第56話 忍びと姫
「そこにいるのでしょう」
帰蝶がそう言った時、庭には風の音しかなかった。
夕方の光が少しずつ薄くなり、白砂の明るさも昼ほどではない。松の枝が風に揺れ、その影が石の上をゆっくり滑っていく。那古野城の庭は整っている。整っているが、だからこそ、そこへ紛れようとする気配はかえってよく分かる。
帰蝶は廊下の端に立ったまま、振り向かなかった。
「隠れるなら、もう少し上手くなさいな」
少し間があってから、植え込みの影がわずかに動いた。
音もなく、一人の少女が姿を現す。
町娘の格好をしている。
だが、その立ち方が違う。
足が軽い。
目が止まらない。
そして何より、隠れることに慣れた者の体の使い方をしている。
帰蝶は、そこでようやくそちらを見た。
「やっぱり、あなた」
少女――小夜は、少しだけ眉を寄せた。
「最初から気づいてたの」
「来ると思っていたわ」
帰蝶は涼しい顔で言う。
「人のそばにあれだけぴったり張りついていて、何も見に来ない方が不自然でしょう」
小夜はその言い方に少しだけ引っかかりを覚えたが、顔には出さなかった。
この姫は、やはり強い。
ただ気が強いのではない。
相手が何者かも測らずに言葉を出す人ではない。
「何か御用?」
小夜が訊くと、帰蝶は小さく笑った。
「それは、こちらの台詞」
帰蝶は廊下から一段下り、庭石のそばまで出る。
姫が自分から距離を詰めてくるのを見て、小夜は少しだけ意外に思った。もっと遠くから人を動かすタイプかと思っていたのだ。
「名は?」
帰蝶が問う。
小夜は一瞬だけ迷ったが、隠しても仕方がないと思った。
「望月小夜」
「望月」
帰蝶はその姓を小さく繰り返す。
「いかにも忍びらしい名ね」
「そっちは、隠す必要もないでしょう」
「帰蝶よ」
その言い方は、名乗るというより、確認させるだけの響きだった。
小夜は頷く。
「知ってる」
「でしょうね」
短い会話なのに、どちらも一歩も譲らない。
庭の空気は静かなままなのに、言葉の端だけが細く張っている。
帰蝶は小夜を見た。
町娘の顔をしている。
だが、ただの町娘なら今ここへこうして現れたりはしない。
あの吉法師のそばにいて、あの若殿の無茶へ呆れながらついていくような娘が、普通であるはずがなかった。
「あなた、あの人のそばにいるのね」
帰蝶が言う。
小夜は肩をすくめた。
「見張っているだけ」
「見張りにしては近い」
すぐに刺される。
小夜は一瞬だけ目を細めたが、すぐに言い返した。
「姫様こそ、ずいぶん気にしてる」
帰蝶の口元がわずかに上がった。
「気になるもの」
「素直ね」
「あなたにだけは言われたくない」
その返しに、小夜は少しだけ息を漏らした。
この姫は、言葉を受けて引かない。
しかも、ただ強いだけではなく、ちゃんと楽しんでいる。
「で?」
小夜が言う。
「私は何を答えればいいの」
「別に、何も」
帰蝶はそう言って、庭石へ軽く手を置いた。
「ただ確かめたかっただけ。あなたが、あの人の外側をうろつく程度の娘なのか、それとももっと近いのか」
小夜は黙った。
その沈黙だけで、帰蝶には十分だった。
近いのだ。
少なくとも、自分よりは。
帰蝶はそれを認めたくないわけではなかった。
ただ少しだけ、面白くないと思った。
自分は尾張へ政として入ってきた。
吉法師を見ている。
あの家中の揺れを見ている。
だが、それはまだ外からだ。
この忍び娘は違う。
吉法師のそばへ自然に立ち、町を歩き、喧嘩を見て、怪我まで見ている。
あの男の内側を、もうこちらより多く見ている。
その差が、帰蝶には少しだけ気になった。
「あなた」
帰蝶が静かに言う。
「吉法師様のことを、どう見ているの」
小夜は少しだけ考えた。
どう見ているか。
変な男。
危ない男。
面倒な男。
放っておけない男。
言い方はいくつも浮かんだが、そのどれをそのまま姫へ渡す気にはなれなかった。
「変な人」
結局、いちばん軽いものを選ぶ。
帰蝶はすぐに笑った。
「それは知ってる」
「じゃあ聞かないで」
「変なだけじゃないでしょう」
小夜は、その言葉には答えなかった。
答えなかったこと自体が、答えになってしまう。
帰蝶はそこを見逃さない。
「やっぱり」
「何が」
「見張ってるだけじゃない」
小夜は、今度こそ少しだけ不機嫌そうな顔をした。
「姫様は、人の言葉を素直に受け取らないのね」
「戦国の姫が、いちいち素直でいられると思って?」
その返しは、小夜には少し新鮮だった。
ただ気が強い姫なら、「私はそういうもの」と言うだろう。
だが帰蝶は「戦国の姫」という言い方をした。
自分がどういう立場に置かれているかを、ちゃんと分かったうえで喋っている。
この人は、政略の駒で終わる人ではない。
小夜はそのことを、ここで初めてはっきり理解した。
吉法師にとって、この姫はきっと大きい。
ただの婚姻相手でも、気の強い女でもなく、今後ずっと視線を交わす相手になる。
そんな気がした。
「あなたも」
小夜が言う。
「ただのお姫様じゃないのね」
帰蝶は少しだけ目を細めた。
「褒めてるの?」
「半分」
「残り半分は?」
「面倒そう」
その答えに、帰蝶は小さく笑った。
「それはお互い様でしょう」
たしかにそうだった。
しばらく、二人の間に沈黙が落ちる。
だが居心地の悪い沈黙ではない。
互いに相手を測り終え、次にどこまで踏み込むかを決めかねている沈黙だった。
やがて帰蝶が、ふいに柔らかい声で言った。
「あなた、あの人のこと嫌いじゃないでしょう」
小夜は、その一言に少しだけ黙った。
ほんのわずかな沈黙だった。
だが帰蝶には十分だった。
小夜自身も、その沈黙で気づいた。
否定しようと思えば、すぐできたはずなのだ。
「嫌いよ」と笑って返すこともできた。
なのに一瞬、言葉が止まった。
帰蝶は、それを見て口元を上げる。
「やっぱり」
小夜はむっとした。
「姫様こそ、ずいぶん楽しそうね」
「面白いもの」
「何が」
「あなたも、あの人も」
その言い方が癪で、小夜は少しだけ視線を逸らした。
帰蝶はその様子を見て、さらに少しだけ笑う。
勝った、というほどではない。
だが、この忍び娘の心が完全には冷たくないことを知れただけでも、十分に面白かった。
「安心したわ」
帰蝶が言う。
「何が」
「あなたが、ただの目だけの娘じゃないって分かったから」
小夜は眉を寄せた。
「どういう意味」
「本当に何も思っていない者は、もっと残酷に見られるもの」
その言葉に、小夜は少しだけ言葉を失った。
たしかに、そうかもしれなかった。
帰蝶はそこでもう十分だと思ったのか、くるりと踵を返した。
「また会いましょう、望月小夜」
「……できれば遠慮したい」
「無理でしょうね」
帰蝶は振り向かずにそう言った。
廊下へ戻るその背中は細い。
だが、その細さの中に折れないものがある。
小夜はしばらくその背を見ていた。
この姫は、強い。
吉法師のそばにいる自分を、ただ邪魔な虫として払うでもなく、かといって甘く見るでもなく、きちんと見た。
そこが厄介で、そして少しだけ気に入らなかった。
「ほんと、面倒……」
小夜は誰にともなく呟く。
だが、その声には少しだけ笑いも混じっていた。
風が吹き、松の枝が鳴る。
帰蝶はもう廊下の向こうへ消えている。
それでも庭には、まだ二人の言葉の余熱だけが細く残っているようだった。




