第72話 嵐の前の熱
夜は静かだった。
那古野城の屋根を撫でていく風は弱く、庭の松も今夜はあまり騒がない。昼のうちに城下を行き交っていた声や足音も、もう奥へ引いている。静かなのに、落ち着かない。そんな夜だった。
吉法師は、自室の灯りの下でひとり座っていた。
前には紙。
脇には炭。
そして、工房から持ち帰った小さな木片と、雑に書き散らした図がいくつも広がっている。
矢では足りぬ。
具足は抜けぬ。
ならば次は火。
そう言い切ったものの、では何をどうすればよいのかと問われれば、まだ道は霧の中だ。鉄の筒。火薬。商人の噂。堺。南蛮。頭の中にあるのは断片ばかりで、手に取れる形にはなっていない。
それでも吉法師は、炭を持つ手を止めなかった。
「ここを押し出す……いや、違うな」
ひとりごとが漏れる。
火の力を前へ逃がす。
押し出すものは矢か、石か、それとも別の何かか。
そもそも火薬がどれほどの勢いを持つものなのか、自分はまだ見てもいない。
だが、分からぬから面白いとも思う。
昨日までなら、その面白さだけで突っ走ったかもしれない。
今は少し違う。
具足に弾かれた音が、ちゃんと胸の底へ残っている。
面白い。
だが、それだけでは足りぬ。
「壁、か」
可成の声を思い出し、吉法師は小さく鼻を鳴らした。
壁の重みを知ったなら、次はその越え方を考えなされ。
その通りだ。
だから考えている。
だが越え方というものは、考えたからといってすぐ見えるものでもないらしい。
炭を置き、少しだけ肩を回す。
工房での熱。
可成の言葉。
政秀の小言。
全部が頭の中でまだ温かい。
同じ頃、城下では利家が、酒場でもなく稽古場でもなく、珍しくひとりで夜道を歩いていた。
「火、ねえ」
ぽつりとそう言って、空を見上げる。
面白いことになってきた、とは思う。
あの若殿は、やはり変だ。
具足に弾かれて落ち込んだと思ったら、半日で次の話をしている。
普通なら「ちっ、駄目だった」で終わるところだ。
だが吉法師は違う。駄目だったなら別の道だと、平気で次へ飛ぶ。
利家はそういうところが嫌いではなかった。
むしろ好きだ。
分かりやすく、真っ直ぐで、妙にでかいものを見ている。
こっちまで面白くなる。
「付き合うしかねえな」
笑いながらそう言う。
誰にでもではない。
ああいう馬鹿に付き合うのは、案外悪くない。
一方、小夜は城の屋根の上にいた。
見張り役としてはいつもの場所だ。
けれど今夜は、見張るべきものが多すぎて、少しだけ気が重かった。
吉法師の部屋にはまだ灯りがある。
紙に向かっている気配だ。
また考えているのだろう。
その一方で、奥の方角は妙に静かだ。
信秀の部屋のあたり。
静かすぎる時の方が、かえって不穏だと小夜は知っている。
「ほんと、面倒」
口に出してみる。
だが、その声に本気の嫌気はあまり混じっていなかった。
最初は見張るだけのつもりだった。
変な若殿がどこまで危ういのか、見ていればよかったはずだ。
なのに今は、工房の試作の失敗まで一緒に気にしている。
利家の大雑把さに呆れ、弓職人の意地に少し感心し、吉法師が次に何を思いつくかを考えている。
「……見張り役、ね」
小夜は、自分で言って少しだけ笑った。
もうそれだけでは済まなくなっている。
そのことを、今日は妙に素直に認めていた。
帰蝶もまた、部屋の灯りの中で静かに考えていた。
侍女は下がらせてある。
今はひとりだ。
昼の廊下で見た吉法師の顔を思い出す。
失敗しても、沈みきってはいない顔。
負けて終わる者の顔ではなかった。
「やっぱり、止まらないのね」
帰蝶は小さく呟く。
危うい。
厄介。
だが目を離せない。
しかも最近は、その周りに妙な者まで増えてきた。
荒くれ武士の前田利家。
忍び娘の小夜。
槍の鬼・森可成。
酔っ払いの弓職人までそこへ絡み始めている。
吉法師の周りだけ、妙に空気の流れが違う。
人が寄る。
騒ぎが起きる。
失敗する。
それでも前へ進む。
「普通じゃない」
そう思って、帰蝶は少しだけ笑った。
だがその“普通じゃない”が、今はただの悪癖には見えない。
城の中では誰もが足元ばかり見ている。
家中の目。
病の影。
兄弟の線引き。
そんな中で、あの男だけが別の未来を見ている。
それが愚かかもしれぬ。
だが、愚かだとしても、面白い。
「次は、こちらから揺さぶるべきかしら」
帰蝶はそう考える。
見ているだけでは、あの男の本当の芯までは掴めない。
こちらから踏み込んで、反応を見なければならない。
その必要を、帰蝶は日に日に強く感じていた。
一方、平手政秀は眠れていなかった。
机の上には書きかけの文。
脇には薬湯の匂いが残る衣。
だが目は紙ではなく、ずっと別の場所を見ていた。
若殿は相変わらずだ。
飛び、ぶつかり、失敗し、それでも止まらぬ。
そこには救いもある。
だが同時に恐ろしさもある。
そして信秀の病は、確実に進んでいる。
政秀は深く息を吐いた。
若殿の熱は、前へ向かっている。
それはよい。
本来なら、家にとっても力になるはずだ。
だが、時が悪い。
今、城の中で必要なのは、熱だけではない。
熱と同じだけ、家をまとめるための静けさも要る。
だが吉法師は静けさだけの男ではない。
そこが悩ましい。
「殿……」
誰へともなくそう漏らす。
信秀がもう少し長く立ってくれれば。
兄弟がもう少し兄弟のままでいられれば。
そう思わずにいられない。
だが、時は願いでは止まらない。
可成は可成で、槍を拭きながら思っていた。
若殿は面白い。
失敗のあとに死なぬ目をしている。
あれは強い。
だが、強いだけでは足りぬ場面が近づいている。
信秀の病。
家中の揺れ。
勘十郎へ向く視線。
帰蝶という異物。
前田利家という火種。
全部が、まだ表へは出ていない。
だが確実に積もっている。
「嵐の前だな」
ぽつりとそう言う。
槍の先で分かることと、人の世の流れで分かることは違う。
だが、どちらにも“来る気配”というものはある。
今の尾張には、それがあった。
そして勘十郎もまた、庭を眺めていた。
兄はまた何かを始めたらしい。
利家と、小夜と、あの妙な工房で騒いでいる。
それを聞くたび、少しだけ羨ましい気持ちが胸のどこかに生まれる。
自分は、あんなふうにはなれない。
なれないし、なるべきでもないのだろう。
けれど、兄の周りに熱が集まっていくのを見ると、ただ静かに整っているだけの自分が、少しだけ薄く見える時がある。
「兄上……」
小さく呟く。
兄弟でいたい。
それだけなのに。
その願いが、今は妙に遠いもののようにも思えた。
夜は更けていく。
吉法師はまだ紙に向かっている。
利家は笑いながら次を考えている。
小夜は屋根の上で風を読んでいる。
帰蝶は次に投げる言葉を選んでいる。
政秀は眠れず、可成は静かに時を見ている。
勘十郎は兄の背を遠く思っている。
そして城の奥では、信秀の咳がまたひとつ、深く響いていた。
まだ誰も大声では言わない。
まだ決定的な何かが起きたわけでもない。
だが皆、同じものを感じ始めている。
吉法師はまだ、未来の戦を考えていた。
新しい火を、見たこともない力を、どう使えばこの国の戦が変わるのかと。
だが那古野城では、それより先に“今の家”が揺れ始めていた。




