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第73話 堺の火を追え

「堺へ行く商人を捕まえればいいのよ」


朝一番、小夜はそう言った。


あまりにもあっさりした言い方だったので、吉法師は筆を止めて顔を上げた。昨夜遅くまで紙へ向かっていたせいで、少しだけ目が重い。だが頭の中はまだ火の話でいっぱいだった。火薬、鉄の筒、南蛮渡り、堺。思いつく言葉は増えても、実物へ触れる道はまだ遠い。


「捕まえる、は物騒だな」


吉法師が言う。


「言い方の問題よ。要するに会って話を聞くの」


小夜は部屋の柱へ背を預けたまま、いかにも当然だという顔をしていた。


「堺へ行く荷は尾張にも入るし、堺から来る噂も町には流れる。火薬だの鉄砲だのって話があるなら、まず商人筋を追うのが一番早い」


吉法師は少しだけ目を細めた。


「おぬし、最初からそれを言えばよかっただろう」


「あなたが勝手に図を書き始めるから言う暇なかったの」


「なるほど」


「納得するの早いわね」


そのやり取りを、障子のところで聞いていた利家が笑う。


「じゃあ今日も城下だな」


「決めるのも早い」


小夜が呆れる。


「いいだろ。どうせ若殿はもう行く気の顔してる」


吉法師は否定しなかった。


実際、その通りだった。


失敗した。

具足は抜けなかった。

だからこそ次へ進む。

それはもう、自分の中では決まっている。


「行くぞ」


吉法師が立ち上がる。


小夜は深く息を吐いた。


「ほんと、決断だけは早い」


「褒め言葉だな」


「最近そればっかりね」


利家がその横でにやにやしている。


「俺ももう使っていいか?」


「駄目」


「何でだよ」


「あなたが言うと腹立つから」


「理不尽だな」


三人そろって部屋を出ると、城の廊下にはまだ朝の静けさが残っていた。だが、その静けさも表向きのものにすぎないと、今の吉法師には分かる。奥の方では人の気配が妙に薄い。女中たちも、小姓たちも、声を抑えすぎている。信秀の病が、城の呼吸そのものを少しずつ変えているのだ。


その空気を振り切るように、吉法師は外へ向かった。


城下は朝からよく動いていた。


荷車が通る。

乾物屋が店を開ける。

魚屋が声を張る。

団子屋の煙が細く上がる。

そういう日常の上を、人と噂と品物が流れている。その中のどこかに、堺へ繋がる糸も混じっているはずだった。


「で、どうするの」


小夜が訊く。


「商人を片っ端から捕まえるの?」


「それはおぬしの言い方だ」


「でも近いでしょ」


吉法師は少し考えた。


「火薬や南蛮の話をする者は、たいてい自慢したがる」


利家が頷く。


「分かる」


「何が分かるんだ」


「すげえもん知ってるって言いたい奴は、顔に出る」


小夜が少しだけ感心した顔をした。


「そういうところだけ鋭いのね」


「そういうところ“も”だ」


「はいはい」


三人はまず、町でも比較的大きな商家が並ぶ通りへ向かった。

堺との行き来があるなら、零細の店より、まずは荷を扱う大店の方が可能性が高い。そういう理屈は吉法師にも分かるし、小夜は最初からそう見ていた。


最初の一軒では、吉法師が唐突に訊いた。


「堺の鉄筒を知っておるか」


店主はきょとんとした顔をした。


「は?」


小夜が横からすぐに吉法師の袖を引く。


「聞き方」


「何がだ」


「何もかも」


利家が吹き出した。


「お前、本当にそこだけは成長しねえな」


「回りくどいのは嫌いだ」


「相手は好きじゃなくても必要なのよ」


結局、その店では大した話は聞けなかった。店主は「堺の品は扱うが、そんな珍妙なものは知らぬ」と繰り返すばかりで、むしろ若い武士三人が何を嗅ぎ回っているのかを警戒し始めた。


二軒目でも似たようなものだった。

三軒目では、南蛮由来の品に詳しいという男がいたが、火薬ではなく香料と硝子器の話ばかりで終わった。


利家が途中で露骨に飽き始める。


「話長え」


「あなたはすぐそうなる」


「だって、火も鉄も出てこねえじゃねえか」


「商人は最初から腹を見せない」


小夜が言う。


「雑に聞いても駄目」


吉法師は少しだけ考え込んだ。


たしかにそうだ。

火薬や鉄筒のような話は、そう簡単に通りの真ん中で喋るものではない。もし実際に流れているなら、なおさら相手を見るだろう。


「なら、こっちも見せるものを変えるか」


吉法師が言う。


小夜がすぐに反応する。


「何を」


「利家」


「何だ」


「おぬし、武骨すぎる」


利家が眉をひそめる。


「喧嘩売ってんのか」


「違う。だが商人相手には圧が強い」


小夜が頷いた。


「それは本当」


「おい」


「でも役に立つ時もある」


「何だよ、それ」


吉法師は続ける。


「わしが前へ出ると怪しまれる。おぬしが前へ出ると怖がられる。なら」


小夜が嫌な予感の顔になる。


「……まさか」


「おぬしが行け」


「嫌よ」


「見張り役だろう」


「便利に使いすぎなのよ」


利家がにやにやし始める。


「いいじゃねえか。商人相手なら小夜の方が自然だ」


「あなたたちは本当に他人にやらせる時だけ息が合うわね」


だが小夜も、吉法師の言うことが間違っていないとは思った。


商人は相手を見る。

武士が二人も並んでいれば、それだけで身構える。

けれど町娘ふうの娘が、堺土産や異国の珍品に興味を示すのは、まだ自然だ。


「……一回だけよ」


小夜が言う。


吉法師が頷く。


「うむ」


「絶対、後ろで変な顔しないでよ」


「善処する」


「その返事は信じない」


小夜が向かったのは、小さな薬種問屋だった。

間口は広くないが、店の奥に並ぶ箱や袋は丁寧に仕分けられている。香木や乾いた草の匂いに混じって、少しだけ鼻を刺す匂いもあった。硝石か何かに近い気配だと、吉法師は少し離れた場所から思った。


小夜は店先で、いかにも気軽に見える顔を作った。


「ねえ、堺から入る珍しい薬ってある?」


店主は小柄な男で、細い目をさらに細めて小夜を見た。


「何を探してるんだい」


「火をよくつける粉とか、そういうの」


店主の目が、ほんの少しだけ動いた。


小夜はそれを見逃さない。


「祭りの細工に使うって聞いたの。赤くなったり、ぱっと燃えたりするやつ」


そこへ、店の奥から別の男が顔を出した。

年は四十手前ほど。

目が妙に素早い。

吉法師は少し離れた位置から、その男が“小夜そのもの”ではなく、“周囲”を先に見たことに気づいた。後ろにいる自分たちへ気づいたのだ。


「そういうものは、あまり表で聞くものじゃない」


男が低く言う。


小夜は少しだけ肩をすくめた。


「なら、やっぱりあるのね」


男の目が細くなる。


利家が後ろで「お」と小さく言った。

吉法師は黙ったまま、そのやり取りを見ている。


男は一拍置いてから、さらに低く続けた。


「堺には、色々流れる。火の粉も、鉄も、南蛮の話もな。だが尾張でそれを探るなら、もう少し相手を選びな」


その言い方は、追い払うだけではなかった。

警告だ。

そして半ば、存在の肯定でもある。


小夜はそこで深追いせず、笑って頭を下げた。


「ごめんなさい。聞く相手を間違えたみたい」


店を離れたあと、利家がすぐ言った。


「今の、知ってたな」


「知ってた」


小夜が頷く。


「しかも、こっちが何に興味あるかも分かった顔してた」


吉法師の目が光る。


「やはりある」


「ある、けど」


小夜は真顔に戻った。


「軽く触っただけで終わったからよかったの。あれ以上踏み込んだら、今度はこっちが探られる」


利家が腕を組む。


「面倒だな」


「そういう話だもの」


吉法師はしばらく黙って歩いた。


堺。

南蛮。

火薬。

鉄筒。


ぼんやりした噂ではなく、たしかにこの尾張の城下にもその糸は流れている。

なら、追う価値はある。


「次は、もっと丁寧に行くべきだな」


ぽつりと言うと、小夜が振り向く。


「珍しいこと言う」


「わしとて学ぶ」


「本当かしら」


「具足の壁で学んだ」


その一言に、小夜は少しだけ黙った。


そうだ。

あの失敗があったからこそ、今の吉法師は“あるかないか”だけで飛び込まず、糸の細さを見ようとしている。変わったとまでは言わない。だが、前とは少し違う。


その時、通りの向こうで、聞き慣れた足音が止まった。


帰蝶だった。


侍女を一人だけ連れ、町の品を見ていたらしい。だが目はすぐにこちらを捉える。吉法師が小夜と利家を連れ、しかも何やら低い声で話し込んでいるのを見て、少しだけ口元を上げた。


「また面白いことをしている顔ね」


開口一番、それだった。


吉法師が振り向く。


「おぬしこそ、また見ておるな」


「見えるところにいるからでしょう」


帰蝶はそう返し、視線を小夜へ一度だけ向けた。

小夜もそれを受ける。

短い。

だが、前に庭で交わしたやり取りを覚えている目だった。


利家が小声で吉法師へ訊く。


「誰だ」


「帰蝶」


「……ああ、あの」


利家はそこで口をつぐんだ。

噂くらいは聞いているのだろう。

蝮の娘。

吉法師の婚姻相手。

その両方を頭の中で一度繋げて、それから少しだけ面白そうな顔になった。


帰蝶は吉法師の顔を見た。


「何か見つかったの?」


「少しはな」


「その顔は、何も見つからなかった顔ではないもの」


吉法師は少しだけ笑う。


「おぬしはよく見るな」


「そういうところは得意なの」


その言い方に、小夜が内心で少しだけ舌を鳴らした。

やはりこの姫は、ただの見物人ではない。

人の顔から先を読む。


帰蝶は、そこでそれ以上踏み込まず、ただ一言だけ落とした。


「今度は、失敗しても無茶に飛ばないように」


小夜が少しだけ目を丸くする。

その言葉には、呆れだけでなく、ほんの少しだけ心配も混じっていたからだ。


吉法師もそれには気づいたらしい。


「忠告か」


「助言よ」


「似たようなものだ」


「受け取り方が雑ね」


帰蝶はそう言って、侍女を連れて去っていく。


その背を見送りながら、利家がぽつりと呟いた。


「……お前の周り、どんどん濃くなってくな」


小夜がため息をつく。


「今さら気づいたの」


吉法師はそれには答えず、もう一度さっきの薬種問屋の方角を見た。


まだ糸は細い。

だが、確かにある。


火の話は、空想だけではなかった。

町の奥に、商人の腹の底に、すでに流れている。


「次は堺そのものだな」


吉法師が静かに言うと、小夜と利家が同時に振り向いた。


「早い!」


「飛びすぎだろ!」


二人が珍しく同時に言ったので、吉法師は少しだけ笑った。


「だが、行く道は見えた」


その声には、失敗を越えたあとの熱がちゃんと戻っていた。


まだ準備は足りない。

まだ話は浅い。

だが、次へ進む足場だけは確かに見え始めている。


そしてその頃、那古野城の奥では、また信秀の咳が深く響いていた。


未来の火を追う吉法師。

今の家の揺れを抱える城。


二つの熱は、別々の速さで確実に近づき始めていた。

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