第88話 市の日、火の匂い
市の日の朝は、いつもの城下よりさらに騒がしかった。
まだ日が高くなりきる前から、道には荷車が増え、声の張り方も一段大きい。乾物、薬種、布、魚、陶器、香木、雑具。尾張の町に集まるものに、今日だけはさらに“外から来たもの”の匂いが混じる。
「人、多いわね」
小夜がそう言った時、吉法師はすでに周囲を見回していた。
見ているのは人混みそのものではない。
荷の形。
運ぶ者の顔。
店の並び。
隠すように置かれたもの。
そういう“ずれ”だ。
利家は、その横で背伸びをする。
「こういう日は嫌いじゃねえな」
「何で」
小夜が訊く。
「喧嘩が起きそうだから」
「最低」
「褒め言葉だな」
「違う」
吉法師がぼそっと言う。
「おぬし、本当に単純だな」
「分かりやすいって言え」
「同じだ」
帰蝶は今日は少し離れて歩いていた。
表向きは市の見物に出た姫。
その形を崩さぬためだ。
だが視線だけは、しっかり吉法師たちを追っている。
「浮かれすぎないように」
昨日の言葉を思い出すように、帰蝶が低く言う。
吉法師は振り向かずに返した。
「浮かれてはおらぬ」
小夜がすぐ横から刺す。
「顔に出てる」
利家も乗る。
「すげえ出てる」
「おぬしら、そこだけはよく揃うな」
その時、通りの向こう、雑貨を並べた店の脇に、見覚えのある男の姿があった。
志野屋の手代だ。
あからさまに手招きはしない。
ただ、通りすがりの顔で、少しだけ視線を寄越す。
そしてそのまま先へ歩く。
「来たわね」
小夜が小さく言う。
吉法師は黙って頷いた。
四人は自然に人混みへ紛れながら、その後を追う。追うといっても、ぴたりとついていくのではない。小夜が距離を見て、帰蝶が立ち寄る店を一つ二つ挟み、利家がいかにも見物の顔をし、吉法師は視線だけを先へ送る。
志野屋の手代は、市の中心から少し外れた場所でようやく足を緩めた。
そこは薬種と香木、それに南蛮めいた雑貨を扱う店が並ぶ一角だった。人通りはある。だが、中心の喧騒より一段落ち着いている。目立たずに品を見せるにはちょうどよい場所だ。
「こちらです」
手代がようやく声をかけた。
店先に並ぶ品は、一見すると珍しいだけのものだった。
細い玻璃瓶。
香の包み。
妙な形の金具。
小さな鉄の輪。
薬草を包んだ紙包み。
利家が首を傾げる。
「普通だな」
「表はね」
小夜が言う。
吉法師は、すでに匂いを嗅いでいた。
香木の甘い匂い。
薬種の乾いた匂い。
その奥に、少しだけ鼻へ引っかかる、刺すような匂いがある。
「これか」
ぽつりとそう言う。
志野屋の手代は直接は答えない。
だが、視線だけで工房の弓職人を思わせるような「見りゃ分かるだろう」という顔をした。
「これは何に使うの」
帰蝶が店先の小袋を手に取る。
店の主らしい男が、柔らかく頭を下げた。
「薬の焙り、香の調合、細工物の火に」
「それだけ?」
帰蝶が笑みを崩さず訊く。
男はそれにも笑みを返す。
「表向きは」
利家がその答えに少し目を見開いた。
「表向きって言ったぞ今」
小夜が横からすぐに小声で言う。
「静かに」
吉法師はその袋を見ていた。
白っぽい粒。
黒い粉。
黄色味のある塊。
混ぜ方を誤れば、ただの薬にも、別のものにもなるのだろう。
「火薬、か」
ほとんど無意識にその言葉が口から出た。
小夜が「あ」と小さく息を呑む。
帰蝶が一瞬だけ目を伏せる。
利家は「早えよ」と顔に書いていた。
だが店主は、逃げなかった。
「その名を、ここで大きく言わぬ方がよろしい」
それだけを静かに言う。
吉法師は少しだけ頷いた。
叱られたからではない。
今の一言で、これが本当に“そういうもの”だと分かったからだ。
志野屋の手代が、さらに少し奥まった位置へ彼らを導いた。
店の裏手ではない。
だが、人目が一段薄くなる場所だ。
そこに、布をかけた長いものがあった。
吉法師の目が変わる。
「……それか」
手代は言う。
「見るだけにしておかれることです」
利家が唾を飲む。
「本当にあるんだな」
布が少しだけめくられる。
見えたのは、鉄の筒だった。
長い。
木に抱かれ、鉄が前へ伸びている。
工房で吉法師が書いた図より、ずっと無骨で、ずっと生々しい。
武器だ。
それも、これまで自分たちが知っていた弓や槍とは理屈そのものが違う武器だと、一目で分かった。
「これが……」
吉法師の声は、ほとんど呟きだった。
店主が低く言う。
「南蛮伝来の鉄砲にございます」
その名が、初めてはっきり置かれる。
鉄砲。
小夜は、その響きに少しだけ背筋を冷やした。
利家は怖いものと面白いものを同時に見たような顔で固まる。
帰蝶は、吉法師がそこから一歩も目を離せなくなっていることに気づく。
「持つか」
手代が、吉法師へではなく店主へ小さく確認を取る。
店主は少し考えたあと、首を横に振る。
「まだ」
吉法師は、そのやり取りを黙って聞いていた。
すぐにでも手を伸ばしたい。
重さを知りたい。
仕組みを見たい。
火をどう通すのか知りたい。
だが昨日までの吉法師なら飛びついていたであろうその衝動を、今日はちゃんと飲み込んでいた。
小夜がそれに気づき、少しだけ意外そうな顔をする。
利家は逆に、我慢している吉法師の方が珍しくて見ていた。
帰蝶は、その横顔を静かに見ていた。
見たこともない火。
見たこともない武器。
その前で、吉法師は子供のように目を輝かせながらも、飛びついてはいない。
具足の壁を、一度知ったからだろう。
この男は、壁の重みを覚えたぶんだけ、前より深くなるのかもしれない。
「匂うわね」
帰蝶が言った。
店主が目を向ける。
「火の匂いが」
それはただの感想のようでいて、探る言葉でもあった。
店主は少しだけ口元を歪めた。
「扱う者の手には残ります」
吉法師が、そこでようやく言う。
「撃てば、具足を抜くか」
店主は即答しなかった。
志野屋の手代も黙る。
その沈黙が、答えに近い。
やがて店主が言う。
「抜く時もありましょう」
利家が低く呟く。
「気味悪いな」
小夜が頷く。
「うん」
帰蝶は、吉法師から目を離さない。
吉法師は、その言葉を聞いた瞬間に、もうただの“珍しい武器”としては見ていなかった。
戦が変わる。
変わってしまう。
その現実が、目の前の鉄の塊に詰まっている。
「本当に、来るのね」
帰蝶は誰にともなくそう思う。
この男が見ている未来が、絵空事ではなく現実として。
店主は布を戻した。
「今日はここまでです」
吉法師は一歩だけ前へ出かけたが、止まった。
「次は」
「次は、見せるかどうかも分かりませぬ」
店主は言う。
「火は、見る相手を選びます」
その言い方に、小夜が少しだけ眉を寄せる。
この商人はうまい。
断りきらず、近づけすぎず、欲だけは残す。
市を離れる頃、四人の間には妙な沈黙があった。
誰も軽口を叩かない。
利家でさえ、さっき見た鉄の筒の形をまだ頭の中で追っている顔だ。
小夜は火薬の匂いが袖に移っていないか、妙に気になった。
帰蝶は吉法師の顔を見ている。
そして吉法師は、ただ前を向いて歩いていた。
見た。
本当にあった。
鉄砲。
工房の木組みとも、兵法書の図とも違う。
もっと重く、もっと恐ろしく、もっと現実の火だった。
「……面白いな」
ようやく吉法師がそう言うと、小夜は思わず顔を向けた。
「今のを見て、最初にそれ?」
「違う」
吉法師は少しだけ首を振る。
「面白い、だけではない」
その言い方が、いつもと少し違った。
利家が低く言う。
「怖えな」
「うむ」
「でも、見てみてえ」
「分かる」
小夜がため息をつく。
「本当に男って……」
帰蝶は、その横で静かに思った。
今の吉法師の目は、完全に後戻りのできぬ目だ。
連弩のような工夫ではない。
未来そのものが目の前へ現れたのだから。
そしてその未来を、この男はきっと追う。
追わずにはいられない。
市の喧騒は相変わらず続いていた。
だが四人の中では、もう別の音が鳴り始めていた。
火の音だ。




