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尾張のうつけと呼ばれ、家臣にも見放されかけた織田信長だが、実は戦の地形も商いの流れも人の本心も見抜く戦国最強の天才でした 〜蝮の娘と忍びに振り回されながら天下布武を目指すラブコメ戦記〜戦国異聞伝〜  作者: 常陸之介寛浩✪書籍・本能寺から始める信長との天下統一
第二章 尾張放浪編 ― うつけ、世を知る

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第56話 忍びと姫

「そこにいるのでしょう」


帰蝶がそう言った時、庭には風の音しかなかった。


夕方の光が少しずつ薄くなり、白砂の明るさも昼ほどではない。松の枝が風に揺れ、その影が石の上をゆっくり滑っていく。那古野城の庭は整っている。整っているが、だからこそ、そこへ紛れようとする気配はかえってよく分かる。


帰蝶は廊下の端に立ったまま、振り向かなかった。


「隠れるなら、もう少し上手くなさいな」


少し間があってから、植え込みの影がわずかに動いた。


音もなく、一人の少女が姿を現す。


町娘の格好をしている。

だが、その立ち方が違う。

足が軽い。

目が止まらない。

そして何より、隠れることに慣れた者の体の使い方をしている。


帰蝶は、そこでようやくそちらを見た。


「やっぱり、あなた」


少女――小夜は、少しだけ眉を寄せた。


「最初から気づいてたの」


「来ると思っていたわ」


帰蝶は涼しい顔で言う。


「人のそばにあれだけぴったり張りついていて、何も見に来ない方が不自然でしょう」


小夜はその言い方に少しだけ引っかかりを覚えたが、顔には出さなかった。


この姫は、やはり強い。

ただ気が強いのではない。

相手が何者かも測らずに言葉を出す人ではない。


「何か御用?」


小夜が訊くと、帰蝶は小さく笑った。


「それは、こちらの台詞」


帰蝶は廊下から一段下り、庭石のそばまで出る。

姫が自分から距離を詰めてくるのを見て、小夜は少しだけ意外に思った。もっと遠くから人を動かすタイプかと思っていたのだ。


「名は?」


帰蝶が問う。


小夜は一瞬だけ迷ったが、隠しても仕方がないと思った。


「望月小夜」


「望月」


帰蝶はその姓を小さく繰り返す。


「いかにも忍びらしい名ね」


「そっちは、隠す必要もないでしょう」


「帰蝶よ」


その言い方は、名乗るというより、確認させるだけの響きだった。


小夜は頷く。


「知ってる」


「でしょうね」


短い会話なのに、どちらも一歩も譲らない。

庭の空気は静かなままなのに、言葉の端だけが細く張っている。


帰蝶は小夜を見た。


町娘の顔をしている。

だが、ただの町娘なら今ここへこうして現れたりはしない。

あの吉法師のそばにいて、あの若殿の無茶へ呆れながらついていくような娘が、普通であるはずがなかった。


「あなた、あの人のそばにいるのね」


帰蝶が言う。


小夜は肩をすくめた。


「見張っているだけ」


「見張りにしては近い」


すぐに刺される。


小夜は一瞬だけ目を細めたが、すぐに言い返した。


「姫様こそ、ずいぶん気にしてる」


帰蝶の口元がわずかに上がった。


「気になるもの」


「素直ね」


「あなたにだけは言われたくない」


その返しに、小夜は少しだけ息を漏らした。

この姫は、言葉を受けて引かない。

しかも、ただ強いだけではなく、ちゃんと楽しんでいる。


「で?」


小夜が言う。


「私は何を答えればいいの」


「別に、何も」


帰蝶はそう言って、庭石へ軽く手を置いた。


「ただ確かめたかっただけ。あなたが、あの人の外側をうろつく程度の娘なのか、それとももっと近いのか」


小夜は黙った。


その沈黙だけで、帰蝶には十分だった。


近いのだ。

少なくとも、自分よりは。


帰蝶はそれを認めたくないわけではなかった。

ただ少しだけ、面白くないと思った。


自分は尾張へ政として入ってきた。

吉法師を見ている。

あの家中の揺れを見ている。

だが、それはまだ外からだ。


この忍び娘は違う。

吉法師のそばへ自然に立ち、町を歩き、喧嘩を見て、怪我まで見ている。

あの男の内側を、もうこちらより多く見ている。


その差が、帰蝶には少しだけ気になった。


「あなた」


帰蝶が静かに言う。


「吉法師様のことを、どう見ているの」


小夜は少しだけ考えた。


どう見ているか。

変な男。

危ない男。

面倒な男。

放っておけない男。


言い方はいくつも浮かんだが、そのどれをそのまま姫へ渡す気にはなれなかった。


「変な人」


結局、いちばん軽いものを選ぶ。


帰蝶はすぐに笑った。


「それは知ってる」


「じゃあ聞かないで」


「変なだけじゃないでしょう」


小夜は、その言葉には答えなかった。


答えなかったこと自体が、答えになってしまう。

帰蝶はそこを見逃さない。


「やっぱり」


「何が」


「見張ってるだけじゃない」


小夜は、今度こそ少しだけ不機嫌そうな顔をした。


「姫様は、人の言葉を素直に受け取らないのね」


「戦国の姫が、いちいち素直でいられると思って?」


その返しは、小夜には少し新鮮だった。


ただ気が強い姫なら、「私はそういうもの」と言うだろう。

だが帰蝶は「戦国の姫」という言い方をした。

自分がどういう立場に置かれているかを、ちゃんと分かったうえで喋っている。


この人は、政略の駒で終わる人ではない。


小夜はそのことを、ここで初めてはっきり理解した。


吉法師にとって、この姫はきっと大きい。

ただの婚姻相手でも、気の強い女でもなく、今後ずっと視線を交わす相手になる。

そんな気がした。


「あなたも」


小夜が言う。


「ただのお姫様じゃないのね」


帰蝶は少しだけ目を細めた。


「褒めてるの?」


「半分」


「残り半分は?」


「面倒そう」


その答えに、帰蝶は小さく笑った。


「それはお互い様でしょう」


たしかにそうだった。


しばらく、二人の間に沈黙が落ちる。

だが居心地の悪い沈黙ではない。

互いに相手を測り終え、次にどこまで踏み込むかを決めかねている沈黙だった。


やがて帰蝶が、ふいに柔らかい声で言った。


「あなた、あの人のこと嫌いじゃないでしょう」


小夜は、その一言に少しだけ黙った。


ほんのわずかな沈黙だった。

だが帰蝶には十分だった。


小夜自身も、その沈黙で気づいた。

否定しようと思えば、すぐできたはずなのだ。

「嫌いよ」と笑って返すこともできた。

なのに一瞬、言葉が止まった。


帰蝶は、それを見て口元を上げる。


「やっぱり」


小夜はむっとした。


「姫様こそ、ずいぶん楽しそうね」


「面白いもの」


「何が」


「あなたも、あの人も」


その言い方が癪で、小夜は少しだけ視線を逸らした。


帰蝶はその様子を見て、さらに少しだけ笑う。

勝った、というほどではない。

だが、この忍び娘の心が完全には冷たくないことを知れただけでも、十分に面白かった。


「安心したわ」


帰蝶が言う。


「何が」


「あなたが、ただの目だけの娘じゃないって分かったから」


小夜は眉を寄せた。


「どういう意味」


「本当に何も思っていない者は、もっと残酷に見られるもの」


その言葉に、小夜は少しだけ言葉を失った。


たしかに、そうかもしれなかった。


帰蝶はそこでもう十分だと思ったのか、くるりと踵を返した。


「また会いましょう、望月小夜」


「……できれば遠慮したい」


「無理でしょうね」


帰蝶は振り向かずにそう言った。


廊下へ戻るその背中は細い。

だが、その細さの中に折れないものがある。

小夜はしばらくその背を見ていた。


この姫は、強い。

吉法師のそばにいる自分を、ただ邪魔な虫として払うでもなく、かといって甘く見るでもなく、きちんと見た。

そこが厄介で、そして少しだけ気に入らなかった。


「ほんと、面倒……」


小夜は誰にともなく呟く。


だが、その声には少しだけ笑いも混じっていた。


風が吹き、松の枝が鳴る。

帰蝶はもう廊下の向こうへ消えている。

それでも庭には、まだ二人の言葉の余熱だけが細く残っているようだった。

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