだ父なのだと、そう思わされる声だった。
「顔色が優れませぬ」
勘十郎が静かに言う。
信秀は鼻で笑った。
「おぬしまで平手のようなことを言うか」
「心配しておるだけにございます」
「知っておる」
短い言葉だった。
だが、その奥に不思議な温かさがあった。
勘十郎は少しだけ胸を撫で下ろし、それから用意してきた薬湯を差し出した。信秀はそれを受け取る。手が少しだけ重そうだと気づき、勘十郎の胸の奥がまた重くなる。
病は、やはり進んでいる。
「兄上も、いずれ参るかと」
勘十郎が何気なく言うと、信秀は薬湯へ口をつける前に少しだけ目を細めた。
「吉法師は、また何か見つけた顔をしておるか」
勘十郎は、そこで思わず小さく笑った。
「はい」
「そうか」
信秀も、ほんの少しだけ口元を緩める。
その表情を見て、勘十郎は胸が痛んだ。
父は兄を理解している。
少なくとも、周囲が言うほどには見放していない。
それが分かるからこそ、家中の空気とのずれが余計に苦しい。
「兄上は」
勘十郎は慎重に言葉を選ぶ。
「最近、鉄の筒の話ばかりしておられます」
「鉄砲か」
信秀が、あっさりその名を口にしたので、勘十郎は目を瞬いた。
「父上はご存じなのですか」
「噂くらいは耳に入る」
信秀は薬湯を置いた。
「火で物を飛ばす、南蛮渡りの妙な武具。堺あたりで扱う者がいる、という話だ」
勘十郎は少し迷ってから言う。
「兄上は、それで戦が変わると」
「変わるかもしれぬな」
その返しも、あまりにもあっさりしていた。
勘十郎はそこでようやく気づく。
自分が思っている以上に、父は遠い話まで見えているのだと。
病に伏せ、咳に苦しみながらも、家の外で起きている変化をちゃんと拾っている。
「ですが」
勘十郎は続ける。
「家中の者どもには、まだ兄上の話は遠すぎるように思えます」
信秀は少しだけ黙った。
「当然だ」
やがて低く言う。
「今の尾張にとっては、明日の飯と、明日の兵と、明日の家督の方が近い」
その言葉に、勘十郎は思わず膝の上で手を握った。
家督。
誰もはっきりとは口にしない。
だが、この部屋ではもう避けて通れない響きになりつつある。
信秀は、そんな息子の小さな変化を見逃さなかったらしい。
「おぬしも、感じておるか」
静かな問いだった。
勘十郎は、すぐには答えられなかった。
感じている。
家臣の目。
女中の囁き。
母の言葉。
全部が少しずつ、自分の方へ寄ってきている。
だが、それを認めること自体が、兄に対する裏切りのようで苦しかった。
「……はい」
ようやくそう答える。
信秀はそれを聞いても、怒りもしなければ慰めもしなかった。
ただ、じっと勘十郎を見た。
「おぬしは、吉法師をどう見る」
その問いは、勘十郎の胸を深く突いた。
兄をどう見るか。
嫌いではない。
それどころか、憧れすらある。
だが、それをそのまま父の前で言っていいものか、一瞬迷う。
「兄上は」
勘十郎は静かに言う。
「私には見えぬものを見ておられます」
信秀の目が、わずかに細くなる。
勘十郎は続けた。
「私は、兄上ほど遠くを見ることはできませぬ。今、目の前にいる人の顔色や、場の空気を読むことしか、うまくはできない」
「それでよい」
信秀は言った。
勘十郎は少しだけ顔を上げる。
「兄は遠くを見、弟は近くを見る。違うものが見えておるだけだ」
その言葉は、優しいようでいて、どこか恐ろしくもあった。
違うものが見えている。
なら、いずれ違う道へ押し流されるのではないか。
そんな不安が、どうしても胸へ差し込む。
部屋を辞したあと、勘十郎は長い廊下をひとり歩いた。
途中で、二人の家臣とすれ違う。
彼らは深く頭を下げた。
「勘十郎様」
「ご見舞いにございましたか」
「ご苦労にございます」
言葉そのものに不自然はない。
だが、その顔にある色が前より少し違った。
安堵。
それに近いものがある。
兄を見る時とは違う目だ。
兄へは測るような目が向く。
自分へは、少しだけ肩の力を抜いたような目が向く。
それが、勘十郎には何より苦しかった。
「いや……」
ただ短く返し、足を止めずに歩く。
廊下の先、庭の見える場所で一度だけ立ち止まった。
白砂の向こうで、風に松が揺れている。
その景色はいつもと同じなのに、自分の立っている場所だけが少しずつ変わっていくような気がした。
兄は外を見ている。
火の筒の先にある未来を見ている。
自分はその全部を理解できていない。
だが、理解できなくても分かることがある。
兄の背は遠い。
遠くて、眩しくて、まっすぐ見ていると少し苦しい。
「兄上……」
小さく呟く。
ただ兄としていてほしい。
ただ、それだけなのに。
しかし周りはそうは見ない。
父の病が深まるほど、自分を見る目は増え、言葉は柔らかくなり、期待の重みだけが静かに肩へ乗ってくる。
自分はそれを望んでいない。
けれど、望まぬからといって消えるものでもない。
「兄上の帰る場所を、奪いたいわけではないのに」
風に紛れるほど小さな声だった。
誰にも聞かれなかった。
聞かれなくてよかったと、勘十郎は思う。
そんな本音を口にしたところで、何かが軽くなるわけではないのだから。
遠くの廊下で、誰かの足音が止まる気配がした。
顔を上げる。
だがそこにいたのは兄ではなかった。
ただの小姓だった。
それだけのことなのに、勘十郎は少しだけ胸が痛んだ。
兄と話したい。
けれど今、自分の方から近づくことすら、なぜか少し怖い。
家中の目が、そこに別の意味をつけ始めているからだ。
そうしているうちにも、父の時間は減っていく。
兄は未来を見ている。
自分は“次”として見られ始めている。
そのどちらにも、まだ心が追いついていなかった。




