第91話 帰蝶の揺さぶり
「あなたは、勝ちたいのではなくて――変えたいのでしょう?」
帰蝶がそう言った時、吉法師は少しだけ目を細めた。
夕方だった。
昼の熱が落ち、庭の白砂がやわらかく沈んだ色へ変わり始める時刻。那古野城の奥まった廊下は静かで、障子の向こうから聞こえるのは風に揺れる松の音くらいしかない。
帰蝶は、わざとその時間を選んだのだろうと吉法師は思った。
人の目が少ない。
けれど完全な密室でもない。
噂になりすぎず、逃げ場もある。
そういう場所だ。
「急に来て、いきなりそれか」
吉法師が言う。
帰蝶は少しだけ肩をすくめた。
「急に来たわけじゃないわ。ずっと見ていたもの」
その答えがいかにも帰蝶らしくて、吉法師は少しだけ口元を上げた。
帰蝶は廊下の柱へ軽く手を添えながら、庭の方へ目をやる。
「最初は、ただ危うい男だと思っていた」
「今は違うのか」
「ええ」
帰蝶ははっきりと言った。
「危ういのは同じ。でも、それだけじゃない」
吉法師は黙って聞く。
帰蝶は続ける。
「あなたは、新しいものを面白がる。誰も見ていないものへ先に目を向ける。変な木組みや、火の筒や、そういうものに異様な熱を見せる」
「異様とは失礼だな」
「褒めてるの」
「そうは聞こえぬ」
「でも本気で言ってるわ」
帰蝶は少しだけ笑った。
「普通の武士の若殿なら、あそこまで食いつかない。あれが戦にどう効くか、家がどう使うか、その先まで一気に目が行く。しかも、ただ勝ちたいだけの顔ではない」
そこで帰蝶は、ようやく吉法師へまっすぐ向き直った。
「あなた、勝ちたいのではなくて――変えたいのでしょう?」
廊下の空気が、そこで少しだけ止まった。
吉法師はすぐには答えなかった。
勝ちたいかと問われれば、もちろん勝ちたい。
戦国に生まれた以上、勝ちたくないはずがない。
だが、それだけではないことも、もう自分で分かり始めている。
桶狭間のような勝ち。
一つの戦で敵を破ること。
それも大事だ。
だが今、自分の目の前に見えているのはもっと別のものだった。
戦そのものの形。
兵の集め方。
民の使い方。
商いと武の繋がり。
火薬と鉄。
家の在り方。
そういうものが一つずつ繋がって、別の時代の輪郭になり始めている。
「……そうかもしれぬ」
やがて吉法師は、低くそう言った。
帰蝶の目が、ほんの少しだけ細くなる。
「否定しないのね」
「今さら隠すのも面倒だ」
「そこはもう少し格好つけてもいいのではなくて?」
「おぬしの前でか」
「なおさらよ」
その返しに、吉法師は少しだけ笑った。
だが帰蝶は、その笑いに流されなかった。
「変える、というのは厄介よ」
「知っておる」
「敵が増えるわ」
「もうおる」
「味方もついてこれないかもしれない」
「なら、ついてこれる者を探す」
その答えはあまりにあっさりしていたが、帰蝶にはむしろそこが危うく見えた。
この男は、本当にそう考えている。
味方を増やすというより、ついてこられる者を見つけようとしている。
それは強い。
だが、同時に、人を置いていく速さでもある。
「あなたは」
帰蝶が少しだけ声を落とす。
「誰かと同じ歩幅で歩くのが、あまり得意ではないのね」
吉法師は、その言葉には少しだけ黙った。
思い当たることがあったのだろう。
小夜。
利家。
政秀。
可成。
皆、それぞれの形でついてきてくれている。
けれど自分は時々、その歩幅を確かめるより先に次へ飛んでしまう。
「……そうかもしれぬな」
今度は少しだけ素直に答えた。
帰蝶は、それを聞いてほんのわずかに目を伏せた。
この男は傲慢ではない。
少なくとも、自分の弱さや偏りが全く見えていないわけではない。
見えていて、それでも前へ行く。
そこが厄介で、そこが強い。
「私は」
帰蝶がゆっくりと言う。
「あなたのそういうところが、嫌いではないわ」
吉法師が目を上げる。
帰蝶は続けた。
「もちろん、面倒だとも思う。危ういとも思う。家中があなたを恐れる理由も分かる」
「だが」
「だが」
帰蝶の口元が少しだけ上がった。
「ただ勝ちたいだけの男なら、ここまで面白くはないもの」
その言葉に、吉法師はしばらく何も返さなかった。
庭の松が鳴る。
どこか遠くで、女中が障子を閉める音がした。
那古野城の中は、日に日に重くなっている。
信秀の病。
家臣の視線。
勘十郎へ向く安堵。
自分へ向く警戒。
そういうものの中で、帰蝶だけが今、真正面から“何を見ているのか”を訊いてきた。
「おぬしは」
吉法師がようやく言う。
「変な女だな」
帰蝶はすぐに笑う。
「あなたにだけは言われたくないわ」
「褒めておる」
「それ、あなたの便利な逃げ道でしょう」
吉法師は少しだけ口元を上げる。
「そうかもしれぬ」
帰蝶はその表情を見て、内心で確信する。
この男は、やはりただの若殿ではない。
政略で近づくだけでは足りない。
もっと踏み込まなければ、すぐに先へ行ってしまう。
「なら」
帰蝶は静かに言った。
「私も、少しはついていくわ」
吉法師が眉を上げる。
「何にだ」
「あなたが見ている先に」
その言い方は、甘いものではなかった。
恋の告白でもない。
もっと戦国らしい、もっと危うい言葉だった。
味方になる。
同じ未来を見る。
そういう意味に近い。
吉法師は、その言葉をしばらく胸の中で転がした。
「おぬし、分かって言っておるのか」
「ええ」
帰蝶は頷く。
「平穏ではないでしょうね。たぶんろくでもないことも多い。家中はもっと面倒になるでしょうし、あなたはきっとこれからも人を振り回す」
「よく分かっておる」
「でも」
帰蝶はそこで少しだけ目を細めた。
「退屈はしなさそうだもの」
その言葉に、吉法師ははっきり笑った。
帰蝶もまた、少しだけ笑う。
その空気を、少し離れた廊下の陰から小夜が見ていた。
最初から聞くつもりだったわけではない。
いや、半分はそうかもしれない。
帰蝶がこの時間、この場所を選んだ時点で、少し気になっていたのだ。
「……何なのよ」
誰にも聞こえぬように、小夜は小さく呟く。
怒っているわけではない。
けれど少し、面白くない。
帰蝶が踏み込んできている。
それもただの姫の顔ではなく、吉法師が見ている先を“面白い”と感じる顔で。
小夜は、それが気に入らないのではなかった。
むしろ、自分と同じものを見ていることが分かるからこそ、面白くないのだ。
「私は見張り役なのに」
いつもの言葉が、胸の中で浮かぶ。
なのにいつの間にか、自分もまた吉法師が次に何を見るのかを気にしている。
危ない。
面倒。
放っておけない。
可成に「顔に出る」と言われたのを思い出し、小夜は少しだけ顔をしかめた。
その頃、廊下の向こうでは、まだ帰蝶と吉法師の会話が続いていた。
「一つだけ忠告しておくわ」
帰蝶が言う。
「何だ」
「変えたいなら、未来だけ見ていては駄目よ」
吉法師の表情が少しだけ変わる。
帰蝶は静かに続ける。
「火の筒がどれほどすごくても、那古野城の中が割れたら意味がないでしょう」
その一言は、吉法師の胸へ真っ直ぐ入った。
火の未来。
家の今。
その両方が、今は同時に近づいている。
「……うむ」
短い返事だった。
だが帰蝶には、それで十分だった。
この男は、ただ先だけ見ているわけではない。
ちゃんと今の重さも感じ始めている。
だからこそ、この先はもっと面白く、もっと苦しくなる。
「本当に、うつけじゃないのね」
帰蝶が最後にそう言うと、吉法師は少しだけ肩をすくめた。
「今さらか」
「ええ、今さらよ」
帰蝶は笑った。
「でも、ちゃんと口にしておきたかったの」
そう言って去っていく帰蝶の背を、吉法師はしばらく見ていた。
その後ろ姿には、ただの政略の姫ではない、別の火が宿り始めているように見えた。
廊下に残った静けさの中で、吉法師はひとり思う。
勝つだけではない。
変える。
その言葉を、初めて他人に言い当てられた。
しかも、それを否定せず受け止める者がいた。
それは少しだけ、心強かった。
一方その頃、遠くではまた信秀の咳が深く響いていた。
未来の火を語る声。
那古野城の中で濃くなる病の気配。
二つの熱は、もう同じ家の中で静かにぶつかり始めていた。




