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漆黒の英雄

 “王子様”だなんて、そんな都合のいいヒーローはお伽噺の中にだけ存在を許された自分なんかには到底手の届かない高嶺の花だと思っていた。

 何時か私を迎えに来てくれる、だなんてメルヘンチックな願望なんて持った事は無かったし、まして自分がお姫様になれるだなんて夢にも思わない。だってシンデレラも白雪姫も、自分なんかよりずっと綺麗でお淑やかだったから。



 ―――嗚呼、あの物語の結末はどうなったんだっけ。






 取り留めの無い思考ばかりが頭を過るのは、きっとこのイレギュラーな出来事に対する無意識の現実逃避という、彼女なりの小さな抵抗なのだろう。

 それでも止む事のない爆音が、無情にも彼女の意識を現実へと繋ぎ止める。



 ―――ドン、ドゴォオオオオオン!!!



 前に進むのと比例して徐々に大きくなる銃声と何らかの破壊音は、彼女の意思とは無関係に肩を竦めさせた。

 決して保守的ではない彼女のポジティヴな本能でさえ、逃げろと煩く警鐘を鳴らしているのが分かる。それを無視し続けるのは容易な事ではないが、今は本能を噛み殺してでも独りになりたくはなかった。


 レイは改めて前を走る自分を導く女性―――そういえば名前を聞きそびれてしまった―――を見遣る。

 すっきりと一つに纏められた夕陽を連想させるようなカーディナルレッドの長い髪。そして先程も自分を覗き込んだ優しげな琥珀色の双眸。その暖かな暖色系で彩られた風貌が彼女の人柄と関連しているとは限らないけれど、今は彼女しか頼れる者が居ない。

 レイは決して彼女を見失わないよう、必死に目を凝らした。


 それにしても、だ。




(何時まで―――走ればいいのよ……っ!)



 一日の運動量の平均を裕に超えた走行距離と、得体の知れない恐怖が相俟って限界まで高鳴る心臓を必死に宥めながら、レイは自らの唇を強く噛み締めつつ一心不乱に走り続けた。



 それからどのぐらい経ったのだろうか。頭の芯が痺れてまともな神経はとうに麻痺していた為、時間の感覚なんてものは既に無いに等しい。

 長いポニーテールを揺らしながら目の前を優雅に滑走する紅い髪の彼女は、突如スピードを緩め、未だ疾走を続けるレイの腕をやんわりと掴んで留めた。

 彼女はつい先程まで長距離を走っていたにも関わらず、息一つ乱さずに呼吸を制すと、ゆっくりと此方を振り向く。



「着いたよ。此処から先は、決して私の傍を離れない事。―――いいわね?」



 そっと囁かれたその声は、先程までの耳に心地良い優しげな声ではなく、子供に厳しく言い聞かせる母の様な口振りだった。


(此処から先は、命の保証は無いって事ね……)


 彼女の言葉の真意を理解し、レイは肩で息をしながら静かに頷いた。







「――――…」


 文字通り息を殺して住宅の角、即ち相手側から見れば死角になるであろう位置から慎重に辺りの様子を伺う。


 此処は街の中心部に当たる広場であり、夕刻レイが美しい噴水に見惚れていた場所である。だが今目の前にある広場は、その造形美など見る影もなく、容赦なく破壊の限りを尽くされていた。


 広場の中心に立てられたモニュメントは何らかの熱によって歪み、最早原型を留めていない。数分前まで花壇の中で綺麗に咲き誇っていた色とりどりの花も、今は爆風によって全て萎れてしまっている。

 銃弾により穿たれたコンクリートで出来た噴水の壁は、あちこちに亀裂が入って一部が瓦解し、それによって自由を得た水が道なりに従って大きな染みを広げていく。所々透明な水溜りに混じる実に生々しい紅は、レイの背筋を凍らせるのに充分な光景だった。



「酷い……」



 この短時間で、同じ場所の景色がこうも変わるものだろうか。元が美しいもの程壊れれば無残だというが、その理屈は強ち間違いでもないようだ。


 レイは只々、この異様としか言えない光景に息を呑んで立ち尽くした。


「気をしっかり持ちなさい。大丈夫よ、あの子―――アルが居るもの」


 不意に優しく肩に乗せられた暖かな手は、勿論隣に立つ彼女のものである。

 今の自分はそんなに酷い表情(かお)をしていたのだろうか、とレイは思わず両手で自分の頬を覆った。


 先程声を掛けられた事で多少冷静さを取り戻すと、噴水(だったモノ)を挟んで人影が二つある事に気付いた。

 一人は白い半ズボンにこげ茶色のコートを着た小柄な少年―――顔は大きめのニット帽を被っている為良く見えない―――と、もう一人は鮮やかな群青色をした、中世ヨーロッパの軍服に似た漆黒のマント付きの服を着た黒髪の青年である。

 二人は睨み合ったまま微動だにせず、終始張り詰めた空気が伝わって来る。どうやら今は膠着状態の様だ。


 隣に居る彼女の視線を追う限り、後者が「アル」という人物なのだろう。

 ではあの黒髪の彼が、彼女の言う“もう一人の王子様”―――?



「何だ、まだ人間が居たのかよ」



 考えに没頭していたレイは、少年の憎悪の籠った声音でハッと我に返った。気付けば、帽子の少年は射るような鋭い視線で此方を睨んでいた。

 初めて生身で感じる。これが、“殺意”というものなのだろうか。


「隠れても無駄だぜ。人間の気配なんて直ぐに分かる」


 続け様に紡がれた少年の言葉には、暗に“出て来い”という意味が込められているのだろう。


 レイはごくりと生唾を飲み込み、恐怖からゆっくりと一歩後退した。

 体が小刻みに震える。何しろその声には聞き覚えがあったのだ。



 忘れる筈もない、先程人間を“殺す”と言っていた、あの少年の声―――。




 ―――ドンッ!!


 突如緊迫した空気を引き裂く、鋭い銃声。撃ったのは、「アル」と呼ばれていた青年だった。


「余所見をするとは余裕だな。貴様の相手は僕だろう」


 冷静な口調でそう言い放つアルを、少年はキッと睨んだ。先程の銃弾が頬を掠めたのだろう、頬からは血が一筋流れ出ている。少年はそれをペロリと舐め取り、ニヤリと口角を上げた。


「フン、人間風情に本気なんて出す訳ねぇだろ。慌てなくてもお前は後でじっくり殺してやるよ」


 くつくつと嗤う少年を見て、レイは身を強張らせた。嫌な汗がつ、と背中を這うように伝う感触が、冷たいナイフで背筋をなぞられるような不快感を与える。



(どうしよう、あの少年は私を先に始末する気だ―――)



 早鐘のように煩く鳴り響く動悸を鎮められる訳もなく、しかしレイは気丈にも拳を強く握り締めてその場に踏み留まった。



“大丈夫よ、あの子―――アルが居るもの”



 夕陽色の彼女の、その言葉だけを支えにして。






「おい、お前」

「―――え、わ、私!?」


 何とも張り詰めた居心地の悪い緊張感の中、アルはややぞんざいな物言いで唐突に口を開いた。少年から片時も視線を逸らさずに声を掛けた為、それがレイに向けられた言葉だと気付くのに些か時間が掛かったのか、レイは一拍遅れて返事を返す。


 そんな彼女の様子に大仰に溜息を吐き、アルは不機嫌さを隠そうともせずに続けた。


「何故わざわざ戻って来た。さっさと逃げればいいものを……折角僕が足止めしてやった時間と労力を無駄にする気か」


 怒られた。

 何か物凄く理不尽な気がするのは気の所為なんかじゃない。

 私は連れて来られただけよ!、というレイの真っ当な主張は声にはならず、ぱくぱくとただ空気のみが虚しく口から洩れていく。


「まぁまぁ、そう怒らないでよアル。私が連れて来たのよ―――この子を一人にしておく訳にはいかないでしょ?」


 隣に立つ彼女のフォローによりある程度納得したのか、アルはそれ以上何も言わなかった。

 状況に見合わない暢気とも取れる雑談に苛立ったのか、業を煮やした少年はダンッと思い切り地に足を踏み締めて声を荒げる。


「ごちゃごちゃ五月蠅ぇなぁ。全員仲良くあの世に送ってやるから安心しろよ―――ティエ!!」


 少年が何かの名を叫んだ直後、腹の底に響くような地響きが辺りに木霊し、目の前で地面に亀裂が走った。割れた地の底から姿を現したのは、信じ難い事に都心の高層ビルと張り合える程の巨大な大蛇だった。

 “ティエ”と呼ばれた大蛇は、その雪のように真っ白な巨体をうねらせてアルを自らの胴体へと巻き込む。


「アル!!!」


 直ぐ隣から聞こえた悲鳴に近い叫び声。白いとぐろの中心から微かに洩れ聞こえる骨が軋む音。少年の勝ち誇ったような高笑い。それらが重なって凄惨な不協和音を奏で、気を失いそうな強い眩暈が再びレイを襲う。



「さて、邪魔な奴は静かになったし―――まずはお前からだ」



 カツン、と乾いた音を響かせながら、少年はゆっくりと此方に近付く。手に持っていた弓を滑らかな動作で引くと、武器を持たない最も無防備だと思われるレイに狙いを定めた。


「くっ!」


 紅い髪の彼女は、背負っていた大剣―――それは長身の彼女の背丈よりも大きい見るからに重厚そうな武器―――をスラリと抜くと、レイを護るように前に立ちはだかる。


「邪魔だな、退けよ」


 少年がそう一言吐き捨てると同時に、見開かれた双眸がギラリと不気味な光を帯びた。

 すると近くに生えていた木が突如ミシミシと音を立て始めたと思った刹那、凄まじい勢いで幹が傾き、そのまま彼女目掛けて圧し掛かるようにして倒れ込んだ。

 次の瞬間、ズドン、と派手な音を立てて土煙が上がる。


「きゃああああああっ!!!!」


 次々と起こる非常識極まりない状況に着いて行けず、レイは只悲鳴を上げる事しか出来ない。

 ガタガタと震える全身を両腕で押さえ、堅く目を瞑って必死に自我を保とうと身を縮こまらせた。肌理細やかな肌に食い込む爪でさえ、恐怖心で満たされた今の彼女には痛みとして認識される事は無い。


「何よ……何なのよ……信じられない―――!」


 こんな事はありえない。つい数十分前まで謳歌していた平和な日常は一体何処へ行ったのか。お父さん、お母さん、瑞希……。

 走馬灯のように次々と脳裏に過ぎる見知った顔が、レイの透き通った蒼い瞳を涙で濡らしていく。


 ―――誰か、誰でもいい、これは悪い夢だと言って―――!


 レイのそんな想いも虚しく、現実は容赦無く彼女を追い詰める。

 突如フッと目の前が陰り、ざわざわと葉が擦れる音に混じって人の気配がした。目を開けずともそれが誰なのか分かり、胃が氷を飲み込んだように冷たくなるのを感じる。



「観念しろよ、もう誰も助けてくれる奴は居ないぜ?」



 呼吸すら忘れてゆっくりと瞳を開ければ、やはり目の前に立っていた少年が、至近距離で弓を構えていた。この距離から射られたら一溜まりもない。初めて味わう死の恐怖に、レイの頭は否応なく真っ白になった。


 確実に追い詰められるレイに更に追い討ちを掛けるかのように、少年は楽しむような弾んだ口調で残酷な事実を告げる。


「この弓は特別製でな、僕の妖力を吸って最大通常の十倍まで威力を高められる。人間のヤワな身体なんて簡単に風穴が開くぜ……ククク」


 さぁっ、と自らの血の気が引く、潮騒に似た音を聞いた気がした。

 無意識に拳を握り締めるものの、地面の砂を掴むだけで思うように力が入らない。逃げなければと頭では理解しているのに、全身が金縛りにでもあったかのように動く事が出来ないのだ。

 極度の緊張と恐怖で止む事を知らない鼓動は、人が一年間で刻む平均的な鼓動の数に換算するならばこの一日だけでもう何年分の寿命を使い果たしただろうか。



 ゆるゆると海底に沈んでいくような定まらない意識の中、キリ、と弓を引く音だけがやけに鮮明に耳に残った。

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