第93話 母の声
「勘十郎」
その呼び方が、いつもより少しだけ重かった。
勘十郎は障子の前で一度だけ息を整えてから、母の部屋へ入った。夕刻の光はすでに薄く、行灯の灯りが先に部屋の輪郭を作っている。香はいつも通り焚かれていたが、今日はその匂いさえ少しだけ息苦しく感じられた。
母は几帳の前に座っていた。
姿勢は乱れていない。
声も静かだ。
だが、その静けさの中に、近頃はっきりとした張りが混じるようになっていることを、勘十郎は知っていた。
「お呼びにございますか」
「ええ。座りなさい」
勘十郎が膝をつくと、母はしばらく何も言わなかった。
その沈黙が、返って言葉より重い。
障子の向こうでは、女中たちが気配を殺して動いている。
誰も大きな音を立てない。
城の中の静けさは日に日に濃くなっていた。
「信秀様のご様子は」
母がようやく口を開いた。
「先ほど見舞ってまいりました」
「……そう」
勘十郎は続ける。
「まだ、お言葉には力がございます」
母は小さく頷いた。
だがその頷きには安堵よりも、むしろ別の計算が混じっているように見えた。
勘十郎はそれが少し怖かった。
「勘十郎」
母は扇を膝に置いたまま、息子をまっすぐ見た。
「あなたは、最近、周りの目が変わってきたことに気づいているでしょう」
心臓が、少しだけ強く打つ。
勘十郎は、すぐには答えられなかった。
気づいていないはずがない。
廊下での視線。
見舞いのたびに向けられる言葉。
家臣たちの、あの少しだけ安堵したような顔。
「……はい」
短く答えると、母は静かに続けた。
「なら、逃げてはなりません」
その言葉は、勘十郎の胸をまっすぐ刺した。
逃げているつもりはない。
だが、前へ出たいとも思っていない。
その曖昧さを、母は許さないのだと分かる一言だった。
「母上」
勘十郎は慎重に言葉を選ぶ。
「私は、兄上と争いたいわけではありませぬ」
母の目が、ほんの少しだけ細くなる。
その反応を見て、勘十郎はさらに続けた。
「兄上は兄上です。私は私です。誰がどう申そうと、それでよいはずにございます」
「それで済めばよいでしょうね」
母の声は静かだった。
静かである分だけ、厳しかった。
「ですが、武家というものは、それで済まぬ時があるのです」
勘十郎は膝の上で手を握る。
「兄上を押しのけたいわけではありませぬ」
「知っています」
「なら」
「だからこそ言っているのです」
母はそこでわずかに身を乗り出した。
「争うのではないのです、勘十郎。生き残るのです」
その言葉が、あまりにもまっすぐで、勘十郎は一瞬息を止めた。
生き残る。
家を継ぐでもなく、兄を越えるでもなく、
まず“生き残る”と来るのが、母らしかった。
そこには野心よりも、母としての恐れがある。
信秀が倒れた後、家が割れれば、勝つ者もいれば沈む者も出る。
その時、自分の子が沈む側へ回ることを、母は何よりも恐れているのだ。
分かる。
分かるからこそ苦しい。
「私は」
勘十郎はようやく声を出した。
「兄上と敵になりとうはありませぬ」
母はしばらく息子を見ていた。
その目には怒りはない。
だが、優しいだけでもない。
戦国の女の目だった。
「敵になるかどうかを決めるのは、あなた一人ではありませぬ」
勘十郎は言葉を失う。
たしかにそうだ。
自分が望まなくとも、周囲はもう線を引き始めている。
兄を見る時と、自分を見る時の目が違う。
その違いは日に日に濃くなっている。
母は続けた。
「あなたが何も望まぬ顔をしていても、周りはあなたを立てる時が来ます」
「私は……」
「その時に崩れてはならぬのです」
勘十郎は、そこでようやく少し強く顔を上げた。
「では母上は、私に兄上と競えと仰せなのですか」
部屋の空気が、少しだけ張る。
母はすぐには答えなかった。
行灯の火が小さく揺れる。
遠くで障子の閉まる音が一つした。
やがて、母は低く言った。
「私は、あなたに立っていてほしいのです」
「立つことが、競うことになるなら」
「それでも」
その答えは、あまりにも重かった。
勘十郎は唇を噛む。
母を責められない。
母は母として正しい。
だが、その正しさが、自分にはどうしようもなく苦しい。
兄を嫌っていない。
兄の背を見て育った。
自由さに憧れたことすらある。
そんな相手と、周囲の都合で別の場所へ置かれていく。
その現実を、今、母の口がはっきり言い当ててしまった。
「……兄上は」
勘十郎が、少し掠れた声で言う。
「遠くを見ておられます」
母は黙って聞いている。
「私は、そこまでは見えませぬ。見えぬから、せめて近くに立っていたいだけなのです」
その本音は、ほとんど願いに近かった。
兄の隣に、ただ弟として立っていたい。
それだけでよかったはずなのに、時代も家も、それを許さなくなってきている。
母はゆっくりと扇を閉じた。
「勘十郎」
「はい」
「あなたは優しすぎる」
その言葉は、以前も聞いた。
だが今日は、以前よりもっと痛く響いた。
「優しさだけで、この城の中は渡れませぬ」
勘十郎は何も返せなかった。
否定できない。
だが受け入れたくもない。
母は、そこでそれ以上追い詰めることはしなかった。
それでも、もう十分だった。
話は終わった。
終わったが、勘十郎の胸の中では何ひとつ終わっていない。
部屋を辞したあと、勘十郎はそのまま庭の見える廊下まで歩いた。
夕方はもう夜へ沈みかけている。
白砂は青く、松の影は長く、空は少しだけ曇っていた。
兄上と争いたくない。
その気持ちは本物だ。
だが、それだけでは済まぬ時が来る。
母の言葉が、そこをはっきり突いた。
そしてそのことを、勘十郎自身もどこかで分かっていた。
「兄上……」
小さく名前を呼ぶ。
当然、返事はない。
兄は今ごろ、火の筒のことでも考えているのかもしれない。
自分がここでこんなふうに立ち尽くしている間にも、もっと遠いものを見ているのだろう。
「私は」
勘十郎は、ひとりで呟いた。
「どうすればよいのだろう」
答える者はいない。
あるのは、城の中へ静かに広がっていく冷えだけだった。
その冷えの中で、兄弟をただ兄弟のまま置いてはくれない何かが、確実に形になり始めていた。




