表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
尾張のうつけと呼ばれ、家臣にも見放されかけた織田信長だが、実は戦の地形も商いの流れも人の本心も見抜く戦国最強の天才でした 〜蝮の娘と忍びに振り回されながら天下布武を目指すラブコメ戦記〜戦国異聞伝〜  作者: 常陸之介寛浩✪書籍・本能寺から始める信長との天下統一
第二章 尾張放浪編 ― うつけ、世を知る

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

54/83

第55話 帰蝶視点

静かだ、と帰蝶は思った。


静かなのに、落ち着かない。


那古野城の廊下を歩いていると、足音はよく響く。板の継ぎ目、障子の向こうの気配、庭から吹き込む風の向きまで、妙に素直に伝わってくる城だ。美濃の城にも静けさはある。だがあちらの静けさは、刃を抜く前のような張りつめ方をしている。対して尾張の静けさは、どこか曖昧だった。皆が何かを隠しているのに、その隠し方が揃っていない。


だから、歩いているだけで分かる。


この城は、まだ壊れてはいない。

けれど、もう一枚岩でもない。


帰蝶は廊下の角で足を止めた。


向こうから家臣たちが数人、低い声で言葉を交わしながら歩いてくる。こちらに気づくと、すぐに姿勢を正し、礼を取る。礼そのものに乱れはない。だが、その視線が一瞬だけどこへ揺れたかを、帰蝶は見逃さなかった。


兄の話をしていた目だ。

いや、兄と弟のどちらを口にしていたのかもしれない。


「帰蝶様」


先頭の男が丁寧に言う。


「ご機嫌よう」


帰蝶も柔らかく返す。


それだけで会話は終わる。男たちはまた低い声へ戻り、通り過ぎていく。だが、すれ違いざまの気配が残る。あれは、客人へ向けるだけの空気ではない。もっと別のことを考えている顔だ。


帰蝶は、その背を少しだけ目で追った。


この数日で、だいぶ見えてきた。


家臣たちが吉法師を見る時の目。

勘十郎を見る時の目。

その違いが、あまりにも分かりやすい。


吉法師を見る時、皆は測っている。

どこまで危ういのか。

どこまで才があるのか。

どこまで家中を乱し、どこまで家を押し上げるのか。

そういう目だ。


対して勘十郎を見る時の目には、安堵がある。

整っている。

礼がある。

人を不安にさせない。

少なくとも今すぐに、城をかき乱す気配はない。

そういう安心だ。


その差は、本人たちより周囲の方が早く作ってしまっている。


帰蝶は、庭へ面した廊下へ出た。


白砂が明るい。松の影が細く落ち、風が吹くたび枝が静かに鳴る。整えられた庭だ。だが、整えられているほど、その向こうにある乱れがかえって目立つ気がした。


向こうの渡り廊下に、平手政秀の姿が見えた。


歩く速度は変わらない。

姿勢も崩れていない。

だが、顔が疲れている。


帰蝶はあの男が嫌いではなかった。真面目で、家を思い、若殿を見捨てぬくせに、ちゃんと困りきっている。ああいう人間は、見ていて少し哀れで、少し面白い。


政秀は一度立ち止まり、若侍へ何事か言いつけた。若侍は深く頭を下げて走っていく。言いつけの内容までは聞こえない。だが帰蝶には分かる。あれは、城のあちらこちらで起きる小さな不穏を、一つずつ手で押さえている男の動きだ。


しかも、その不穏の中心にはたいてい吉法師がいる。


「苦労しているのね」


帰蝶が小さく呟くと、後ろに控えていた侍女が不思議そうな顔をした。


「何がにございますか」


「いいえ」


帰蝶はそれ以上言わなかった。


平手政秀の苦悩は、説明されるものではなく、見れば分かる類のものだ。あの男は、吉法師の異才を完全には捨てきれない。だが家中の不安も、父の病も、弟へ向く期待も、全部見えている。見えているからこそ苦しんでいる。


ああいう者が一番長く眠れぬ。


そのまま歩いていると、廊下の向こうで女中が二人、小さな声で話しているのが耳に入った。


「信秀様、今朝も……」


「しっ、声が大きい」


「でも、薬湯の量が」


「口にしてはいけません」


「分かってるけど……」


帰蝶は何も言わず、その横を通り過ぎた。


女中たちは慌てて平伏する。

だが、その青ざめ方で十分だった。


信秀の病は、表向きまだ“深刻ではないもの”として扱われている。だが、奥向きの女たちの間ではもう隠しきれていない。薬湯の匂い、医師の出入り、夜更けの咳、寝所の空気。そういうものを毎日見ている女たちは、男たちより先に「近い」と悟る。


そして近いと悟れば、人は次を考える。


帰蝶は、そこで足を止めた。


向こうの庭に、勘十郎がいた。


女中が盆を運んでくると、彼はきちんと立ち止まり、道を譲った。女中が恐縮して頭を下げる。勘十郎はそれへ穏やかに頷く。それだけだ。ただそれだけのことなのに、見ている側の肩から力が抜けるのが分かる。


「あちらの方が安心されるのね」


帰蝶は内心でそう思った。


勘十郎は悪くない。

礼儀がある。

柔らかい。

場を乱さぬ。


家臣たちがあちらを見る時、目の奥に「これならまだ収まる」という色があるのも分かる。あれは期待であり、逃げ道でもある。危うい兄を見たあとで、整った弟を見るから余計にそうなるのだろう。


だが。


帰蝶は、そこでふと口元を歪めた。


面白くはない。


人として悪いわけではない。むしろ良い。

だが、安心できるものは往々にして、心を揺らさない。

少なくとも帰蝶の目には、勘十郎は「好ましい」が「目を離せない」にはならなかった。


そのあと、帰蝶は渡り廊下の端で、庭の向こうを歩く吉法師も見た。


家臣が何かを報告している。

吉法師は聞いているようで聞いていないような顔だ。

だが、相手の言葉の終わりで突然何か返し、その一言で家臣の表情が変わる。困ったような、驚いたような、少し腹を立てたような顔だ。


帰蝶は小さく息を吐いた。


あれだ。


皆があれを危ういと見るのは分かる。

言葉に遠慮がない。

人の顔色を読まぬようでいて、実は見抜いている。

そして見抜いた上で、なお踏み込む。


そんな若殿は、そりゃあ面倒だろう。


だが同時に、ただのうつけではないこともよく分かる。


もし本当に底の浅い馬鹿なら、ここまで周りの空気を変えはしない。

ただ笑われて終わる。

あれは違う。

笑われるが、それだけで済まぬ。

怖れられ、測られ、期待され、警戒される。

そういう男だ。


「厄介」


帰蝶は、誰にともなく呟いた。


だがその言葉の中には、呆れだけではないものが混じっていた。


その時、吉法師が何かに気づいたようにこちらを見た。


ほんの一瞬、視線が合う。


吉法師は、少しだけ首を傾げる。

帰蝶はそれへ、ほんのわずかに口元を上げて返した。


それだけで十分だった。


あの男は、自分が見られていることにすぐ気づく。

そして気づいたからといって、取り繕わない。

そこもまた、帰蝶には面白かった。


吉法師が去ったあとも、帰蝶はしばらくその場に立っていた。


風が庭の松を鳴らす。

遠くで誰かが障子を閉める音がする。

城は静かだ。

だがその静けさの下で、視線だけが絶えず行き交っている。


兄を見る目。

弟を見る目。

病の主を見る目。

それらを必死に押さえようとする平手政秀の目。

噂を運ぶ女中たちの目。


誰もまだ口にはしない。

だが空気は、もうそちらへ傾いている。


帰蝶はゆっくりと息を吐いた。


尾張は、まだ崩れていない。

けれど、すでに割れ始めている。


しかもそれは、兄弟自身が争っているからではない。

周りが先に、兄と弟を別々のものとして見始めているのだ。


「尾張は、もう兄弟で割れ始めている」


帰蝶は静かにそう思った。


まだ表へ出てはいない。

だが、表へ出ていないからこそ厄介だった。

目に見える亀裂より、目に見えぬまま広がるひびの方が深いことを、帰蝶は知っている。


そして、そのひびの中心には、あの“うつけ”が立っている。


危うい。

だが、それだけでは終わらぬ男が。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ