第87話 市の前夜
「寝ろ」
利家は、工房の床へ広げられた紙の山を見下ろしながら、呆れたようにそう言った。
吉法師は答えない。
いや、聞こえてはいるのだろうが、返事をするだけの余裕を頭の外へ向けていない。灯りの下に胡座をかき、炭を握ったまま、何度も同じような線を引き直している。
紙の上には、鉄の筒らしきものがいくつも描かれていた。
太いもの。
細いもの。
後ろが膨らんだもの。
真っ直ぐなだけのもの。
どれも見たことのない道具の想像図でしかない。
だが吉法師の頭の中では、すでにそれは“あるかもしれぬもの”ではなく、“きっとあるもの”へ変わり始めていた。
「聞こえてる?」
小夜が横から言う。
「うむ」
「聞こえてるなら寝なさい」
「寝てどうする」
「明日の市で倒れないために決まってるでしょうが」
吉法師はようやく顔を上げた。
「倒れぬ」
「その自信、どこから来るのよ」
「今は眠いより先に、形が気になる」
小夜は深くため息をついた。
工房の中は静かだ。
職人は奥で木を削っている。利家は柱にもたれて座り込み、半分眠そうな顔だ。小夜だけが、吉法師の熱の向きがだんだん危うくなっていくのを見張っている。
「ほら」
小夜が紙を指差す。
「見てもいないものを、もうこんなに描いてる」
利家が笑った。
「当たってたらどうする」
「当たってたら余計に嫌よ」
「何でだよ」
「余計に調子に乗るから」
吉法師が少しだけ口元を上げる。
「褒めておるのか」
「違う」
「だが近い」
「近くない」
そのやり取りを、工房の奥から弓職人が聞いていた。
「若殿」
低い声が飛ぶ。
「何だ」
「鉄の筒を思い描くのは勝手だが、火薬ってもんは絵の通りに収まるほど素直じゃねえぞ」
吉法師が振り向く。
職人は木片を削る手を止めずに続けた。
「弓や木組みと違って、火は中身が見えねえ。見えねえもんを使うってのは、それだけで面倒だ」
「だから面白い」
「お前、そこで必ずそれ言うな」
「面白いものは」
「はいはい、そこまで」
小夜が遮った。
「その先は聞き飽きた」
だが実際、吉法師の目は冴えていた。
寺で聞いた“火を使う妙な筒”。
志野屋の手代が示した“次の市”。
明日そこへ、堺と通じる荷が入る。
本物を見るかもしれない。
もしかすると触れられるかもしれない。
いや、触るのは危ういと手代は言っていた。
なら見る。
見て、覚える。
形を、音を、重さを、全部。
「若殿」
今度は利家が言う。
「お前、明日あれ見たら絶対顔に出るぞ」
「出ぬ」
「出る」
小夜が即答する。
「寺の時点で怪しかったのに、市なんてもっと駄目」
「なら、どうする」
「私と帰蝶様が止める」
利家が吹き出す。
「二人がかりかよ」
「必要でしょ」
吉法師は少しだけ不満そうな顔をした。
「わしはそこまで危ういか」
「危うい」
「うむ」
「かなり」
三方向から返ってきたので、さすがの吉法師も少しだけ黙った。
その時、工房の戸が静かに鳴った。
小夜がすぐ振り向く。
この時間に工房へ来る気配は限られている。
案の定、戸の向こうに立っていたのは帰蝶だった。
今夜は侍女も連れていない。
灯りの外から中を覗くようにして、少しだけ口元を上げる。
「まだ起きているのね」
「おぬしもな」
吉法師が返す。
帰蝶は工房の中へ入ると、床に散らばった紙を見て、すぐに理解したらしい。
「まあ」
一枚を軽く持ち上げる。
「見てもいないものを、もう描いているの」
小夜が腕を組む。
「私もさっき同じこと言った」
「そう」
帰蝶は少しだけ楽しそうだった。
「あなたは未来を先に決めてから、そこへ追いつこうとするのね」
その言い方に、吉法師は少しだけ考える顔をする。
「そうかもしれぬ」
「本人に自覚がないのが一番面倒なのよ」
小夜が言う。
帰蝶は小さく笑った。
「でも、それがこの人の面白いところでもあるでしょう」
小夜はその一言に、少しだけ返事を詰まらせた。
否定はしにくい。
まさにそこが厄介なのだ。
利家はそんな細かい気配に気づかず、帰蝶を見て言う。
「姫も眠れねえのか」
帰蝶は少しだけ肩をすくめる。
「ええ。明日が少し楽しみだから」
吉法師が帰蝶を見る。
「おぬしも来るか」
「当然でしょう」
帰蝶は言った。
「ここまで関わっておいて、“あとはご自由に”では面白くないもの」
「おぬしも最近、それをよく言うな」
「あなたのせいよ」
そのやり取りに、利家がにやっとする。
「何かいいな、それ」
小夜がすぐに刺す。
「何が」
「分かんねえけど、いい」
「本当にあなたは単純ね」
職人は職人で、そんな四人の空気を聞きながら、ひとつだけぽつりと言った。
「弓の時代じゃなくなるかもな」
その一言で、工房が少しだけ静まる。
吉法師が顔を上げる。
利家も小夜も帰蝶も、揃って職人を見る。
職人は削る手を止めずに続けた。
「まだ噂だ。まだ市に来る荷を見てからだ。だが、本当に火の筒があって、具足を抜き、扱いが広まるなら……」
木片を持ち上げる。
「弓だけじゃ済まなくなる」
利家が少しだけ眉をひそめた。
「弓がいらなくなるってことか」
「そこまでは言わねえ」
職人は答える。
「だが、戦い方は変わる」
帰蝶はその言葉を聞きながら、横目で吉法師を見た。
やはり。
この男はそういう変わり目にばかり目を留める。
城の中の理屈だけではなく、その外にあるもっと大きな流れを。
「明日、何か見るのでしょうね」
帰蝶が静かに言う。
「見る」
吉法師が答える。
「そして覚える」
小夜はその横顔を見て、ほんの少しだけ肩の力を抜いた。
浮かれている。
だが、ただ浮かれているだけではない。
具足の壁に弾かれた後だからこそ、今度は“見る”ことの重みを分かっている。
「じゃあ最後にもう一回言う」
小夜が指を一本立てる。
「明日、勝手に前へ出ない」
吉法師が少しだけ顔をしかめる。
「難しい注文だな」
「守る気ないでしょ」
「ある」
利家が笑う。
「半分くらいな」
「半分でも守れれば上出来よ」
帰蝶も頷く。
「ええ。残り半分は私たちで止めましょう」
吉法師は、二人の顔を見て少しだけ不満そうにしながらも、結局は笑った。
「よい」
「よくない」
「だが、悪くもない」
小夜が深くため息をつく。
「最近そればっかり」
夜はさらに深くなっていった。
工房の灯りはまだ消えない。
吉法師は結局、眠る前まで何枚も雑な鉄筒の図を書き散らした。
利家はそれを半分見ながら寝落ちしかけ、小夜は最後まで本当に見張り役のように目を閉じず、帰蝶は途中で「明日に響くわよ」と言いながらも、自分も少し長くそこにいた。
そして、その夜。
那古野城の奥から、信秀の咳が今までで一番深く響いた。
工房の中にいる者には届かない。
だが城の中にいる者たちには、はっきり届く重さだった。
未来の火を見に行く前夜に、家の中の影はさらに濃くなっている。
そのことを知る者と知らぬ者が、同じ夜を別々に過ごしていた。




