第55話 帰蝶視点
静かだ、と帰蝶は思った。
静かなのに、落ち着かない。
那古野城の廊下を歩いていると、足音はよく響く。板の継ぎ目、障子の向こうの気配、庭から吹き込む風の向きまで、妙に素直に伝わってくる城だ。美濃の城にも静けさはある。だがあちらの静けさは、刃を抜く前のような張りつめ方をしている。対して尾張の静けさは、どこか曖昧だった。皆が何かを隠しているのに、その隠し方が揃っていない。
だから、歩いているだけで分かる。
この城は、まだ壊れてはいない。
けれど、もう一枚岩でもない。
帰蝶は廊下の角で足を止めた。
向こうから家臣たちが数人、低い声で言葉を交わしながら歩いてくる。こちらに気づくと、すぐに姿勢を正し、礼を取る。礼そのものに乱れはない。だが、その視線が一瞬だけどこへ揺れたかを、帰蝶は見逃さなかった。
兄の話をしていた目だ。
いや、兄と弟のどちらを口にしていたのかもしれない。
「帰蝶様」
先頭の男が丁寧に言う。
「ご機嫌よう」
帰蝶も柔らかく返す。
それだけで会話は終わる。男たちはまた低い声へ戻り、通り過ぎていく。だが、すれ違いざまの気配が残る。あれは、客人へ向けるだけの空気ではない。もっと別のことを考えている顔だ。
帰蝶は、その背を少しだけ目で追った。
この数日で、だいぶ見えてきた。
家臣たちが吉法師を見る時の目。
勘十郎を見る時の目。
その違いが、あまりにも分かりやすい。
吉法師を見る時、皆は測っている。
どこまで危ういのか。
どこまで才があるのか。
どこまで家中を乱し、どこまで家を押し上げるのか。
そういう目だ。
対して勘十郎を見る時の目には、安堵がある。
整っている。
礼がある。
人を不安にさせない。
少なくとも今すぐに、城をかき乱す気配はない。
そういう安心だ。
その差は、本人たちより周囲の方が早く作ってしまっている。
帰蝶は、庭へ面した廊下へ出た。
白砂が明るい。松の影が細く落ち、風が吹くたび枝が静かに鳴る。整えられた庭だ。だが、整えられているほど、その向こうにある乱れがかえって目立つ気がした。
向こうの渡り廊下に、平手政秀の姿が見えた。
歩く速度は変わらない。
姿勢も崩れていない。
だが、顔が疲れている。
帰蝶はあの男が嫌いではなかった。真面目で、家を思い、若殿を見捨てぬくせに、ちゃんと困りきっている。ああいう人間は、見ていて少し哀れで、少し面白い。
政秀は一度立ち止まり、若侍へ何事か言いつけた。若侍は深く頭を下げて走っていく。言いつけの内容までは聞こえない。だが帰蝶には分かる。あれは、城のあちらこちらで起きる小さな不穏を、一つずつ手で押さえている男の動きだ。
しかも、その不穏の中心にはたいてい吉法師がいる。
「苦労しているのね」
帰蝶が小さく呟くと、後ろに控えていた侍女が不思議そうな顔をした。
「何がにございますか」
「いいえ」
帰蝶はそれ以上言わなかった。
平手政秀の苦悩は、説明されるものではなく、見れば分かる類のものだ。あの男は、吉法師の異才を完全には捨てきれない。だが家中の不安も、父の病も、弟へ向く期待も、全部見えている。見えているからこそ苦しんでいる。
ああいう者が一番長く眠れぬ。
そのまま歩いていると、廊下の向こうで女中が二人、小さな声で話しているのが耳に入った。
「信秀様、今朝も……」
「しっ、声が大きい」
「でも、薬湯の量が」
「口にしてはいけません」
「分かってるけど……」
帰蝶は何も言わず、その横を通り過ぎた。
女中たちは慌てて平伏する。
だが、その青ざめ方で十分だった。
信秀の病は、表向きまだ“深刻ではないもの”として扱われている。だが、奥向きの女たちの間ではもう隠しきれていない。薬湯の匂い、医師の出入り、夜更けの咳、寝所の空気。そういうものを毎日見ている女たちは、男たちより先に「近い」と悟る。
そして近いと悟れば、人は次を考える。
帰蝶は、そこで足を止めた。
向こうの庭に、勘十郎がいた。
女中が盆を運んでくると、彼はきちんと立ち止まり、道を譲った。女中が恐縮して頭を下げる。勘十郎はそれへ穏やかに頷く。それだけだ。ただそれだけのことなのに、見ている側の肩から力が抜けるのが分かる。
「あちらの方が安心されるのね」
帰蝶は内心でそう思った。
勘十郎は悪くない。
礼儀がある。
柔らかい。
場を乱さぬ。
家臣たちがあちらを見る時、目の奥に「これならまだ収まる」という色があるのも分かる。あれは期待であり、逃げ道でもある。危うい兄を見たあとで、整った弟を見るから余計にそうなるのだろう。
だが。
帰蝶は、そこでふと口元を歪めた。
面白くはない。
人として悪いわけではない。むしろ良い。
だが、安心できるものは往々にして、心を揺らさない。
少なくとも帰蝶の目には、勘十郎は「好ましい」が「目を離せない」にはならなかった。
そのあと、帰蝶は渡り廊下の端で、庭の向こうを歩く吉法師も見た。
家臣が何かを報告している。
吉法師は聞いているようで聞いていないような顔だ。
だが、相手の言葉の終わりで突然何か返し、その一言で家臣の表情が変わる。困ったような、驚いたような、少し腹を立てたような顔だ。
帰蝶は小さく息を吐いた。
あれだ。
皆があれを危ういと見るのは分かる。
言葉に遠慮がない。
人の顔色を読まぬようでいて、実は見抜いている。
そして見抜いた上で、なお踏み込む。
そんな若殿は、そりゃあ面倒だろう。
だが同時に、ただのうつけではないこともよく分かる。
もし本当に底の浅い馬鹿なら、ここまで周りの空気を変えはしない。
ただ笑われて終わる。
あれは違う。
笑われるが、それだけで済まぬ。
怖れられ、測られ、期待され、警戒される。
そういう男だ。
「厄介」
帰蝶は、誰にともなく呟いた。
だがその言葉の中には、呆れだけではないものが混じっていた。
その時、吉法師が何かに気づいたようにこちらを見た。
ほんの一瞬、視線が合う。
吉法師は、少しだけ首を傾げる。
帰蝶はそれへ、ほんのわずかに口元を上げて返した。
それだけで十分だった。
あの男は、自分が見られていることにすぐ気づく。
そして気づいたからといって、取り繕わない。
そこもまた、帰蝶には面白かった。
吉法師が去ったあとも、帰蝶はしばらくその場に立っていた。
風が庭の松を鳴らす。
遠くで誰かが障子を閉める音がする。
城は静かだ。
だがその静けさの下で、視線だけが絶えず行き交っている。
兄を見る目。
弟を見る目。
病の主を見る目。
それらを必死に押さえようとする平手政秀の目。
噂を運ぶ女中たちの目。
誰もまだ口にはしない。
だが空気は、もうそちらへ傾いている。
帰蝶はゆっくりと息を吐いた。
尾張は、まだ崩れていない。
けれど、すでに割れ始めている。
しかもそれは、兄弟自身が争っているからではない。
周りが先に、兄と弟を別々のものとして見始めているのだ。
「尾張は、もう兄弟で割れ始めている」
帰蝶は静かにそう思った。
まだ表へ出てはいない。
だが、表へ出ていないからこそ厄介だった。
目に見える亀裂より、目に見えぬまま広がるひびの方が深いことを、帰蝶は知っている。
そして、そのひびの中心には、あの“うつけ”が立っている。
危うい。
だが、それだけでは終わらぬ男が。




