暗黒の闇に染められし街
『―――貴女に、わたくしの国を救って欲しいのです』
夢の中で出会った儚げな彼女の願いと、その悲しげな眼差しから目を逸らせなかったのは紛れもない自分なのだけれど。
彼女の纏う服は、自分なんかが一生着ることを許されない清楚な真っ白いドレスだった。絶対に不可能だと感じていたにも関わらず、幼いその手を包む純白のレースを掴んでしまった自分。
(私があの子を救えるなんて思ってない。でも、私がその手を握るだけで―――あの子の不安が少しでも取り除ければ)
己が聡明でないことなど何年も前から知っている。だからこそ、彼女は心の動くがままに行動をするのだ。
それが―――浅倉レイという人間なのだから。
「―――ん……」
薄い吐息を漏らせば、レイは重い瞼を持ち上げようと試みる。決して寝起きが悪い訳ではないが、まだ意識は定まっていない様子でなかなか動く気配がない。しかし先刻までの出来事を朦朧とした頭で巡り返し、はっと驚いた様に思い切り瞳を開眼させた。
「わ、あ、あれ? あの子が、居ない……」
夢だと思っていた出来事を目の当たりにし、レイは一度混乱する。だが持ち前の前向きさと深く考えないそのお手軽な脳が、レイを今まで―――実際今も、そしてこれからも支えていくのだろう。
辺りを見回してみたのだが、自分を誘った彼女―――名前は聞いたが、一度では覚えられなかった―――が居ない。視覚と嗅覚を頼りに辺りの風景や空気の違いを、そして痛覚で自分の頬を抓り、とりあえず此処が夢の中ではないのだ、と確認する。しかし同時に―――此処が元居た自分の部屋ではない、ということもレイは悟った。一体此処は何処なのだろうか、すっかり座り込んでいたレイはゆっくりと立ち上がり、衣服についた砂埃を両手で軽く払う。そこでひとつ気付いたのは、自分が学校指定の制服姿のままだった、ということだ。
(あちゃー……そういえばセーラー服のまま寝ちゃったんだっけ……)
学校であれだけ寝ていたにも関わらず、レイは自宅に到着した直後、何者かに誘われるかの如く床に就いた。もしかしたらそれは純白の少女が自分を呼んでいたからなのかもしれない―――自分の睡眠不足を彼女に押し付けて納得すれば、レイは力強く地を踏み締めた。
少し歩き出してみると、大きく開けた道に出た。同時にそこが建物の中ではないことも理解する。石で出来た地面や壁を見遣って建物の可能性を捨てなかったのだが、これは完璧に住宅街と呼んで正解だろう。未踏の地にやってきた外国人のように―――実際その表現はあながち外れではないのだし―――レイはキョロキョロと目まぐるしい住宅街を見回した。茜色の空を仰げば、空はまだ自分を見守ってくれているんだと、微笑みながら安心する。
まずは此処が何処なのかを把握せねば。レイのそんな意気込みを知ってか知らずか、ふと目についた洋風の街灯に視線を遣れば、そのレイ好みのシックな造りに感動を覚える。そしてその街灯の下、小さな看板に文字が書いてあるのが分かった。
「―――読めない!!」
読めなかった。
やはり此処は外国なのだ、レイは悔しながらに納得して、信じられない、と落胆の言葉を漏らして肩を落とす。
あの純白の少女はあからさまに日本人ではなかったのだから、そんなことは分かっていた。自分の歩く住宅街を道なりに眺めてみても、その蒼眼に映るのは赤茶色の煉瓦で出来た、同型の豪邸の連なりばかり。その間に折り込まれている壮大で、嘘のように真白く、そして上部に存在する柱下の鐘が鳴らす神秘的な音が聞こえてくれば―――きっとそこは神に仕えし者達の大聖堂か何かなのだろう、とレイは悟る。正に造形美、レイの知識の中で例えるならば、きっとそれが最高で最大に正解に近い言葉なのだろう。
先程から歩く、曇り空を映し取ったような灰色の石畳だって、日本でならば今はもう余り見ることが出来ないのだ。ハーフという身でありながらも生まれも内面も日本人なレイにとっては、全てが初めての光景ばかりだった。
しかし彼女は浅倉レイ。物珍しさに心を踊らせ、住宅街の中心街だと思われるそこに勘のみで辿り着いてしまう。これまた壮大で、清楚に優雅に流れ出る噴水に興奮し、表情を明るめて迷いなく近付く。順応の早さはとことん彼女のステータスである。
「―――住宅街に噴水……素敵だよ……!!」
自分の置かれた現状に屈することなく握り拳を両手に携えて、彼女は間違った方向に進み続けるのだろうか。己の背丈を優に越える噴水を見遣るレイは、悦にも似た表情を絶えず振り撒いてその場に立ち尽くした。
―――それから少しして。
彼女はやっとのことで、ひとつだけ非常に重要なことに気付いた。本来ならばもっと早く気付いていても良かったことなのだが、何故こんなにも遅くなってしまったのか。答は言わずもがなレイが途中から浮かれ始めたからなのだが、それにしたってその浮かれた彼女を宥める誰かが居ても良かったのではないか、―――そう、誰かが。
「この街……どうしてこんなに静かなのかしら……」
誰かが宥めなかったのは、そこに誰も存在しなかったから。
悠然と建ち並ぶ建物等があったとしても、それを利用する人々が見当たらないのだ。壮大で美しく豪勢で豪華な豪邸に、誰一人として人影も、気配すら感じられない街である。綺麗な故に不可思議で、静寂が故に不気味なのだ。
そう思えば途端に背筋が肌寒くなるのをレイは感じた。この街は決して、居て楽しくなる街なんかじゃない―――ただ美しいだけなのだ、と。
(誰も居ない街なんて……一体……)
空はいつの間にか闇に飲み込まれていた。徐々に包まれる夜の気配に鼓動が高まるのが分かったが、今は慌てて泣き叫ぶ訳にもいかない。今が夜になったのは何時までもそこに居尽くしていたのだから当たり前だ、しかし人気のないその街で夜を迎えてしまったことに、レイはほんの少しだけ後悔する。せめて明かりでもあれば―――月明かりだけでは限界があるというものだ、そんなレイの頼みを受け入れたように、先程その造りに感動を覚えたあの街灯に明かりが灯った。今その街灯に抱く想いは、決して嬉しいものではなかったが。
自分が中心街に居るのは分かっているのに、どうやって此処を出ればいいのかが分からない。茜空の内に行動をしなかった自分に怒りを覚えるけれど、他人ならともかく―――それもどうかとは思うが―――自分を責めてどうするのだ。不覚にも抜かしそうになる腰に右手を当てて、レイは深々と溜息をついた。
―――その時。
『―――さ』
(!?)
何処からか、声が聞こえてきた―――気がした。レイの耳に聞こえたそれは本当に微かで、もしかしたら葉のざわめきか何かを勘違いしたものかもしれない。しかし今のレイにはそれを葉のざわめきで片付けられる程、余裕も平常心も存在しない。なんだって良い、この恐怖を鎮めてくれる何かが欲しい。
レイは勇気を振り絞って下唇を噛み締め、先程声がしたと思われる方へと慎重に歩き出した。明らかに恐怖が勝ることになるが、あの場所に立ち止まることに比べればずっと良い。立ち止まることで訪れる恐怖に恐怖しつつ、レイは一心不乱に前だけを見て歩き続けた。
『―――だから、―――だろ?』
(やっぱり……! 誰か居るんだ……!!)
そこに近付くに連れて鮮明になっていくその声。感じている恐怖に打ち勝つ勢いで、レイは表情を綻ばせた。
しかしまた気になることがある。歩む度に聞こえてくるのは自分よりも若干幼い少年のような声、何故静寂しかないこの街に―――この少年は居るのだろうか? そしてもうひとつ、近付けど近付けど、聞こえてくるのは少年の声が点々と一人だけ。
一体、彼は誰と話しているのだろうか?
「分かったか? “人間”が居るらしいから、ちゃんと見つけんだぞ」
随分と鮮明に聞こえるようになった。レイと声との距離が相当縮まった証拠だろう。恐らく声の主は、この曲がり角を曲がった先に居る。それはきっと間違いない―――だがしかし、今聞こえた言葉に思わず歩む足取りを停止させた。曲がり角の壁を背に向け、レイは角を覗くことなく耳を傾ける。
「何だ、見つけたらどうするかって……? お前、そんなことまで僕に聞くのかよ、そんなの勿論―――」
その声の意味を考える限り、“人間”が此処に居てはいけないということなのだろうか。居てはいけない場所だからこそ、此処はこんなにも沈静としている。
―――レイがその意味を理解した時、非情な言葉が彼女の理解を真実へと誘った。
「―――“殺す”に、決まってるだろ?」
「な―――」
入ってはいけない場所に居るのだから、残された事柄は不正要素の抹消。則ち、今此処はレイにとって危険を遥かに超越した場所になっている、ということだ。
つい悲鳴を上げそうになったのを両手で制するも時は既に遅し。姿すら確認していない相手の会話がピタリと止み、気配を伺うような静寂の空気が辺りに充満する。
「……何だ、別に見つける必要はなかったのか」
深々と吐息を吐き出す音と、同時に聞こえたカツンという渇いた足音。
(やば……こっちに来てる……!)
口許を押さえた手を握り締めて、焦燥感を募らせる。相手は自分よりも幼い少年のはずなのにも関わらず、レイはそこから一歩も動くことが出来なかった。何故動けないのか、それはレイにも分からない。だが何故かは分からなくとも、今自分は此処を動いてはいけない、この角の向こうを見てはいけない―――そんな脳内の警告を無視するなんてこと出来る訳がなかったのだ。不穏な空気を醸し出す街角の先を背に、レイはピクリとも動かずに立ち尽くした。頬を伝う一筋の汗すらも微かな音となって聞こえてしまうのではないか、そんな不安に駆られながらも、微動だにせず―――。
「―――見つけた」
閑静な街に、透き通った音声が響き渡る。
逃げろ―――!
次に発せられた脳裏の警鐘にレイが走り出そうとしたその時、ふと視界に障害物が現れた。焦燥する感情のまま走り出したレイにはそれを避けることが出来ず、初速をそのままにそれに衝突する。
(ま、回り込まれた……!?)
―――“殺す”に、決まってるだろ?―――
(殺さ、れる……?)
衝突したそれの感触は―――確実に“人”だった。始めはそこになかったのだ、動く何かだというのなら、感触も相俟って“人”である確率が限りなく高い。
先程から慌ただしくフル稼働する脳。そして聞こえてくる、危機を伝えるリフレイン。恐怖を越えた恐怖に声すら発することが出来ず、レイはふらふらと二歩、ゆっくりと後退る。
「あ……あ―――」
死の覚悟までした―――
「しっ。静かに」
―――はずだったが。
ふと目の前からした声は、先程聞いた少年の声とは違っていた。どう聞き間違えても、その声は麗しい女性の声。焦燥感に捕われていて気付かなかったが、目前からは先程までの不穏な空気―――緊迫感は感じられなかった。それに、もうひとつ。
『見つけた』
己の心臓を跳ね上げたその台詞も、―――よく聞けばあの少年の声ではない。少年というより青年、そして少年のように楽しむ口調でなく、囁くような冷静な口調。透き通ったリフレインを脳裏に携えて、レイはポカンとその場に立ち尽くした。
「うん、向こうも上手くやってくれたみたいだね」
目の前の“人”―――建物の影で何も見えないが―――は街の先を一瞥し、伺う様子で暫く辺りを見回せば、
「こっちだよ」
そう優しげな声音でレイの手を取って、そちらとは別の方角に移動を促した。重心すら疎かとなりつつあった足は促されるままに動き出し、引かれる手を一心に見つめながらレイは歩き出す。停止していた思考回路がやっとのことで復旧したのか、レイはゆっくりと顔を上げて前を行く相手の後ろ姿を見遣った。
(他に……人が居たんだ……)
恐怖、歓喜、安堵―――数々の感情が身体中を渦巻いてレイ自身を侵していく。一人きりだった状態からのこの温もりは、目許が緩んで涙腺すら溶かしてしまいそうな温もりで。がら空きになっている左手の甲で、今は暗闇に曇るサファイアの瞳を拭った。
――――
「君、大丈夫だった?」
「あ、えと、はい。ありがとうございます!」
不穏な空気が完全に消え去ってから、閑静、だが豪勢な街並にマッチする金属製ベンチに座り込むレイ。その横に颯爽と立ち尽くす街灯が、三度見るそれに反して心強く思えた。
明かりに照らされて声に目を向ける。優しそうだと感じたその声同様、その人―――彼女は優しそうな琥珀の双眼をこちらに向け、覗き込むようにして自分を見ていた。
何に対しての感謝なのか考えてしまえば分からないのだが、レイは彼女に溢れんばかりの感謝の念をぶつけた。彼女も彼女で全てを汲み取ってくれたのか、何も言わずにふわりと微笑んでくれたのだった。
「此処も“死行く廃墟”になりつつある街だから、夜は立入禁止なんだよ?」
知ってるでしょ? ―――彼女がそう続けたのはそれから直ぐの事。聞いたことのない単語の混じった彼女の発言に、レイは終始クエスチョンを浮かばせた。
「ライフレス、タウン?」
「え、―――まさか、知らな―――」
―――ドゴォオオオオン!!!!
怪訝そうな瞳を向けられ告げられた言葉は、地を乱すその響きに掻き消される。
揃って向けられた視線はほぼ一致。紡ぎ損ねた言葉を飲み込んで、彼女は視線を下げぬままぽつりと呟いた。
「まさか戦闘になるなんて……アルったら―――」
そんな独り言を横流しに聞くレイは、何度か繰り返される地響きに再び心臓が跳ね上がるのが分かった。
一体今此処で何が起こっているのか―――? レイが答えにたどり着くことは未だない。一人たどたどしく心臓を跳ね上げていれば、再びこちらに視線を戻した彼女の真剣な視線が飛び込んできた。
「君、一人で大丈夫?」
「……え?」
全然大丈夫じゃない。これだけは自信を持って言える。
そんな意思を込めた視線で理解してくれた様子の彼女は、再び地響きに視線をやり、浅く、しかし何やら決心強く頷いた。
「―――君、一緒に来て」
そう、レイの手を取りながら。
すかさず走り出した彼女の足は想像以上に速く、足を縺れさせないようにするのが精一杯だった。スピードに乗ってきたのが分かったのか手を離され、闇夜を滑走する不可思議な状況に混乱するレイ。
「あ、あの!」
「ん?」
「何処に、行くんですか……?」
一人にされるのは勿論嫌だが、息が切れる前に其れも聞いておきたい。其の事柄を簡潔に尋ねれば、彼女は素早い動きをしているとは思えない程柔和で爽やかな笑みをレイに向けて告げる。
「あの崩壊音の場所、だよ」
地響きの元―――何故そんな場所に……? 一瞬眩暈に襲われたが、レイは気丈にも走り続けて前方を見た。
「でも、ネガティヴに考えちゃ駄目だよ? 気分まで呑まれたら動きが疎かになっちゃうからね」
「え……?」
「そうだな、ポジティヴに言い換えるなら―――」
レイに彼女も前方を見据える。先程には見せなかった強気な笑み、口許を綺麗につり上げてみせた彼女は、続けざまにこう言った。
「―――君を助けた、もう一人の“王子様”の元に」
不思議にも凜と響いたその言い回しに、レイは再び彼女を見る。彼女の自信に満ち溢れた表情と相俟って、レイの眩暈は不思議と消え去っていったのだった。




