終わりと始まりの空は紅
辺りに浮遊し、肌に纏わり着く真っ白な霧。何時かテレビの特集で見たダイヤモンドダストに似た小さな水の粒子は、柔らかな光を反射して時折金色の光を放っている。
現実らしからぬ幻想的な光景にも不思議と違和感を感じないのは、恐らく夢の中だからだろうと、嫌に冷静な思考が頭を過った。
辺りを見回してみるけれど、真っ白な霧以外は何も見当たらない。遠近感が狂ってしまいそうな果てしない白い世界に眩暈を覚え、軽く目を瞑る。
何も無い純白の世界で、少女は只々立ち尽くしていた。
(助けて……)
突如聴覚を刺激する、か細い小さな声―――否、聴覚では無い。脳に直接響くような、不思議な声だった。
音源を探ろうと四方に視線を走らせても、その姿は確認出来ない。しかし、頭の中には見知らぬ少女のイメージが流れ込んでいた。パステルカラーの様な明るい黄色の腰まである長い髪。暖かそうなオレンジ色の瞳は憂いを秘め、若干潤んでいる様に見える。
(助けて……わたくしを……、わたくしの国をどうか……!)
胸を締め付けられる様な、必死の叫び。
気が付けば、少女の瞳からは涙が溢れ出ていた。悲壮、苦渋、焦燥、そして僅かな希望。様々な感情が入り混じり、呼吸も儘ならない。まるで彼女の心情とシンクロしているかの様に、苦しかった。
―――誰なの? 貴女は一体……。
――――
「夢か……」
薄くぼやける視界を数回の瞬きで調整し、一人の少女が大きな欠伸をして呟いた。
さらさらと靡く絹糸のように細いセミロングの銀髪。青空を連想させる澄んだサファイアのように大きな瞳。透き通る様な白い肌も相俟って、その色素の薄い容姿から彼女が日本人で無い事は一目瞭然である。彼女は日本人の父とフランス人の母の間に生まれた。つまり、俗に言うハーフ、というやつだ。
浅倉レイ17歳、最近の悩みはここの所毎日の様に見る妙としか言えない夢である。
夢の余韻に浸っている様な心地良い浮遊感に身を委ねるのも束の間。学校の無機質な机は当然ながら寝心地が良い訳が無く、体の節々が緩やかに悲鳴をあげているような、そんな感覚に襲われて僅かに顔を顰める。
次いで窓の外に目を遣れば、今にも地平線の向こうへと姿を消そうとしている太陽が目を眩ませ、思わず目を細めた。同時に、もうそんな時間?、と少し驚く。
既に放課後という事は、一体どのぐらい眠っていたのか。五時限目の授業の終わりがけに、先生が鬼のような形相で“静かにしなさい!”と声を張り上げていた所までは覚えているのだけれど。
「レイちゃん……、随分熟睡してましたけど、疲れてたんですか?」
とことこと此方にやって来るのは、レイの一番の親友である佐久間瑞希。美人で頭もいい、彼女の自慢の友である。
ちくしょう、可愛いなほんと、なんて心の中で呟いて、レイはぼんやりと瑞希を見据えたまま、暢気に頬杖を付いた。
「ああ、大丈夫よ。只、ここの所寝不足でね」
「そうなんですか……顔色が良くないですけど、平気?」
「平気、心配いらないわ」
レイは心配そうに顔を覗き込んで来る瑞希に軽く片手を振りつつニコリと笑ってみせた。彼女は根っからの心配症らしい。そんな彼女を気遣い、レイは出来る限り明るい声音で瑞希の肩を軽く叩いた。
「ほんとに大丈夫だからさ、ほら、私ってば元気だけが取り柄だし?」
「―――それなら、いいんですけど。そろそろ暗くなるし、帰りましょうか」
「そうね」
瑞希の言葉に頷き、思いっ切り伸びをする。
―――妙な夢を気にするのは止めよう。周りに心配掛けるだけだもの。
そう、所詮は夢。そう割り切って思考に区切りを付けた。その判断が吉と出るか凶と出るか。それは神のみぞ知る、といった所だろう。
窓の外には既に一番星が瞬いている。光と闇の幻想的なコントラストは、否応なく目を奪われるものがあるのだと思う。レイは薄いブルウの瞳を細めて、自然の芸術に暫し見惚れていた。
“光”と“闇”は対義語ではなく同義語なのだと、何かの本で読んだフレーズを朧げながらふと思い出す。光と闇は表裏一体。どちらが欠けても成立しないのだという。光あっての闇。闇あっての光。この二つがイコールで結ばれる瞬間があったならば、世界はどのような変化を遂げるのだろうか。
辺りは刻々と、静かな闇に呑まれようとしていた―――。
――――
「…―――きて……起きて下さい」
聞き覚えのあるか細い声に、意識を奪われるように覚醒する。覚醒する、といっても“其処”は現実というには余りにも不安定な空間であった。
そう、昼間夢に見た奇妙な白い空間が、再びレイの目の前に広がっていたのだ。
(何故? 何故またこんな所に居るの。私は何時ものように瑞希と一緒に家に帰って、そのまま疲れて眠ってた筈なのに)
混乱する頭で其処まで思い至ったレイは、ああ、と小さく声を漏らした。
だったら話は簡単ではないか。―――これは昼間の夢の続きなのだ。
「いいえ、夢ではありません」
「―――!?」
突如後ろから、自分の思考を読んだかのような声がした。幾度となく聞いたその声にビクリと肩を震わせ、恐る恐る後ろを振り向けば、其処には見知らぬけれど知っている少女の姿があった。
「夢じゃないって、どういう事なの」
少女の言葉に怪訝そうに眉根を寄せ、慎重に尋ねてみる。夢じゃないと言われても、これが現実とは到底思えないのだけれど。
少女は暫し考えるように沈黙した後、徐に口を開いた。
「正確には、夢と現の狭間です。わたくしは自らの意識を飛ばす事で、様々な人の夢を渡る事が出来るのです」
「つまり、貴方が私の夢の中に入って来ている、と?」
「そういう事ですね」
「し、信じられないわ、そんな話!」
思わず大声で怒鳴ってしまった。だが信じろという方が無理だ。こんなの馬鹿げているとしか言いようが無いではないか。
―――だが、もし。もしも本当だとしたら?
「あ、貴女は一体何者なの?」
レイはごくりと喉を鳴らし、思い切って少女に尋ねてみた(返答が返ってくるかどうかは分からないけれど)。
すると少女は意外にもすんなりと問いに答えてくれるらしく、にこりと柔和な笑みを浮かべつつ片手をスッと胸に当てた。
「わたくしはシャンリー=フォースライトステイシア・レインクォーズと申します。或る一国の王家の娘ですわ」
「……え? は、はぁ」
レイは長過ぎる名前だとか何だとかの反応に困ったのか曖昧な返事を返し、首を傾げたまま固まってしまった。
―――何を言っているのだろうこの子は。王家の娘? という事は、お姫様という事なのだろうか。そもそも何故そんなご立派な方が、こんな所で庶民とダベったりなんかしているんだろう。
様々な疑問が浮かぶものの、夢の中なんだから何でもありなんだと無理矢理結論付ける事にした。そうでもしないと、この状況は明らかに彼女の常識の範疇を軽々と越えていたのだ。
「貴女に頼みたい事があります」
「はぁ、何でしょう」
突如神妙な面持ちで此方をじっと見据える相手に、最早投げ遣り気味に構えるレイ。しかし次にシャンリーの口から出た言葉を聞いた途端、自身の耳を疑った。
「―――貴女に、わたくしの国を救って欲しいのです」
「…………」
余りの事に唖然となって、声も出なかった。そんなレイの心中を知ってか知らずか、シャンリーは泣き出さんばかりの勢いで続ける。
「今、わたくしの国は廃国の危機に瀕しています。大地は荒らされ、人々は希望を失いかけているのです。お願いです、このままだとこの国は―――…!」
「待って、待って頂戴! そういう事は他の人に頼んだ方がいいと思うわよ? 私じゃきっと何も出来ないわ」
レイは慌ててシャンリーの言葉を遮ると、思わず眉間に指を当てた。酷く頭痛がする。何故最近はこうも訳の分からない夢ばかり見るのだろうか。
「いいえ、貴女にしか出来ない事です。わたくしは貴方を選んだのですから―――浅倉レイ」
「な―――…っ、何で私の名前」
「夢の世界からずっと貴女を見ていましたから、名前ぐらい知っています。だけど前々から呼びかけていたのに、レイはちっとも応えてくれないんだもの。此処まで来るのに苦労しました」
言われてみれば、今迄の夢の中の彼女は酷く朧げで、声も最初は小さ過ぎて聞き取れなかった気がする。まして会話をしたのなんか今回が初めてかもしれない。
「レイ、今はまだ信じられなくてもいいのです。どうかわたくしの手を取って下さいませんか」
縋る様な瞳で此方に手を差し出すシャンリーを見ると、流石に良心が痛む。この手を取れば、きっと本格的に非現実の世界に巻き込まれてしまうのだろう、と本能的に悟った。
しかしそれでも、この時のレイはこの小さな手を拒む勇気も理由も持ち合わせてなどいなかった。
―――気が付けばシャンリーの手を握っていた私は、余程のお人好しなのかそれとも馬鹿なのか、はたまたその両方か。
薄い自嘲と共に掠めたそんな思考は、直ぐに止む事になるのだけれど。
シャンリーの黄色い髪がふわりと棚引いたかと思えば、次に凄まじい圧力が全身を襲い、目を開けていられなくなる。ゆっくりと遠のいていく意識の中で、シャンリーの「しっかり掴まっていて下さい!」という声を聞いたのを最後に、レイの意識は完全に途絶えた。
―――非日常への扉は、余りにも唐突に開かれた。自らが鍵だという事も知らずに、少女の長い旅は此処から始まる。




