第76話 異国の香り
瑞泉寺は、城下のざわめきから半歩だけ退いたところにあった。
遠くない。
だが門をくぐった途端、空気の匂いが変わる。土の匂い、木の匂い、焚かれた香の匂い。市や店先の油っぽい活気とは違い、静かに人を包むような匂いだった。
「寺って、こういう匂いするよな」
利家が小声で言う。
小夜が横から返す。
「あなた、もっと足音静かにして」
「無理言うな」
「少しはできるでしょ」
「できねえ」
帰蝶は、そのやり取りを聞きながらも前だけを見ていた。今日の彼女は、ただの美濃の姫ではなく、尾張の城に迎えられた客人として、きちんと外向きの顔をしている。侍女を一人だけ連れ、歩き方も言葉も柔らかい。だがその柔らかさの下で、目だけはよく動いていた。
吉法師はというと、小夜に何度も釘を刺されたせいか、珍しく少し黙っている。
ただし、それは大人しいという意味ではない。
興味が顔に出すぎぬよう、言葉だけ抑えている顔だ。
「若殿」
小夜がぼそっと言う。
「何だ」
「今の顔、だいぶ怪しい」
「喋ってはおらぬ」
「顔が喋ってるの」
利家が吹き出しかける。
「顔が喋るって何だよ」
「見れば分かる」
「お前までそれ言うのか」
案内された客間は、広すぎず狭すぎず、いかにも寺らしい端正な部屋だった。障子越しの光が柔らかく、床には香炉がひとつ置かれている。その香りは強すぎない。だが、工房の木屑や城下の汗臭さに慣れていた身には、それだけでどこか異国めいた空気を感じさせた。
しばらくして、寺の僧が現れた。
年は四十を少し過ぎたくらい。声も顔つきも穏やかだが、目の奥はよく見ている。帰蝶へ丁寧に礼をし、吉法師と利家には客人の随員としての礼を返し、小夜には一瞬だけ「町娘ふうだがそれだけではない」と察したような目を向けた。
「ようこそお越しくださいました」
僧が言う。
「美濃よりお越しの姫君が、異国渡来の香や薬にご興味をお持ちと聞きまして」
帰蝶は柔らかく頷く。
「尾張へ来てから、色々と見聞を広げておりますの。こちらには堺と縁のある品が入ると聞きました」
「いくつかは」
僧が答える。
「寺に集まるものは贅沢品ばかりではありませぬが、薬や香木、細工物など、珍しいものもございます」
やがて、いくつかの品が運ばれてきた。
小箱に入った香木。
細い玻璃の器。
唐土渡りの薬草。
色鮮やかな布切れ。
南蛮由来だという金具。
利家が一番最初に反応したのは玻璃の器だった。
「おお……」
思わず声を漏らす。
小夜が横からすぐ言う。
「静かに」
「だって、すげえぞこれ」
利家は器を覗き込み、光が透けるのを見て本気で感心していた。
「水みてえだ」
僧が少しだけ笑う。
「南蛮の品は、まず見た目で人を驚かせます」
帰蝶はその様子を見ながら、吉法師の視線がどこへ行くかを追っていた。
やはり、違う。
玻璃にも香木にもちゃんと目は向ける。
だが、長くは止まらない。
その用途、値、運ばれ方、そういう“流れ”の方へ目が行っている。
「これはどこから」
吉法師が訊く。
僧は少しだけ意外そうに彼を見た。
「堺を経て入ったものにございます」
「皆、堺からか」
「多くは」
「香木も、薬草も、金具も」
「はい」
吉法師はそこで、それ以上は飛び込まなかった。
小夜に言われたことを守っているらしい。
小夜がその横顔を見て、少しだけ感心した。
ちゃんと我慢している。
今すぐ「火薬はあるか」とは聞かない。
それだけで、いつもの吉法師よりだいぶえらい。
僧は香木の説明を始めた。
「こちらは沈香にございます。南より来たもので、堺の商人が扱っております」
「香にも色々あるのね」
帰蝶が応じる。
「ええ。寺にとって香は祈りの道具でもありますし、病や場の清めにも使います」
小夜はその言葉に少し反応した。
「病にも?」
僧が頷く。
「効能を信じるもの、気持ちを鎮めるためのもの、様々です」
そこへ、吉法師がようやく少し深く踏み込む。
「火を使うものもあるか」
小夜が、心の中で「危ない」と思ったぎりぎりの問いだった。
だが“火薬”ではない。
まだ約束の範囲だ。
僧は少しだけ考えてから答えた。
「香にも火は要りますし、薬にも火を通すものがございます」
「火そのものが強い品は」
今度は僧の目が、ほんのわずかに変わった。
帰蝶がすかさず横から話をずらす。
「この金具は、見たことのない形をしていますのね」
僧の視線がそちらへ滑る。
小夜はその間に、部屋の隅に控えている男へ目を向けた。
寺男ふうだが、手つきが商人に近い。
香木や小箱を運ぶ時も、僧より値打ちを気にする目をしていた。
「こちらは南蛮の細工にございます」
僧が説明を続ける。
「堺では、鉄や金具に妙な形のものが混じることも珍しくありません」
吉法師の目が、その一言に反応する。
鉄。
帰蝶はそれを見て、内心で少しだけ笑う。
やはりそこへ食いつく。
「妙な形、とは?」
帰蝶が代わりに訊いた。
僧は少し曖昧に答える。
「道具とも武具ともつかぬもの、と申しましょうか」
「南蛮のものは、そういうものが多いの?」
「堺の者はそう申します」
利家が退屈しかけていた顔を上げる。
「武具ともつかねえって、何だよ」
僧は苦笑した。
「見た者でなければ、説明が難しいものもございます」
その言葉で、部屋の空気がほんの少しだけ変わった。
見た者がいる。
少なくとも、噂だけではない。
吉法師の目が鋭くなる。
小夜はすぐそれに気づいて、袖の中で自分の指をひとつ折った。
今、食いつきすぎるな。
そういう合図だ。
吉法師は、ぎりぎりで口を閉じた。
その代わり、帰蝶がゆっくりと言う。
「堺というのは、面白いところなのね」
僧は頷く。
「銭と品と、人が集まるところにございます。寺にも商いにも、あの町の影は濃い」
「火の匂いも?」
今度は小夜が、あえて軽く訊いた。
僧は小夜を見た。
その目には、少しだけ測る色がある。
「火の匂い、とは」
「祭りの細工とか、薬の焙りとか、そういうもの」
小夜はあくまで町娘ふうに言った。
僧は少しだけ沈黙してから、答えた。
「堺では最近、火を使う妙な筒の噂があるそうです」
部屋の中の誰も、その瞬間はすぐに動かなかった。
利家ですら黙った。
帰蝶は視線を伏せたまま、吉法師がどう反応するかを見ている。
小夜は呼吸を乱さず、ただ僧の口元だけを見る。
吉法師は――
息を呑んでいた。
本当にあった。
商人の腹の底の噂ではなく、寺の客間で、堺と繋がる僧の口から出た。
火を使う妙な筒。
それが何かは、まだ名を持たぬ。
だが吉法師の中では、もう形になり始めていた。
「どういう、ものにございますか」
帰蝶が、いかにも見聞として自然な調子で訊く。
僧は慎重だった。
「詳しくは。私どもも、見たわけではありませぬ」
「だが噂はある」
吉法師が低く言う。
僧の目が彼へ向く。
「ございます」
「火を使い」
「はい」
「音を立て」
僧は少しだけ眉を上げた。
「……そうとも聞きます」
「鉄でできている」
「そのように」
利家が小さく呟く。
「本当にあんのか……」
小夜はその横で、吉法師の顔を見た。
完全に目が変わっていた。
連弩の図を見つけた時とも少し違う。
今度は空想ではない。
どこかで、誰かが、もう形にしているものだ。
「気味が悪いわね」
帰蝶がそう言うと、僧は少し苦く笑った。
「武士にとっては、脅威かもしれませぬ」
その一言で、吉法師は静かに言った。
「戦が変わる」
部屋の空気が、そこでぴたりと止まった。
僧は何も言わない。
帰蝶だけが、ほんの少し目を細めた。
その顔は、そう言うと思っていた、という顔だった。
利家は吉法師を見た。
「そこまで行くのか」
「行く」
吉法師は答える。
「矢が通らぬなら、通るものが来る」
小夜は、その言葉に少しだけ寒気を覚えた。
面白がっているだけではない。
吉法師は今、本当に“先の戦”を見た。
それが分かったからだ。
寺を辞したあと、帰り道はしばらく静かだった。
誰も軽口を叩かなかった。
利家も珍しく黙っている。
小夜は歩きながら、何度も吉法師の横顔を見る。
帰蝶は少し離れて歩き、その背を観察していた。
やがて、利家がようやく口を開く。
「……あれが本当にあるなら」
「うむ」
「気味悪いな」
吉法師は少しだけ笑った。
「だが面白い」
小夜が深く息を吐く。
「やっぱりそこへ戻るのね」
「だが今度は、前より重い」
吉法師がそう言ったので、小夜は少しだけ目を上げた。
たしかに、その通りだった。
連弩の時の“面白い”は、工房の中の熱だった。
今の“面白い”は、もっと遠くて、もっと重い。
戦そのものが変わるかもしれぬという実感が混じっている。
帰蝶は、その言葉を聞いて小さく思う。
この男は、本当に先を見ている。
しかも今、初めて空想ではなく“現実の先”を見た顔をしている。
それが少しだけ、ぞくりとするほど面白かった。




