第74話 堺の影
「堺そのもの、ねえ……」
利家は、心底面白そうな顔でそう言った。
その一方で、小夜は心底嫌そうな顔をしていた。
「言っとくけど、思いついたその日に堺まで走るとかは無しよ」
「何故だ」
吉法師が真顔で返す。
「何故だ、じゃないのよ」
小夜は額に手を当てた。
「遠い。金が要る。口実も要る。しかも今のあなた、城を空けて好きに動ける立場じゃないでしょう」
そこまで言われて、吉法師は少しだけ黙った。
たしかに、その通りだった。
城の空気は重い。
信秀の病は、もう「何となく顔色が悪い」という段階ではない。表向きには伏せられているが、奥向きの女中も、小姓も、家臣たちも、皆どこかで気づき始めている。そんな時に嫡男がふらりと長く姿を消せば、それだけで別の意味を持つ。
利家は腕を組んだまま笑う。
「珍しく小夜が全部正しいな」
「珍しく、は余計」
「でも、じゃあどうする」
吉法師はすぐには答えなかった。
町のざわめきの向こう、薬種問屋の暖簾がまだ揺れている。さきほどの店主は、あれ以上踏み込ませぬようにしながらも、確かに“ある”ことを否定しなかった。堺から流れてくる火の話。鉄の筒の話。南蛮の品。
糸は見えた。
だが、糸を引くにはまだ手が足りない。
「まずは、尾張に来る商人の顔を覚える」
吉法師が言った。
小夜が少しだけ目を細める。
「急に堅実になったわね」
「堺へ行けぬなら、堺を待てばよい」
利家が頷く。
「そりゃ分かりやすい」
「あなたはすぐそう言う」
「分かりやすいのは悪くねえだろ」
「悪くはないけど、大体そこから雑になるのよ」
三人がそんなことを言い合っていると、不意に背後から低い声がした。
「若殿」
振り向くまでもなく、誰だか分かる声だった。
森可成である。
町の通りの真ん中にいても、この男は周りの空気ごと少し静かにする。着流し姿でも武人の重みが抜けず、立つだけで周囲の人間が道を開けるようなところがある。
利家が少しだけ嬉しそうに言う。
「森殿」
小夜は内心で、また面倒が増えた、と思った。
可成は三人を順に見た。
吉法師。
小夜。
利家。
それから、薬種問屋の暖簾へも一度だけ視線をやる。
「町で何をしておられました」
「噂を追っておった」
吉法師が答える。
「火薬の話だ」
可成の目が、わずかに細くなった。
「まだ諦めてはおられぬか」
「諦める理由がない」
「理由なら、昨日十分に見たはずですが」
「壁を見た」
吉法師は言う。
「なら次は、その越え方だ」
可成は少しだけ黙った。
その沈黙は否定のものではない。若殿がそう言うだろうと、半ば予想していた男の沈黙だった。
やがて可成は、低く言う。
「ならば、追う相手を誤るな」
小夜が、その言葉にすぐ反応した。
「何か知ってるの?」
可成は小夜を見た。
見たが、答える相手は吉法師だけだと決めているように、そのまま若殿へ向き直る。
「鉄や火薬の話は、表の商いの顔では出てきませぬ」
「うむ」
「堺へ行く者も、堺から来る者も、皆が同じ荷を扱うわけではない」
吉法師が少し身を乗り出した。
「なら、どの顔を追う」
可成は通りの先を見た。
荷を運ぶ男。
帳面を抱えた小僧。
声を張る店主。
その中のどれでもない方角だ。
「寺です」
三人が揃って少し黙った。
利家が一番先に口を開く。
「寺?」
「うむ」
可成は頷く。
「火薬の材料は、薬でもあり、細工にも使う。異国の品も、最初は珍し物として寺や豪商へ流れることがある」
小夜が腕を組む。
「だから薬種問屋だったのね」
可成は答えない。
だが、その沈黙は肯定だった。
「それと」
さらに言う。
「堺の商人どもは、銭の匂いだけでなく、守りの匂いにも敏い。武士が真正面から聞けば口を閉ざす。だが、寺の縁や薬の筋、南蛮渡りの珍品の筋からなら、少しは口も緩む」
吉法師の目が光った。
「なら寺を当たる」
小夜が即座に止める。
「待って。今の話のどこを聞いてたの」
「寺だろう」
「そこだけじゃない」
利家が笑う。
「要するに、正面から行くと駄目ってことだろ」
「そう」
小夜が頷く。
「だから、今のあなたが“鉄砲を知りたい”って顔で寺へ行っても駄目」
吉法師が少しだけ不満そうになる。
「何故だ」
「顔に出るから」
「出ておるか」
「出てる」
利家も即答する。
「今のお前、昨日の工房と同じ顔してる」
可成が、ごくわずかに口元を緩めた。
「前田の言う通りです」
「森殿まで」
「若殿は隠し事に向いておらぬ」
「それは知ってる」
小夜がため息をつく。
「だから、行くなら別の顔を作るの。話を聞くための口実も、相手が喋りやすい流れも」
吉法師はそこで少し考えた。
こういう時、自分はいつも真っ直ぐ過ぎる。
面倒を嫌い、遠回りを嫌い、答えへ直接手を伸ばそうとする。
だが、今追っているのは町の喧嘩ではない。商いの奥にある、見えにくい流れだ。
「……分かった」
その一言に、小夜が少しだけ驚く。
「本当に?」
「半分はな」
「半分なのね」
利家が笑う。
「半分も分かりゃ十分だろ」
「あなたは本当に気楽ね」
可成は、そこで話を切るように一歩下がった。
「若殿」
「何だ」
「城へ戻られよ」
吉法師が眉をひそめる。
「まだ昼だ」
「だからです」
可成の声は低いが、揺れない。
「今、城を空ける時間が長いほど、周りの目は別の意味を持つ」
その一言で、通りの空気が少しだけ変わった。
利家も口を閉ざす。
小夜も、さっきまでの軽い調子を引っ込めた。
那古野城は今、ただの城ではない。
信秀の病が影を落とし、兄弟への視線が割れ始め、吉法師の一挙手一投足に余計な意味が生まれつつある。町で火を追っている間にも、城の中では別の火種が静かに育っているのだ。
吉法師は、ほんの少しだけ視線を落とした。
面倒だ。
本当に面倒だと思う。
だが、それが現実でもある。
「……うむ」
やがて、短くそう返す。
小夜がその横顔を見る。
嫌がっている。
けれど、逃げもしていない。
町の自由と、城の重さ。その両方を前より少しだけ同時に持てるようになってきたのかもしれない、と小夜は思った。
可成はそれ以上何も言わず、ただ最後にひとつだけ付け加えた。
「町の火を追うなら、家の火も見失うな」
その言葉は、吉法師の胸へ静かに入った。
城へ戻る道すがら、利家がぽつりと言う。
「森殿、怖えな」
小夜が肩をすくめる。
「でも正しい」
「正しいのが一番怖え」
「それは分かる」
吉法師は黙って歩いていた。
町の熱。
工房の熱。
火薬の話。
それら全部は、まだ捨てていない。
捨てていないが、今は一度持ち帰るしかない。
那古野城の門が見えてきた時、空の色が少しだけ曇った。
その曇り方が、城の中の空気に妙に似ている気がして、吉法師はほんの少しだけ眉を寄せた。
城へ戻れば、また平手政秀が小言を言うだろう。
帰蝶は面白そうにこちらを見るかもしれない。
勘十郎は、何も言わず気にしているかもしれない。
そして信秀の咳は、今日もまたどこかで深く響くのだ。
火の話は、まだ始まったばかりだ。
だがその火を追うには、まず城の中の火種を見失わぬこと。
吉法師は、門をくぐる前に一度だけ振り返った。
城下の向こう。
堺へ通じる道の方角を。
そして、何も言わずに前を向いた。




