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尾張のうつけと呼ばれ、家臣にも見放されかけた織田信長だが、実は戦の地形も商いの流れも人の本心も見抜く戦国最強の天才でした 〜蝮の娘と忍びに振り回されながら天下布武を目指すラブコメ戦記〜戦国異聞伝〜  作者: 常陸之介寛浩✪書籍・本能寺から始める信長との天下統一
第二章 尾張放浪編 ― うつけ、世を知る

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第91話 帰蝶の揺さぶり

「あなたは、勝ちたいのではなくて――変えたいのでしょう?」


帰蝶がそう言った時、吉法師は少しだけ目を細めた。


夕方だった。


昼の熱が落ち、庭の白砂がやわらかく沈んだ色へ変わり始める時刻。那古野城の奥まった廊下は静かで、障子の向こうから聞こえるのは風に揺れる松の音くらいしかない。


帰蝶は、わざとその時間を選んだのだろうと吉法師は思った。


人の目が少ない。

けれど完全な密室でもない。

噂になりすぎず、逃げ場もある。

そういう場所だ。


「急に来て、いきなりそれか」


吉法師が言う。


帰蝶は少しだけ肩をすくめた。


「急に来たわけじゃないわ。ずっと見ていたもの」


その答えがいかにも帰蝶らしくて、吉法師は少しだけ口元を上げた。


帰蝶は廊下の柱へ軽く手を添えながら、庭の方へ目をやる。


「最初は、ただ危うい男だと思っていた」


「今は違うのか」


「ええ」


帰蝶ははっきりと言った。


「危ういのは同じ。でも、それだけじゃない」


吉法師は黙って聞く。


帰蝶は続ける。


「あなたは、新しいものを面白がる。誰も見ていないものへ先に目を向ける。変な木組みや、火の筒や、そういうものに異様な熱を見せる」


「異様とは失礼だな」


「褒めてるの」


「そうは聞こえぬ」


「でも本気で言ってるわ」


帰蝶は少しだけ笑った。


「普通の武士の若殿なら、あそこまで食いつかない。あれが戦にどう効くか、家がどう使うか、その先まで一気に目が行く。しかも、ただ勝ちたいだけの顔ではない」


そこで帰蝶は、ようやく吉法師へまっすぐ向き直った。


「あなた、勝ちたいのではなくて――変えたいのでしょう?」


廊下の空気が、そこで少しだけ止まった。


吉法師はすぐには答えなかった。


勝ちたいかと問われれば、もちろん勝ちたい。

戦国に生まれた以上、勝ちたくないはずがない。

だが、それだけではないことも、もう自分で分かり始めている。


桶狭間のような勝ち。

一つの戦で敵を破ること。

それも大事だ。


だが今、自分の目の前に見えているのはもっと別のものだった。


戦そのものの形。

兵の集め方。

民の使い方。

商いと武の繋がり。

火薬と鉄。

家の在り方。


そういうものが一つずつ繋がって、別の時代の輪郭になり始めている。


「……そうかもしれぬ」


やがて吉法師は、低くそう言った。


帰蝶の目が、ほんの少しだけ細くなる。


「否定しないのね」


「今さら隠すのも面倒だ」


「そこはもう少し格好つけてもいいのではなくて?」


「おぬしの前でか」


「なおさらよ」


その返しに、吉法師は少しだけ笑った。


だが帰蝶は、その笑いに流されなかった。


「変える、というのは厄介よ」


「知っておる」


「敵が増えるわ」


「もうおる」


「味方もついてこれないかもしれない」


「なら、ついてこれる者を探す」


その答えはあまりにあっさりしていたが、帰蝶にはむしろそこが危うく見えた。


この男は、本当にそう考えている。

味方を増やすというより、ついてこられる者を見つけようとしている。

それは強い。

だが、同時に、人を置いていく速さでもある。


「あなたは」


帰蝶が少しだけ声を落とす。


「誰かと同じ歩幅で歩くのが、あまり得意ではないのね」


吉法師は、その言葉には少しだけ黙った。


思い当たることがあったのだろう。


小夜。

利家。

政秀。

可成。

皆、それぞれの形でついてきてくれている。

けれど自分は時々、その歩幅を確かめるより先に次へ飛んでしまう。


「……そうかもしれぬな」


今度は少しだけ素直に答えた。


帰蝶は、それを聞いてほんのわずかに目を伏せた。


この男は傲慢ではない。

少なくとも、自分の弱さや偏りが全く見えていないわけではない。

見えていて、それでも前へ行く。

そこが厄介で、そこが強い。


「私は」


帰蝶がゆっくりと言う。


「あなたのそういうところが、嫌いではないわ」


吉法師が目を上げる。


帰蝶は続けた。


「もちろん、面倒だとも思う。危ういとも思う。家中があなたを恐れる理由も分かる」


「だが」


「だが」


帰蝶の口元が少しだけ上がった。


「ただ勝ちたいだけの男なら、ここまで面白くはないもの」


その言葉に、吉法師はしばらく何も返さなかった。


庭の松が鳴る。

どこか遠くで、女中が障子を閉める音がした。


那古野城の中は、日に日に重くなっている。

信秀の病。

家臣の視線。

勘十郎へ向く安堵。

自分へ向く警戒。


そういうものの中で、帰蝶だけが今、真正面から“何を見ているのか”を訊いてきた。


「おぬしは」


吉法師がようやく言う。


「変な女だな」


帰蝶はすぐに笑う。


「あなたにだけは言われたくないわ」


「褒めておる」


「それ、あなたの便利な逃げ道でしょう」


吉法師は少しだけ口元を上げる。


「そうかもしれぬ」


帰蝶はその表情を見て、内心で確信する。


この男は、やはりただの若殿ではない。

政略で近づくだけでは足りない。

もっと踏み込まなければ、すぐに先へ行ってしまう。


「なら」


帰蝶は静かに言った。


「私も、少しはついていくわ」


吉法師が眉を上げる。


「何にだ」


「あなたが見ている先に」


その言い方は、甘いものではなかった。

恋の告白でもない。

もっと戦国らしい、もっと危うい言葉だった。


味方になる。

同じ未来を見る。

そういう意味に近い。


吉法師は、その言葉をしばらく胸の中で転がした。


「おぬし、分かって言っておるのか」


「ええ」


帰蝶は頷く。


「平穏ではないでしょうね。たぶんろくでもないことも多い。家中はもっと面倒になるでしょうし、あなたはきっとこれからも人を振り回す」


「よく分かっておる」


「でも」


帰蝶はそこで少しだけ目を細めた。


「退屈はしなさそうだもの」


その言葉に、吉法師ははっきり笑った。


帰蝶もまた、少しだけ笑う。


その空気を、少し離れた廊下の陰から小夜が見ていた。


最初から聞くつもりだったわけではない。

いや、半分はそうかもしれない。

帰蝶がこの時間、この場所を選んだ時点で、少し気になっていたのだ。


「……何なのよ」


誰にも聞こえぬように、小夜は小さく呟く。


怒っているわけではない。

けれど少し、面白くない。


帰蝶が踏み込んできている。

それもただの姫の顔ではなく、吉法師が見ている先を“面白い”と感じる顔で。


小夜は、それが気に入らないのではなかった。

むしろ、自分と同じものを見ていることが分かるからこそ、面白くないのだ。


「私は見張り役なのに」


いつもの言葉が、胸の中で浮かぶ。


なのにいつの間にか、自分もまた吉法師が次に何を見るのかを気にしている。

危ない。

面倒。

放っておけない。


可成に「顔に出る」と言われたのを思い出し、小夜は少しだけ顔をしかめた。


その頃、廊下の向こうでは、まだ帰蝶と吉法師の会話が続いていた。


「一つだけ忠告しておくわ」


帰蝶が言う。


「何だ」


「変えたいなら、未来だけ見ていては駄目よ」


吉法師の表情が少しだけ変わる。


帰蝶は静かに続ける。


「火の筒がどれほどすごくても、那古野城の中が割れたら意味がないでしょう」


その一言は、吉法師の胸へ真っ直ぐ入った。


火の未来。

家の今。


その両方が、今は同時に近づいている。


「……うむ」


短い返事だった。


だが帰蝶には、それで十分だった。


この男は、ただ先だけ見ているわけではない。

ちゃんと今の重さも感じ始めている。

だからこそ、この先はもっと面白く、もっと苦しくなる。


「本当に、うつけじゃないのね」


帰蝶が最後にそう言うと、吉法師は少しだけ肩をすくめた。


「今さらか」


「ええ、今さらよ」


帰蝶は笑った。


「でも、ちゃんと口にしておきたかったの」


そう言って去っていく帰蝶の背を、吉法師はしばらく見ていた。


その後ろ姿には、ただの政略の姫ではない、別の火が宿り始めているように見えた。


廊下に残った静けさの中で、吉法師はひとり思う。


勝つだけではない。

変える。


その言葉を、初めて他人に言い当てられた。

しかも、それを否定せず受け止める者がいた。


それは少しだけ、心強かった。


一方その頃、遠くではまた信秀の咳が深く響いていた。


未来の火を語る声。

那古野城の中で濃くなる病の気配。


二つの熱は、もう同じ家の中で静かにぶつかり始めていた。

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