第89話 火の音、二度目
「ここから先は、口を利かぬ方がよろしい」
志野屋の手代は、振り返りもせずにそう言った。
市の喧騒から少し離れた道だった。
人通りはある。だが、中心の賑わいに比べればずっと薄い。荷車の軋む音も遠く、代わりに土を踏む足音の方がよく聞こえる。吉法師たちは、手代のあとを自然に追っていた。
「また場所を変えるのね」
小夜が小声で言う。
「当たり前だろ」
利家も声を潜める。
「さっきの店先で撃つわけねえし」
「あなたは本当に発想が真っ直ぐね」
「悪いか」
「悪くはないけど、危ない」
帰蝶は、その後ろを静かに歩きながら、吉法師の横顔を見ていた。
言葉は少ない。
だが、目は明らかに変わっている。
市で鉄砲の実物を見た。
それだけでも十分に衝撃だったはずだ。
なのに今、この男はその先――“火が放たれる瞬間”を見ようとしている。
志野屋の手代が案内した先は、市の外れを流れる小さな川の河原だった。
川幅は広くない。
だが対岸まで見渡せる分、周囲の動きがよく分かる。河原には背の低い草と石が転がり、ところどころに流木が引っかかっている。少し先には、すでに木板が立てかけられていた。さらにその奥には、粗末ではあるが簡素な具足が掛けられている。
利家が思わず低く言った。
「本当にやるんだな」
「本当にやるのよ」
小夜が答える。
「見れば分かるでしょう」
「お前、最近それ好きだな」
「あなたたちのせいよ」
河原には、先ほどの店主とは別に、二人の男がいた。
一人は鉄砲を持ち、もう一人は火皿や何かを整えている。顔つきは商人寄りだが、手元の動きには妙な慣れがあった。武芸者のような鋭さではない。だが“道具が危ないものだ”と知っている者の慎重さがある。
志野屋の手代が低く声をかける。
「尾張の見聞好きの御方方です」
その紹介は、ひどく曖昧で、だからこそちょうどよかった。
鉄砲を持つ男は、一度だけこちらを見た。
若い。
だが目は軽くない。
「見るだけなら」
それだけ言う。
吉法師は、その短い言葉へ頷いた。
今日はそれでよかった。
触りたい。
近くで見たい。
だが今は、音と火と威力を見ることが先だ。
小夜はその吉法師の横顔を見て、少しだけ肩の力を抜いた。
飛びつかない。
工房の時よりも、市の店先の時よりも、ちゃんと堪えている。
「少しは学んだのね」
ぼそっと言うと、吉法師が小さく返す。
「壁があったからな」
それだけで、小夜には十分だった。
鉄砲を構える男が、木板の方へ向き直る。
「火をつけます」
その声で、河原の空気がぴんと張った。
利家が腕を組み直す。
帰蝶は視線を細める。
小夜は周囲の逃げ道まで一度確認した。
そして吉法師は、一歩も動かず、ただ鉄砲だけを見ていた。
火皿に何かが置かれる。
火縄が近づく。
その瞬間だけ、世界の音が一段小さくなった気がした。
次の瞬間――
ぱんっ、と乾いた破裂音では済まなかった。
どんっ!
火花が散った。
白い煙が爆ぜるように上がる。
鉄砲の口から何かが見えぬ速さで飛び出し、木板へ当たる。
鈍く、重い音。
木板が揺れた。
利家が思わず「うおっ」と声を漏らす。
小夜も目を見開いた。
帰蝶の袖の中の指が、ほんのわずかに強く握られる。
吉法師は、息を呑んだ。
これが火の音。
工房で思い描いた図とはまるで違う。
もっと乱暴で、もっと重くて、もっと生々しい。
鉄砲を持っていた男が、煙の抜けるのを待つ。
その間にも、火の匂いが河原へ広がっていく。鼻を刺す。薬種問屋の奥で嗅いだものより、ずっと濃い。焼けたような、湿ったような、土と混ざると妙に不吉な匂いだ。
「行くぞ」
利家が小声で言う。
「何であなたが仕切るの」
小夜が返す。
「見に行くだろ?」
「見に行くけど」
四人は木板へ近づいた。
木板には、はっきりと穴が開いていた。
矢とは違う。
刺さった、ではない。
抉られた、に近い。
利家がしゃがみ込む。
「うわ……」
その一言に、いろいろ詰まっていた。
吉法師もしゃがみ、穴の縁へ指を近づける。木が裂け、抉れ、破片が周囲へ飛んでいる。矢ならこうはならぬ。矢は入る。だがこれは、壊す。
「気味悪いわね」
帰蝶が言う。
その声には、嫌悪だけではないものが混じっていた。
人が長く積み上げてきた武の理屈が、一つ崩れる音を聞いた時のような、冷たい驚きだ。
小夜はその横で、簡素な具足の方を見た。
「次はあれかしら」
鉄砲を扱っていた男が頷く。
「見たいのでしょう」
吉法師は、短く答えた。
「見たい」
二射目の準備が始まる。
今度は具足。
簡素なものだ。
本式の当世具足ほど厚くも重くもない。
だが、少なくとも布や木板よりは、ずっと“戦”に近い。
利家が低く言う。
「これ、抜けたら……」
小夜が先に続ける。
「矢とは話が変わる」
吉法師は何も言わない。
ただ、その目だけが具足に固定されている。
連弩は藁に刺さった。
具足には弾かれた。
その記憶が、今この瞬間へまっすぐ繋がっていた。
火皿。
火縄。
煙。
そして、二度目の音。
どんっ!
今度は、さっきよりもさらに胸へ来た。
具足が揺れる。
次の瞬間、利家が一歩前へ出た。
「……通ったか?」
誰もすぐには答えない。
煙が流れるのを待つ。
風が少し吹く。
火の匂いが薄れる。
それから見えた。
具足の板に、確かに大きな凹みがある。
完全に貫いたわけではない。
だが、矢とは比べものにならぬ深さで食い込んでいた。
吉法師が、低く言う。
「これが、来るのか」
その声は独り言に近かった。
鉄砲の男が、少しだけこちらを見る。
「増えれば、でしょうな」
増えれば。
その言葉が、妙に重かった。
一つ二つなら珍品だ。
だが十、二十、百となれば、もう珍品では済まない。
戦い方そのものが変わる。
「戦が変わる」
吉法師は、今度ははっきりそう言った。
河原の風が、一瞬だけ止まったように感じた。
利家が、その横顔を見る。
さっきまで“面白い”で済んでいた火ではない。
今の吉法師の声には、もっと深い実感があった。
小夜も同じものを感じていた。
忍びにとって、夜と物陰は武器だ。
だが火の音があれほど遠くまで届き、あれほど一瞬で人を打つのなら、隠れることそのものの意味も変わるかもしれない。
「厄介どころじゃない」
小夜がぽつりと言う。
「これが広まったら、夜も変わる」
帰蝶は、その言葉を聞きながら吉法師を見ていた。
この男は今、武具を見ているのではない。
時代そのものが動く方向を見ている。
危うい。
けれど、この危うさに惹かれてしまうのも分かる。
誰より先に、その風を感じてしまうのだから。
鉄砲を扱った男は、火縄を整えながら言った。
「面白半分で追うものではない」
吉法師はそちらを見る。
「分かっておる」
「本当に?」
その問いは、挑発にも聞こえた。
だが吉法師は、目を逸らさずに答える。
「昨日までなら、面白いで追ったかもしれぬ。だが今は違う」
男は少しだけ黙った。
その返事は、予想よりましだったのかもしれない。
志野屋の手代が、そこで話を切るように言う。
「今日はここまでに」
帰蝶が頷く。
「十分見たわ」
利家はまだ少し物足りなそうだったが、小夜に袖を引かれて止まる。
帰り道、四人の足取りは来た時よりずっと静かだった。
市の喧騒へ戻っても、耳の奥にはまだ二度の火の音が残っている。
屋台の呼び声も、荷車の軋みも、その音を完全には追い払えない。
「これ、父上に言うか」
利家がぽつりと訊いた。
吉法師は少し考えた。
「まだだ」
「何で」
「見たばかりだ」
小夜が少しだけ感心した顔になる。
「珍しいわね。もっとすぐ話すかと思った」
「話すなら、もっと分かってからだ」
帰蝶はその横顔を見て、小さく息を吐いた。
やはり、前とは少し違う。
衝撃を受けても、そのまま飛び出すのではなく、一度中へ沈めようとしている。
「少しだけ、大人になったのかしら」
帰蝶が言うと、吉法師は眉をひそめた。
「誰がだ」
「あなたが」
「それはよく分からぬ」
「分からなくていいのよ」
利家がそこで笑う。
「でも、さっきの顔は前より怖かったぞ」
「何だそれは」
「面白がってる顔じゃなくて、本気で何か見えた顔」
その言葉に、吉法師は少しだけ黙った。
そうかもしれない。
さっき河原で見た火は、面白いだけではなかった。
怖い。
厄介。
だが、それでも見逃せぬ。
それが“未来”だと分かってしまったからだ。
帰蝶は、その沈黙へ静かに思う。
この男はもう、後戻りできない。
火を見た。
本物を見た。
そしてその先を考え始めた。
きっとこれからも、前へ進む。
その歩みが城の中の理屈とぶつかる日も、遠くない。
市の出口が見えた頃、遠く那古野城の方角には薄い雲がかかっていた。
空はまだ明るい。
だが、城の内側には別の曇りが広がっている。
信秀の病。
家中の沈黙。
勘十郎へ向く視線。
吉法師は火の音を胸に刻んだまま、城へ戻る道を歩いた。
まだ誰にも全部は言わない。
だが、もう自分の中では確かだった。
戦は変わる。
そしてその変わり目に、今、自分は立っているのだと。




