第77話 火を知る男
「見たことがある者に会えばいいのよ」
寺を出たあと、小夜はそう言った。
瑞泉寺の石段を下りる頃には、夕方の光がだいぶ柔らかくなっていた。山門の影が長く伸び、風に乗って香の匂いがまだわずかに着物へ残っている。だが吉法師の頭の中に残っているのは香ではない。僧の口から出た、たった一つの言葉だった。
火を使う妙な筒。
それが本当にある。
しかも堺の町には、その噂ではなく、もう“見た者”がいるらしい。
「会う」
吉法師は即答した。
小夜がすぐ返す。
「だから、その“会う”までが面倒なの」
利家は腕を組んだ。
「寺の坊主に紹介してもらえねえのか?」
帰蝶が静かに首を振る。
「直接は無理でしょうね」
「何でだ」
「寺は寺で、余計なことを喋ったとは思いたくないもの」
その答えに、利家は「面倒くせえな」と顔へ書いた。
だが帰蝶の言うことはもっともだった。
瑞泉寺の僧は、あくまで“噂”として話しただけだ。そこから先をこちらへ渡すには、また別の筋が要る。
小夜が少し考えながら言う。
「さっき、部屋の隅にいた男を見た?」
吉法師は頷く。
「寺男ではないな」
「うん。手が商人だった」
利家が顔をしかめる。
「手が商人って何だよ」
「物を持つ時に、値打ちと重さの両方を見る手つき」
小夜は当然のように言う。
「僧より先に、あっちが箱や香木を気にしてた」
帰蝶もそこで小さく頷いた。
「私も見たわ。寺に出入りしているけれど、寺の人間ではない顔だった」
吉法師の目が細くなる。
「なら、あれだな」
「ええ」
小夜が答える。
「あの人が火の匂いに近い」
「よし」
「よくない」
いつものように、吉法師が前へ出ようとしたところを小夜が止める。
「今日の流れで、寺を出た直後にその人へ追いついて問い詰めたら、怪しさしかないでしょうが」
利家が笑う。
「今の若殿なら普通にやるな」
「やる」
吉法師が言った。
「やるな」
帰蝶が呆れたように口を挟む。
「自慢することではないでしょう」
だがその時だった。
寺の脇道の方から、ちょうどその男が姿を見せた。
四十前後。
背は中くらい。
着ているものは地味だが、安物ではない。
歩き方に無駄がなく、しかも周囲の人間を横目でよく見ている。寺で見た時よりも、商人の顔がはっきり出ていた。
「来た」
小夜が小さく言う。
男は一度こちらを見て、視線を逸らしかけた。
だが次の瞬間、吉法師がまっすぐ前へ出る。
「待て」
小夜が本気で袖を掴もうとしたが、一歩遅かった。
男の足が止まる。
止まったが、こちらへ寄ってはこない。
まず逃げ道と距離を測ったあとで、初めて静かな声を出した。
「何か御用で?」
柔らかい。
だが腹は見えない。
帰蝶はその一言だけで、ああ、これは寺の用足しなどではないな、と確信した。
吉法師は正面から言う。
「火を知っておるな」
小夜が目を閉じた。
終わった。
と思ったが、終わらなかった。
男は一瞬だけ目を細めただけで、顔色を変えなかった。
「火、とは」
「堺の火だ」
吉法師は続ける。
「妙な筒の話を聞いた」
そこまで言っても、男は逃げなかった。
逃げないどころか、むしろ吉法師の顔をよく見た。
若い。
着ているものは良い。
隣には荒くれ武士と、町娘にしか見えぬが目つきの鋭い娘。
少し後ろには美濃の姫。
ただの町の子らではない。
だが、どういう子らかはまだ決めていない。
そういう目だった。
「ここで立ち話をする話ではありませんね」
男が低く言う。
小夜と帰蝶が、そこで初めて同時に少しだけ目を上げた。
逃げない。
それどころか、場所を変える気だ。
吉法師は即答する。
「どこだ」
「近くの茶屋で」
男はそう言って、先に歩き出した。
利家が小声で言う。
「ついてっていいのか?」
小夜が返す。
「向こうもこっちを測るつもりよ」
「なら測らせればよい」
吉法師が言う。
「簡単に言う」
「だが今は行くしかない」
茶屋は、寺から少し離れた道沿いにあった。
派手ではない。
だが旅人や行商人が休むにはちょうどよい広さで、奥まった席もある。男はその一番奥へ自然に座った。店の者に茶を頼む手つきも慣れている。
「で」
男がようやく口を開く。
「どこまで知っておられるのです」
吉法師が答える。
「噂を追っているだけだ」
「追う理由は?」
「具足を抜けぬからだ」
男の目が、そこで初めて少しだけ変わった。
利家が横で黙る。
小夜も口を挟まない。
帰蝶だけが、吉法師のその答えを面白そうに聞いていた。
男は、茶碗に手をかけたまま言う。
「若いのに、変わったところへ目が行く」
「よく言われる」
「でしょうね」
その返しに、小さく笑みが混じる。
どうやら、この男は無礼を気にする種類ではないらしい。
「名は」
吉法師が訊く。
「今は、志野屋の手代とでも」
「本名ではないな」
「商いには、そういうものもあります」
そこまで腹を見せる気はない、ということだ。
吉法師は少しだけ口元を上げた。
「では、わしも今は吉法師でよい」
男――志野屋の手代は、そこでようやくはっきり笑った。
「それで十分です」
小夜はその笑みを見て、少しだけ背筋が冷えた。
この男、腰は低いが、腹の底はかなり深い。
だが同時に、吉法師のことをただの無鉄砲な子供では見なくなっている。
志野屋の手代は、茶をひと口飲んでから静かに言った。
「火の話を追うなら、堺の町そのものを見るのが一番早い。ですが、それは今のあなた方にはまだ少し遠い」
吉法師は黙って聞く。
「ただ」
男は続けた。
「次の市に、堺と通じる荷を持つ者が入ります」
利家が少し前へ乗り出す。
「本当に来るのか」
「来ます」
「何を持ってくる」
「薬、香、金具。表向きはそのあたりでしょう」
「表向きは、か」
帰蝶が低く言う。
男は小さく頷いた。
「見たいものがあるなら、市で見る方がまだ自然です」
吉法師は、その言葉をそのまま飲み込んだ。
市。
堺の荷。
火の匂い。
今度は寺でも工房でもない。もっと人が多く、もっと雑多で、もっと紛れやすい場所だ。
「おぬしは、火を知っておるな」
吉法師がまっすぐ言うと、志野屋の手代は一瞬だけ目を伏せた。
「少しは」
「見たことがある」
「少しだけ」
「使えるか」
男はそこで初めて、吉法師をまともに見た。
「若殿」
初めてその呼び方をした。
「それを、ここで軽々しく口にするほど、私は馬鹿ではありませぬ」
小夜が、内心で少しだけ安堵する。
この返しなら、本当に知っている。
知らぬ者は、もっと曖昧に逃げる。
知っているからこそ、それ以上は線を引くのだ。
吉法師もそれは分かったらしい。
「よい」
短く頷く。
「では、市だな」
志野屋の手代は最後にひとつだけ言った。
「見るだけにしておかれることです」
利家が少し不満そうに言う。
「触るのは駄目か」
「死にたくなければ」
その言葉には冗談がなかった。
茶屋を出たあと、四人はしばらく無言で歩いた。
やがて利家が先に口を開く。
「……あの男、嫌な感じだったな」
小夜が頷く。
「でも本物」
帰蝶も静かに言う。
「ええ。ああいう人は、知らない話にはあそこまで線を引かない」
吉法師は前を見たまま、低く言った。
「市だ」
その声には、工房で新しい部材を見つけた時とは違う重みがあった。
市で、火を見る。
あるいは、それに近いものを見る。
連弩の図ではない。
噂の断片でもない。
本物に近づく。
その時、那古野城の方角から風が吹いた。
小夜は何となく振り返る。
城は遠く、今はただ白い壁と屋根の連なりに見える。
だが、その中にある空気が日に日に冷えていくのを、小夜はもう知っていた。
火を追っている。
だが、家の中にも別の火が溜まり始めている。
その二つが、いつか同じ日に噴き出したらどうなるのだろう。
小夜は少しだけ唇を結んだ。
「面倒」
ぽつりと呟く。
吉法師が横目で見る。
「何だ」
「何でもない」
だが本当は、何でもなくはなかった。
火の話は前へ進んだ。
それは間違いない。
けれど進めば進むほど、城へ戻る足が少しだけ重くなる。
その予感だけが、夕方の薄い光の中で、静かに四人の影へ混じり始めていた。




