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第75話 寺の縁

「寺を使うわ」


小夜は、いかにも嫌そうな顔のままそう言った。


吉法師は朝の膳にまだ手もつけぬまま、小夜を見上げた。昨夜遅くまで火の話を書き散らしていたせいで眠りは浅い。だが頭は妙に冴えている。火薬、鉄の筒、堺、南蛮。ひとつ糸が見えれば、そこから先へ進みたくなるのはいつものことだった。


「寺か」


「そう」


小夜は腕を組む。


「商人に真正面から聞いても、もうすぐ口を閉じる。特に火薬とか鉄筒みたいな話はね」


利家が横で団子をもぐもぐやりながら首を傾げる。


「何で寺なんだよ」


「薬よ」


小夜が即答する。


「火薬の元になるものって、薬種や香や、そういう荷に紛れることがある。堺と縁のある寺なら、珍しい品の話も、南蛮渡りの噂も、商家より少しやわらかく流れる」


吉法師は少しだけ目を細めた。


「なるほど」


「だから、今回はあんたが“火薬を見せろ”って顔で突っ込むのは無し」


「何故だ」


「何故だ、じゃないのよ」


小夜は本気で呆れた。


「町商人相手の時より、もっと駄目。寺は表向き穏やかでも、口を誤れば二度と何も出てこない」


利家が笑う。


「つまり、若殿は黙ってろってことか」


「そこまでは言ってない」


「半分くらい言ってる顔だぞ」


「半分どころか七分はそう思ってる」


「残り三分は」


「面倒起こした時の見張り」


吉法師は少しだけ鼻を鳴らした。


「おぬし、最近わしの扱いが雑ではないか」


「最近は実績が積み上がってるの」


利家が吹き出す。


「言われてるぞ」


「おぬしも人のことは言えぬ」


そんな三人のやり取りを、廊下の向こうから静かに聞いていた者がいた。


「なら、その口実、私が整えてあげましょうか」


帰蝶だった。


侍女を一人だけ連れている。朝の光を受けても、その顔には夜の思案の気配がまだ少し残っていた。だが口元は楽しそうだった。


小夜がすぐに表情を少しだけ固くする。

利家は「お」と言ったきり黙った。

吉法師だけが、あまり驚いた様子もなく帰蝶を見た。


「聞いておったか」


「聞こえるように話していたでしょう」


帰蝶は涼しい顔で答える。


「寺へ行きたい。けれど、若殿が火薬の話を探っているように見えるのはまずい。そういうことなのでしょう?」


小夜が先に言う。


「簡単に言えばそう」


「なら、異国渡来の香や薬に興味のある姫君が見聞を広める、という形にすればいい」


利家がぽかんとした顔になる。


「そんなので通るのか?」


帰蝶は少しだけ笑った。


「通すのよ」


その一言に、小夜は内心で舌を鳴らした。


やはりこの姫は、ただ気が強いだけではない。

こういう場で“表向きの形”をすぐ作れる。

吉法師が持っていないものを、平然と差し出してくる。


吉法師は少し考えたあと、あっさり頷いた。


「使えるな」


帰蝶の眉がわずかに動く。


「もう少し言い方というものがあるでしょう」


「褒めておる」


「それは分かるけれど、雑なのよ」


小夜が横からぼそっと言う。


「そこだけは私も同意」


「おぬしら、揃ってわしに厳しくないか」


「そこだけはね」


利家はそんな細かいやり取りより別のところが気になったらしい。


「姫って、そういうのもできるんだな」


帰蝶は利家へ目を向けた。


「どういうの、とは」


「表向きを作るやつ」


帰蝶は少しだけ口元を上げる。


「戦の前に陣を整えるのと同じよ。言葉にも形がいるでしょう」


利家は数秒考え、それから素直に頷いた。


「なるほど。俺には無理だ」


「知ってるわ」


小夜が即答する。


「お前、本当に俺には容赦ねえな」


「あなたが分かりやすすぎるのよ」


吉法師は、そのやり取りを聞きながらも、すでに次のことを考えていた。


寺。

堺に繋がる品。

香や薬に紛れた火の話。

帰蝶の口実を使えば、確かに不自然ではない。


「どこの寺だ」


小夜がすぐ答える。


「城下から少し外れた瑞泉寺。堺の商人が時々香木や薬種を納めてる」


帰蝶が補う。


「そこなら、私が見聞に興味を持っているという話を通してもおかしくないわ」


吉法師は立ち上がった。


「なら今日だ」


小夜と帰蝶が同時に言う。


「待って」


二人が一瞬だけ顔を見合わせる。


小夜が先に続けた。


「急すぎる」


帰蝶も頷く。


「こちらから行くなら、先に一言入れた方がいい。急な訪問は、かえって警戒を呼ぶ」


吉法師は少しだけ不満そうな顔をする。


「面倒だな」


帰蝶が呆れたように言う。


「だからその面倒を整えるのが私の役目でしょう」


「わしの役目ではないのか」


「あなたの役目は、そこで余計なことを言いすぎないこと」


小夜がすぐ乗る。


「それ本当に大事」


利家が笑う。


「今日のお前、二人に挟まれてるな」


「うるさい」


だが吉法師は、ちゃんと聞いていた。


以前なら、そのまま寺へ行っていたかもしれない。

だが今は違う。

具足の壁にぶつかり、商人に真正面から行っても駄目だと知った。

火を追うなら、形から入る必要もある。


「……では、待つ」


帰蝶が少しだけ意外そうな顔をする。


「素直ね」


「待つのは嫌いだ」


吉法師は言った。


「だが、今はそれが早いのだろう」


小夜は、その言葉にほんの少しだけ感心した。

前よりちゃんと、道の細さを見ている。


「じゃあ私は先に走らせる」


帰蝶が侍女へ目を向ける。


「瑞泉寺へ、“香や薬の見聞を望む”と伝えて」


侍女はすぐに頭を下げて去っていく。


その手際にも、小夜は少しだけ感心し、少しだけ面白くなかった。


帰蝶はそれに気づいているのかいないのか、吉法師へ向き直る。


「これで昼過ぎには返事が来るでしょう」


「よい」


「よくはないわ」


小夜が言う。


「今のうちに話すことを決める」


利家が嫌そうな顔をする。


「決めるのか?」


「決めるの」


「その場で何とかならねえのか」


「あなたはその場で何とかする側だからいいの。こっちは口を滑らせたら終わるのよ」


吉法師は少しだけ考える顔になった。


「では、火薬そのものは聞かぬ」


小夜が頷く。


「うん」


「香、薬、異国の珍品、その辺りから入る」


帰蝶も頷く。


「そう。相手に“こちらが何を探っているか”を先に決めさせないこと」


利家が腕を組んだ。


「面倒くせえ」


「だから面倒なのよ」


小夜が返す。


だがその面倒くささが、今日は少し違って見えた。


吉法師だけなら、もっと直線に行った。

小夜だけなら、もっと慎重すぎたかもしれない。

帰蝶がそこへ入ることで、ようやく表の形が整う。

利家は相変わらず大雑把だが、そういう話の最中でも妙に場を軽くする。


「変な組み合わせね」


小夜がぽつりと呟くと、利家が笑う。


「今さらだろ」


「本当にね」


帰蝶までそう言ったので、小夜は少しだけ目を丸くした。


帰蝶はそれに気づいて、少しだけ笑う。


「何」


「別に」


「顔に出てるわよ」


「あなたもね」


その短いやり取りに、吉法師は口元を緩めた。


やがて昼前、瑞泉寺から返事が来た。


帰蝶の名であれば断る理由もないらしい。

午後、香と薬の見聞として迎えるという。


「決まりだな」


吉法師が言う。


小夜は最後にもう一度だけ釘を刺す。


「いい? “火薬”は自分から言わない」


「うむ」


「“鉄筒”も、向こうが出すまでは言わない」


「うむ」


「堺って単語も、なるべく相手に先に言わせる」


「うむ」


利家が横で笑う。


「全部守れると思うか?」


小夜は即答する。


「思わない」


「ひでえな」


「だから私がついてくのよ」


帰蝶がそこで静かに付け加えた。


「私もいるわ。少なくとも、あなたがいきなり話を飛ばしすぎたら、横から止めるくらいはできる」


吉法師は少しだけ顔を上げる。


「二人がかりか」


「必要でしょう?」


小夜が言う。


「必要ね」


帰蝶も言う。


利家は心底楽しそうだった。


「若殿、お前今日けっこう大変だな」


吉法師は少しだけ不満そうな顔をしながらも、どこか楽しそうでもあった。


「面倒だ」


「でも嫌そうじゃないわよ」


小夜が言う。


「嫌ではない」


吉法師ははっきり答えた。


その声に、小夜も帰蝶も一瞬だけ黙る。


寺へ行く。

火の糸を追う。

その前に、形を整える。

周りを使う。

頼る。


そういうことを、吉法師が少しずつ覚え始めている。


午後、瑞泉寺へ向かう道すがら、吉法師はふと城の方を振り返った。


那古野城は、昼の光の中でもどこか重い。

遠くから見ればいつもと同じなのに、中にある空気だけが少しずつ変わっているのが分かる気がした。


信秀の病。

兄弟へ向く視線。

そして今、自分が追っている火の話。


遠い未来へ繋がる道と、今すぐ足元を揺らす影とが、同時に近づいている。


それでも吉法師は足を止めなかった。


火の噂は、もうただの噂ではない。

次は寺の縁だ。

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