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尾張のうつけと呼ばれ、家臣にも見放されかけた織田信長だが、実は戦の地形も商いの流れも人の本心も見抜く戦国最強の天才でした 〜蝮の娘と忍びに振り回されながら天下布武を目指すラブコメ戦記〜戦国異聞伝〜  作者: 常陸之介寛浩✪書籍・本能寺から始める信長との天下統一
第二章 尾張放浪編 ― うつけ、世を知る

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第93話 母の声

「勘十郎」


その呼び方が、いつもより少しだけ重かった。


勘十郎は障子の前で一度だけ息を整えてから、母の部屋へ入った。夕刻の光はすでに薄く、行灯の灯りが先に部屋の輪郭を作っている。香はいつも通り焚かれていたが、今日はその匂いさえ少しだけ息苦しく感じられた。


母は几帳の前に座っていた。

姿勢は乱れていない。

声も静かだ。

だが、その静けさの中に、近頃はっきりとした張りが混じるようになっていることを、勘十郎は知っていた。


「お呼びにございますか」


「ええ。座りなさい」


勘十郎が膝をつくと、母はしばらく何も言わなかった。

その沈黙が、返って言葉より重い。


障子の向こうでは、女中たちが気配を殺して動いている。

誰も大きな音を立てない。

城の中の静けさは日に日に濃くなっていた。


「信秀様のご様子は」


母がようやく口を開いた。


「先ほど見舞ってまいりました」


「……そう」


勘十郎は続ける。


「まだ、お言葉には力がございます」


母は小さく頷いた。

だがその頷きには安堵よりも、むしろ別の計算が混じっているように見えた。


勘十郎はそれが少し怖かった。


「勘十郎」


母は扇を膝に置いたまま、息子をまっすぐ見た。


「あなたは、最近、周りの目が変わってきたことに気づいているでしょう」


心臓が、少しだけ強く打つ。


勘十郎は、すぐには答えられなかった。

気づいていないはずがない。

廊下での視線。

見舞いのたびに向けられる言葉。

家臣たちの、あの少しだけ安堵したような顔。


「……はい」


短く答えると、母は静かに続けた。


「なら、逃げてはなりません」


その言葉は、勘十郎の胸をまっすぐ刺した。


逃げているつもりはない。

だが、前へ出たいとも思っていない。

その曖昧さを、母は許さないのだと分かる一言だった。


「母上」


勘十郎は慎重に言葉を選ぶ。


「私は、兄上と争いたいわけではありませぬ」


母の目が、ほんの少しだけ細くなる。


その反応を見て、勘十郎はさらに続けた。


「兄上は兄上です。私は私です。誰がどう申そうと、それでよいはずにございます」


「それで済めばよいでしょうね」


母の声は静かだった。

静かである分だけ、厳しかった。


「ですが、武家というものは、それで済まぬ時があるのです」


勘十郎は膝の上で手を握る。


「兄上を押しのけたいわけではありませぬ」


「知っています」


「なら」


「だからこそ言っているのです」


母はそこでわずかに身を乗り出した。


「争うのではないのです、勘十郎。生き残るのです」


その言葉が、あまりにもまっすぐで、勘十郎は一瞬息を止めた。


生き残る。


家を継ぐでもなく、兄を越えるでもなく、

まず“生き残る”と来るのが、母らしかった。


そこには野心よりも、母としての恐れがある。

信秀が倒れた後、家が割れれば、勝つ者もいれば沈む者も出る。

その時、自分の子が沈む側へ回ることを、母は何よりも恐れているのだ。


分かる。

分かるからこそ苦しい。


「私は」


勘十郎はようやく声を出した。


「兄上と敵になりとうはありませぬ」


母はしばらく息子を見ていた。


その目には怒りはない。

だが、優しいだけでもない。

戦国の女の目だった。


「敵になるかどうかを決めるのは、あなた一人ではありませぬ」


勘十郎は言葉を失う。


たしかにそうだ。


自分が望まなくとも、周囲はもう線を引き始めている。

兄を見る時と、自分を見る時の目が違う。

その違いは日に日に濃くなっている。


母は続けた。


「あなたが何も望まぬ顔をしていても、周りはあなたを立てる時が来ます」


「私は……」


「その時に崩れてはならぬのです」


勘十郎は、そこでようやく少し強く顔を上げた。


「では母上は、私に兄上と競えと仰せなのですか」


部屋の空気が、少しだけ張る。


母はすぐには答えなかった。

行灯の火が小さく揺れる。

遠くで障子の閉まる音が一つした。


やがて、母は低く言った。


「私は、あなたに立っていてほしいのです」


「立つことが、競うことになるなら」


「それでも」


その答えは、あまりにも重かった。


勘十郎は唇を噛む。


母を責められない。

母は母として正しい。

だが、その正しさが、自分にはどうしようもなく苦しい。


兄を嫌っていない。

兄の背を見て育った。

自由さに憧れたことすらある。

そんな相手と、周囲の都合で別の場所へ置かれていく。


その現実を、今、母の口がはっきり言い当ててしまった。


「……兄上は」


勘十郎が、少し掠れた声で言う。


「遠くを見ておられます」


母は黙って聞いている。


「私は、そこまでは見えませぬ。見えぬから、せめて近くに立っていたいだけなのです」


その本音は、ほとんど願いに近かった。


兄の隣に、ただ弟として立っていたい。

それだけでよかったはずなのに、時代も家も、それを許さなくなってきている。


母はゆっくりと扇を閉じた。


「勘十郎」


「はい」


「あなたは優しすぎる」


その言葉は、以前も聞いた。

だが今日は、以前よりもっと痛く響いた。


「優しさだけで、この城の中は渡れませぬ」


勘十郎は何も返せなかった。


否定できない。

だが受け入れたくもない。


母は、そこでそれ以上追い詰めることはしなかった。

それでも、もう十分だった。


話は終わった。

終わったが、勘十郎の胸の中では何ひとつ終わっていない。


部屋を辞したあと、勘十郎はそのまま庭の見える廊下まで歩いた。


夕方はもう夜へ沈みかけている。

白砂は青く、松の影は長く、空は少しだけ曇っていた。


兄上と争いたくない。

その気持ちは本物だ。


だが、それだけでは済まぬ時が来る。


母の言葉が、そこをはっきり突いた。

そしてそのことを、勘十郎自身もどこかで分かっていた。


「兄上……」


小さく名前を呼ぶ。


当然、返事はない。


兄は今ごろ、火の筒のことでも考えているのかもしれない。

自分がここでこんなふうに立ち尽くしている間にも、もっと遠いものを見ているのだろう。


「私は」


勘十郎は、ひとりで呟いた。


「どうすればよいのだろう」


答える者はいない。


あるのは、城の中へ静かに広がっていく冷えだけだった。


その冷えの中で、兄弟をただ兄弟のまま置いてはくれない何かが、確実に形になり始めていた。

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