特別任務、発令
「―――レイさんの様子がおかしい?」
とある雨の日の夜更けの事。
シンビオスホームの最上階に位置する自室にて、クレイはソラから任務報告を受けていた。最近は国の情勢も安定しており、大規模な出動などはめっきり少なくなっている。その為雑多な任務の事後報告も特に問題なく終わるはずだったのだが、後に付け加えられた聞き捨てならない情報に、クレイはすらりとその双眸を開いた。常に仲間の動向を把握しておくのも、上に立つ者としての務めなのである。普段滅多に覗く事の出来ない緑黄を見返し、ソラはキレのある眼光を受け流すように肩を竦めてみせた。
「そ。分かりやすいしな、あいつ」
「それは何時からですか? 出来るだけ詳しくお願いします」
テーブルに肘を付き、組んだ両手の上に顎を乗せたクレイは、難病の症状を訴える患者に問診するベテラン医師のような眼差しで詳細を促し、ソラは思い出すように視線を押し上げると、
「一週間……ぐらい前だ。その頃から異常に残飯の減りが早くてよ、変だと思って暫くキッチン張ってたんだ。したら、レイが持ち出しててな。ま、育ち盛りだし腹減ってんだろうと思って何も言わなかったんだが―――、おかしいのはそれだけじゃねぇんだ」
「といいますと?」
「大雨の日にわざわざ庭園に出てずぶ濡れになって帰って来たり、昨日なんて腕に怪我してたんだぜレイの奴」
「……そうですか」
「ま、何してんだか知らねぇけど、あいつが自分の意思でやってる事なら俺は口出すつもり無かったんだ。けど、流石に怪我されたんじゃなぁ……、なーにこそこそやってんだか、うちのお姫さんは」
ソラは盛大に溜息を零し、隠す事無く滲み出る懸念と共に呟いた。お転婆な妹に手を焼かされている兄のような心地である。それはクレイも同じであるのだろう、神妙に眉根を寄せ、珍しく真面目な顔をして考え込んでいた―――寧ろそういった表情の方が板についている所を見ると、いつものふざけた態度はフェイクなのではないかと疑いたくなるのだが、本当の所は定かではない―――。
レイが不思議な姫君に誘われ、異世界に迷い込んだあの日から、早一ヶ月が過ぎ。
今や彼女の存在はシンビオスにとって不可欠であり、大切な仲間であると同時に家族も同然の親身な関係となっている。そんな彼女が何か危ない事をしているのだとしたら、心配にならない筈がない。それ以前に、ここの所周辺都市の視察に出張っていてホームを空ける事が多く、仲間と充分なコンタクトが取れていなかったのは大きな支障だった。ギルドの長として、外部の治安に目を向けるのは当然の事。それ以上に内部情勢に気を配るというのが、クレイが組織を動かす上での方針であるのだ。何事も本質を見失っては元も子もない。クレイは音もなく席を立った。
「分かりました。報告ご苦労様です。レイさんの件については、此方で様子を見る事にしましょう。無論、貴方にも協力して頂きますのでそのつもりで」
「Yes,My lord.―――了解した」
敬礼を返し、速やかに部屋を後にするソラを見送ってから。
クレイは気配を感じさせない足取りで窓際へと移動した。そのまま冷えた窓硝子に手を触れ、機嫌の悪い夜空を見上げる。現在ランドシークは雨季に突入しており、中々晴れ間の見えない雨の日が続いていた。次々と窓に吹き付けられる雨粒は寄り集まって雫となり、重力に従って地に吸い込まれていく。分厚い雲が僅かな月明かりすら遮り、外は一メートル先も視認出来ないほど見通しが悪くなっていた。この分だと、明日も雨は止まないだろう。
くつり。
何を考えているのか、クレイは意味深に笑みを零し、
「……また、一波乱起きそうですね」
雨音に馴染む静かな声音が、不穏な空に溶け消えた。
「美味しい……!! やっぱり私、ソラリアさんの料理が一番好きだなぁ」
「ははっ、そっか? そう言って貰えると俺も作り甲斐があるぜ」
「流石だなお母さん」
「アルお前は何時だって一言多いんだよ、デザート抜きにするからなコラ」
「今日のデザートは赤桃のゼリーですか。これを食べられないなんて……」
「ああもう、二人とも喧嘩しないのよ。クレイも煽らないの!」
シンビオスの朝は早い。
ホームの大広間では、ソラが作る朝食を待つ幹部が一堂に会していた。シンビオスメンバーの中でも取り分け多忙なソラも、太平の世が続く近頃では以前よりもホームに居る時間が長くなっている。そうして騒がしさに拍車が掛かったシンビオス内では、下らない言い合いをしてサイに宥められるという光景もさして珍しくない日常と化しているわけだが、更に特筆すべきはそんな状況下でも表情一つ変えず黙々と食事を続けているイルのストイックさである。レイはレイでいい加減この騒がしさにも慣れたと見えて、いっそ微笑ましい笑みを浮かべているのだが、しかし先程からいまいち食が進んでいない。無論、誰よりも気に入っているソラの料理が口に合わないという訳ではなく、他に気にかかる事があるように見受けられる。笑い声の絶え間にふと窓の外を眺めたりして、何やら彼女には似つかわしくないアンニュイな気配を漂わせていた。
硝子越しに見える景色。低く垂れ込める灰色の空。
雨は降り続いている。
「……レイさん?」
「うあっ、はい!?」
いち早くレイの変調を察知したクレイが、さり気なく彼女の名を呼ぶ。
焦って取り繕うレイを気遣うように、クレイは綿毛よりも柔らかな微笑みを向けた。
「どうしました。五月蠅かったですか?」
「ああ、いえいえ、違うんです。むしろ私は静かな方が落ち着かないので」
「ならば良かったのですが。……楽しいですか? 此処の暮らしは」
「そりゃ、楽しいに決まってます! 大好きな仲間と一緒に居るのが楽しくないわけないじゃないですか」
「―――そうですね。それは何よりです」
クレイは透き通ったサファイアから目を離すことなく頷いた。率直で素直なレイの想いは、何時だって真っ直ぐだ。だからこそ、彼女の心を歪めるような不安要素を見逃したくはない。見逃してはならないと、そう思う。
そんなクレイの想いを知ってか知らずか、レイは曇りのない眼を一層輝かせて仲間の顔を見渡した。
「皆には、本当にお世話になってますから。だから私、少しでも恩返ししたくて、出来るだけ皆に迷惑掛けないようにって―――アルそれ私のおかず!!」
「食わねぇなら僕が頂く」
「今すっごい良い話してたんだけど全く空気読む気ないよね! 私のだし巻き卵ぉ!!!」
つい先程までのしんみりとした空気は何処へやら、気付けば騒動に巻き込まれてしまうのは何時もの事で。
レイは楽しみに取っておいただし巻き卵(ランナスという品種の鳥の卵らしい)を取り返そうと手を伸ばすも届かず、虚しく響く絶叫。アルスは戦闘となると頼りになるけれど、こういう所はやはり子供ですね、などと爽やかな笑顔になるクレイだったが、口には出さず軽く諌めるだけに留めておく。因みにだし巻き卵はソラが新たに作り直し、レイの機嫌はものの見事に元通りとなる。まだまだ食べ盛りな十七歳、良い話<食欲なレイだった。
「ごちそうさまでしたっ」
「おうレイ、もういいのか? もう少しゆっくりしていきゃいいのに」
そうして賑やかな食事の時間も終盤に差し掛かり。
厨房からひょいと顔を出したソラは、洗い物をしていたのだろう、ハンドタオルで手を拭きつつ片眉を上げた。いつもであれば、食事を終えた後も暫くの間雑談でもしてのんびりしている筈なのだが、今日のレイはやけに慌ただしい。急いで席を立ち、そわそわと落ち着かない様子で視線を泳がせている。
「はい、でも、ええと……、今日は非番だし、お庭に散歩でも行こうかなって!」
「けど、外雨だぜ? 地面も大分ぬかるんでるし、大丈夫かよ」
「へっちゃらですよ。この時期は雨が多いからって、サイファンさんがレインコート誂えてくれたんです。ほらっ!」
自前のネコさんリュックからぶわさっとばかりに取り出されたのは、それはもう素晴らしく少女趣味全開なフリルのたっぷり付いたレインコートだった。
「これ……は……」
「えへへっ、可愛いでしょ? サイファンさんとってもお裁縫上手なんですね!」
「自分では着れないんだけど、一度こういう服作ってみたかったのよ。レイちゃんにとっても似合うと思うわ」
ねー、とか言いながら二人して渾身のドヤ顔をかましている。
何でレインコートがそんなバッサバサしてんの? そもそもフリルって必要? などと次々と疑問が浮かぶツッコミ体質のソラだが、言うだけ無駄というものだろう。早速身支度を始めるレイを見守るサイは、溺愛する愛娘に向けるような眼差しで「私の見立て通りね、凄く可愛いわ!」といった調子で手放しで褒めちぎっているのだから。男性目線から見ると非常にアレな感じのセンスではあるが、本人達が楽しそうなのだからもう何だっていいのではないか。ソラはこれまでの経験から、ここは下手な事は言わずにそっとしておくのが一番だと悟った。慣れとは諦める事である。
そんなこんなでルンルンと擬音が聞こえてきそうなほど気を良くしたレイは、足取り軽く扉へと向かっていたのだが、
「―――浅倉レイ」
「はい?」
呼び止めたのはイルだった。
「怪我の具合はどうだ」
「おかげさまで、もうほとんど痛みはなくなりました。イルジクトさんの薬、すごく良く効きますよね」
「……」
「イルジクトさん?」
「何でもない。効いているのならば良い。ただ、あまり心配を掛けさせるな」
「ご、ごめんなさい……」
(イルジクトさん、あんまり態度には出てなくても、やっぱり心配してくれてたんだ……)
態度どころか表情にすら感情が現れにくく、その上普段から寡黙なイルの本心を読み取るのは難しい。一見すると素っ気なく見えてしまうのだが、その実人一倍仲間想いな事をレイは知っている。お世辞にも感情表現が豊かとは言えない彼だけれど、決して冷たい人間というわけではない。いつだって人知れず仲間を支えてくれるイルの不器用な優しさを少しでも理解しようと、レイはじっとレンズの奥の瞳を見据えた。彼は今、何を考えているのだろう。
「それからもう一つ。あの薬はアセトアミノフェンに抗ヒストミン剤を加える事によってアレルギー症状にも対応させ、副作用を軽減している。体に優しい薬だ」
「? はぁ……」
全然分からない。
てっきり説教されるものと思っていたら、何故か唐突にイルの薬学講座が始まってしまった。専門的な難しい話をされた所で、残念ながらレイの頭では理解出来る筈もないのだが。真意が分からず首を捻るレイに対し、イルはもう一度口を開いた。彼女にも分かるように、ゆっくりと。
「よって、“人以外”にも使用可能、という事だ」
「え? “人以外”って……、あ……!」
何かに気付いたらしいレイは、大きく目を見開いて声を上げた。見る見るうちに、満面に笑みが広がっていく。
「ありがとうございますっ、イルジクトさん!」
ペコリと頭を下げ、そのまま勢いに乗って扉へと駆けていった。
大広間を出れば、本館へと続く石畳の渡り廊下が真っ直ぐに伸びている。上品なアイボリーで彩られた渡り廊下は簡易的な屋根のみで吹き曝しになっており、通路の右側には庭園が広がっていた。手入れの行き届いた庭園内では、季節ごとに色を変える草花が趣を演出し、まさに散歩道には打って付けとなっている。大きく傘を広げ、軒を伝う雨垂れを元気よく弾いて、レイは広い庭園へと飛び出して行った。
そうしてレイの足音が、雨音に混じって消えてしまってから。
一連の遣り取りを黙って見ていたクレイは、笑顔固定のまま瞳の奥を光らせた。
「イルジクト。貴方何か知っていますね?」
「何をだ」
「レイさんの事ですよ。最近様子が変だと、ソラリアから伺っていたのです」
「……そうか」
冷静に答えながらも、イルは内心で苦笑する。やはり、この目敏いリーダーの追及を逃れる事は出来ないようだ。考えを纏めるように静かに瞼を伏せ、知っている訳ではない、ただの推測だ、と前置きを入れてから、
「―――浅倉レイの二の腕には、細い線状の傷が等間隔に三本入っていた。あの特徴的な引っ掻き傷は、何らかの獣による爪痕である可能性が高い」
「獣……!?」
「獣といっても、恐らくは小動物だ。そう大きな爪痕ではなかったからな」
思わず青褪めるサイに向けて補足を加え、イルは更に説明を続ける。
「傷の手当てをする間、足を怪我して歩けない動物はどうやって介抱すればいいのか、シンビオスではペットを飼えるのか、と立て続けに尋ねられた」
「……それで?」とクレイ。
「前者は妥当な治療法を伝え、後者は原則としてホームでは飼えないと伝えた。……ら、目に見えてがっかりしていたな」
「成程。要するにあいつ、怪我した動物拾って来やがったのか」
「レイちゃん……私達に迷惑かけると思って、隠してたのかしら」
「このところ空元気だったしなぁレイの奴、俺達に隠し事してんのが負担だったんだろうよ」
それぞれの見解を耳に入れながら、クレイはふと思い出したように窓の外を眺めた。
昨晩よりも雨足が強まっている。暗い空に稲妻が走り、遠くで雷鳴が轟き始めていた。食事中レイが余所見をしていたのは、拾って来た動物を気にかけての事だったのだ。楼銀での一件で、アルテミス(略)の一部が動物に取り付けられているのを見たレイは、動物虐待だと随分憤慨していたと聞く。その事から、彼女が無類の動物好きであるのは容易に想像出来るというもの。今頃、この悪天候の最中で世話をしているのだろうか。ホームでは飼えないと知りながら、それでも捨て置くことは出来ずに、ずっと一人で―――
「やはり、このままにはしておけませんね。これより、此処に集ったギルド員に特別任務を言い渡します」
クレイは全員の注目を集め、挑発的に笑みを広げた。
彼等が信頼を寄せるに足るリーダーとして、絶対の威厳を漂わせて。
「―――“浅倉レイが抱える問題を直ちに解決し、彼女の元気を取り戻すこと”」
一方のレイは、裏庭に当たる茂みの中にしゃがみ込んでいた。
広大な庭園はレトロな外装に合わせて洋式のガーデニングがなされており、自然色豊かな景観を損なわないよう、敷地内は全て塀の代わりに垣根で覆われている。雨の滴をたっぷりと受けて瑞々しさを増した樹木は充分に一見の価値があるのだが、生憎レイは行楽に訪れたわけではない。キョロキョロと辺りを窺って人気がないのを確認すると、レイは垣根の下を覗き込み、慎重に手を突っ込んだ。取り出されたのは、見るからに即興で作られたような手作り感溢れる木箱である。その中には小さな生き物が入っていた。見事な白い毛並みに縦縞模様のその生き物はまだ子供であるらしく、レイの背負う小ぶりなリュックにすっぽり入ってしまいそうなくらいコンパクトサイズだ。白い生き物は箱の縁に前脚を掛けてひょっこりと顔を出し、つぶらな瞳でレイを見上げている。元気そうな姿を確認してほっと胸を撫で下ろしたレイは、そうっと手を伸ばし、ややぎこちない仕草で頭を撫でた。どうやら生垣が屋根代わりとなって、雨風を凌げていたらしい。
「足、だいぶ良くなってきたかな。良かった……イルジクトさんの薬、塗ってあげるからね。猫ちゃん」
レイは優しく声を掛けると、手に持っていた傘を木箱の傍らに斜め置きした。そうして腕の付け根から肉球にかけて巻かれていた包帯―――しかし巻き方はとてつもなく不器用である―――を慎重に外し、リュックから取り出したイル特製の傷薬を患部に塗る。すると少し沁みたのか、くう、と小さな鳴き声が庭先に響いた。その後新しい包帯をガタガタな感じで巻き直し、あとは完治を待つだけだと満足気に雨粒を拭うレイだったが、この時彼女はまだ気付いていなかった。
レイと白い生き物の他に、複数の人影が潜んでいた事に。
―――カサッ
「あの子ね、レイちゃんが拾って来たのは」
プランターの陰に身を隠し、サイが小さく呟く。
そう、言わずもがなクレイを始めとする幹部メンバーだった。
「いや、つうかあれ、猫なのか?」
「体躯と毛皮の模様を見る限り、あれはどう見ても……」
「虎ですね」
「おいどうすんだよ、猫ならいざ知らず猛獣じゃねぇか!」
「レイちゃんは猫だと信じて疑ってないみたいよ」
「ある意味すげぇよ、奇跡的な馬鹿だよ」
ソラ曰く奇跡的な馬鹿は、何処から持ってきたのか猫じゃらしを振って楽しそうに遊んでいる。あくまでも猫扱いを貫くようだ。
想定外の事態に、さてどうしたものかとそれぞれ頭を悩ませていた所、それまで押し黙っていたアルが唐突に口を開いた。
「―――違う」
「アルス? どうかしました?」
「猫でも虎でもない。あれは、」
アルはきつく目を細め、一心に白い生き物を睨み据えている。その鬼気迫る様子にクレイが本能的に危険を察知した時には、既に異変が現れていた。此方の気配に気付いたのか、それまで大人しかった白い生き物が牙を剥き、威嚇するように低く唸り声をあげている。更に驚いた事に、植木鉢にも満たない程の大きさしかなかった体が急成長を遂げ、瞬く間に垣根を越してしまった。その禍々しい姿は正しく、
「―――獣怪だ」
「きゃああああっ!?」
アルの呟きとレイの悲鳴が重なった。
それが合図だったかのように、獣怪は驚異的なジャンプ力で飛び退ると、そのまま宙を旋回して地上を見下ろしている。狙いを定められる前に素早く地を蹴ったアルは、衝撃のあまり尻餅をついたまま動けなくなっているレイの腕を引いて立たせ、庇うように前に出た。何が何だか分からず目を白黒させているレイは、いつの間にか勢揃いしていた幹部の面々を目の当たりにしていよいよ混乱を極める。
「あ……、アルっ? 皆も、何で此処に……」
「説明は後だ、いいからお前は下がってろ」
鋭く飛ぶ声に押されたように、レイはじわりと後退した。恐る恐る見上げた先に居るケモノは、つい先程まで愛くるしい愛玩動物のようだった生き物の面影など全くない。爛々と光る赤い眼に、針のように逆立った全身の毛。鋭利な犬歯は牙どころか角のように見える。あんなもので噛み砕かれてはひとたまりもない。
「はは、これはこれは……」
「おいおい冗談じゃねぇぞ、小動物じゃなかったのかよイル!」
「そうか、妖力を宿す獣怪は自らの体積を自在に変える事が出来る。……盲点だったな」
「冷静に分析してる場合じゃなくって! レイちゃんこっち!」
サイの機転でレイを樹木の裏に連れ出した途端、獣怪は大きく身を捻り、残る幹部たち目掛けて急降下した。重力以上の速さで地に降り立った獣怪は、着地と同時に太い爪で地面を抉り、激しく地響きを起こす。標的となったクレイ等は、流石の反射神経で一斉に四散していた。
「―――怯えるな。僕等は敵じゃない」
ただひとり、立ち昇る土煙の中でも微動だにしないアルを残して。
「僕等に敵意は無い。……分かるな?」
さながら小さな子供に対するように、アルは繰り返し言い聞かせた。
獣怪が降り立ったのはアルの目と鼻の先であり、あと一歩でも前進していれば大惨事になっていた事だろう。そんな危機的状況にも関わらず、どういうつもりなのか今のアルには闘気も殺気もない。武器である銃はホルスターに収めたまま、平然と無防備に立ち尽くしている。そもそもケモノ相手に説得が通用するとは思えないのだが、しかし耳を傾けてはいるらしく、獣怪はじっとアルの瞳を覗き込んでいた。凍り付いたような膠着状態が続く。このまま武器を使わずに平和的解決をはかるのかと思いきや、アルは不意に眼光を強めると、
「ただし、これ以上僕等に傷ひとつでも付けてみろ。切り刻んで今晩のおかずにしてやるぞ。―――ソラリアが」
「待って! ちょっと待って睨まないで! 確かにメシ作ってんの俺だけれども!!」
いつも通り理不尽に巻き込まれたソラは、ギラリと向けられた獣怪の視線に晒されながら大慌てで両手を振っている。しかし、不思議と攻撃してくる様子は見られない。用心深く鼻をひくひくと動かし、じっくりと全員の顔を見渡した末に、意外にあっさりと警戒を解いてくれた。巨大化した体は元の大きさまで縮んでいき、これまた不思議な事にアルの肩に飛び乗って甘えた様子を見せている。どうやら、元々は穏やかな性格のようだ。
「大人しくなったな……?」
「ちょっと意外だったわね。アルってお世辞にも動物に懐かれるタイプには見えないんだけど」
「あいつもネコ科の動物っぽいからじゃね? 目付きとか気紛れなとことか」
「あ、そういう……」
などとひそひそやっているソラとサイだったが、思いっ切り本人に聞こえていたようで、五月蠅いと言わんばかりに睨まれていた。ただし、反省する様子は見られなかったが。
取り敢えずは事態が収束した事で、一同に解決ムードが流れる。そんな中、クレイだけは緊迫した面持ちを崩さなかった。
「レイさん。これをホームに連れて来たのは貴女ですか?」
普段の穏やかさとは打って変わった、冷然とした声。
その雰囲気に怯んだレイは、思わず萎縮して肩を竦めた。クレイの視線は、矢のような鋭さで獣怪を射止めている。これによって荒らされた庭、抉られた大地、そして怪我を負っていたレイ。こうした実害が出たからには、シンビオスのリーダーとして簡単に見逃すわけにはいかないのだ。
「は、はい……。此処の近くの岬で見付けたんです。怪我して動けないみたいだったので、その、つい……」
「何故、そのような勝手な真似をしたのですか。私達が居たから良かったようなものの、怪我ではすまなかったかも知れないんですよ」
「……ごめんなさい……」
もはや面目次第もない。責任を感じてすっかり肩を落としてしまったレイを見兼ねたのか、サイが優しく彼女の前に屈み込んだ。
「あのね、レイちゃん。クレイが怒ってるのは、無断でこの子を連れ込んだ事よりも、どうして私達を頼ってくれなかったのかって事だと思うの」
「え……?」
「レイちゃんはとても良い子だから、私達の事を気遣ってくれてたのは良く分かるし、嬉しく思うわ。だけどね、私達だって、レイちゃんの事を大事に想ってるのを忘れないで欲しいな?」
「サイファンさん……」
シンビオス一の美女と言わしめる微笑みを携えて、サイはやんわりと雨の雫を拭ってくれる。その言葉は彼女の想いであると同時に、立場上厳しく言わねばならないクレイの想い、ひいては此処にいる幹部全員の想いを代弁してくれているのだろう。出会った当初から変わらない暖かな夕陽色は、彼女の朗らかな人柄そのもののように思えた。サイだけではない、これまで苦楽を共にしてきた仲間達は、危険が迫れば助けてくれる。間違えば正してくれる。自分の想像よりもずっと、大切に想ってくれている。誰よりも頼れる仲間なのだから、最初から一人で何とかしようとせずに力を借りれば良かったのだ。そんな簡単な事に、何故気付かなかったのか。たまらず泣き出しそうになる衝動を何とか堪え、レイは唇を噛み締めた。
「あの、本当に、心配かけてしまってすみませんでした……!!」
ガバリと勢いよく頭を下げるレイ。
刹那ふ、と力を抜いたように口許を緩めたクレイは、何時もの穏やかな口調で答えた。
「いえ、きちんと反省しているのならばもう良いのです。ですが、この獣怪……どうするべきでしょうね」
「じゅうかい……?」
キョトン顔のレイの真似をして、獣怪もこてんと首を傾げる。
「この世界には、大きく分けて五つの種族が存在するのですよ。その内、人間と妖怪、それに動物が居るのはレイさんもご存じですよね」
「はい」
「“獣怪”というのは、妖力を持った動物の事です。多くは人を嫌い、山奥や森に単独で生息しているのですが、妖怪の使い魔として使役される場合もあります。総じて知能が高く、優れた戦闘力を持っていますからね」
言われて思い出したのは、初めてこの世界に来た時の事。
出会い頭に襲って来た妖怪“クロード”は、使い魔として白蛇を連れていた。巨大化した大蛇の戦闘力は主人にも引けを取らず、戦闘に応じたアルやサイを存分に苦しめてくれたものだ。今思い出しても冷や汗ものの出来事を回想していると、不意にクレイの細い双眸が開かれた。
「そして残る五つ目の種族が―――、“人妖”」
「じん、よう……」
意図不明の間を空けて、クレイは解説を続ける。
その視線が一瞬だけアルを捉えた意味が、レイには分からなかった。
「人間と妖怪の混血……つまりハーフという事ですね。まぁ、現状ではほんの数えるぐらいしか存在しないのですが……何時かお目にかかれるかも知れません」
「えっと、じゃあ、つまり“人妖”は私と同じハーフで……? “獣怪”のこの子は猫の妖怪だったんだ……!!」
この程度の理解力である。
やはり頑なに猫扱いなのはこの際放っておく事にして、兎も角“獣怪”という生き物は妖怪の仲間なのだと理解したレイは、複雑な表情で小さな仔猫(だとレイは思っている)を見た。すっかりアルの肩で寛いでいる猫モドキは、レイの視線に応えて此方を見詰め返し、ピンと耳を立てている。とんでもなく可愛い。動物好きのレイにはたまらないのだが、妖力の恐ろしさを身を以て知っている彼女としては、安易に飼いたいなどと口に出来るはずもない。理解力は低くとも、自分がシンビオスの一員だという自覚ははっきりとあるのだ。それ以前に、人間と妖怪が敵対しているという事は、獣怪もまた然り。人々を妖怪の脅威から護るための礎となるこのホームに、この子はきっと置いておけない。
ごめんね、と呟いたレイは、何とも名残惜しそうに獣怪の頭を撫でた。
「そっかぁ……じゃあ尚更うちには置いておけないですよね。シンビオスは、妖怪と戦ってるんだもん」
「あら、確かに戦ってはいるけど、それはあくまで平和に暮らす人達を護るための手段としてよ」
見惚れるほど様になるウインクと共に、サイの助力が加わった。
フォロー上手なイルがそれに続く。
「我々の目的は、“排除”ではなく“共生”だ。本質を見失って了見を狭くしていては、共生など出来よう筈もない。そうだな、クレイド?」
問われたクレイは反論の余地もなく、静かに苦笑を零すしかない。息の合ったコンビネーションを見せてくれるのは戦闘時だけで充分なのですがね、などとちょっとした皮肉を添えつつも、二人の意見に異を唱えるつもりはなかった。元より鋼よりも固い結束力を誇るシンビオスの幹部なのだ、こうなった彼等の意思は梃でも動くまい。クレイは降参というようにひらりと両手を上げて、
「仰る通りです。獣怪とはいえ、怪我をしている生き物を無下に追い出すつもりはありませんよ。それにこの獣怪、桁外れの妖力を持っているようです。味方となってくれれば、どれ程頼もしい事か」
切実な響きを滲ませて、クレイは小さな獣怪に視線を移した。多大な妖力を持つ獣怪をホームに留めておくのは確かに危険なのだが、何もリスクだけではない。場合によっては、莫大なメリットを生む可能性がある。大幅な戦力アップに加え、今の所限られた移動手段を考えると、その自由な飛行能力は極めて魅力的だ。遠ざけておきたい脅威であると同時に、喉から手が出るほど欲しい逸材でもある。とはいえ、やはり危険な賭けには違いないのだが。
逡巡するクレイを見上げて、レイは不安げに眉を潜めた。
「でも、シンビオスではペット飼えないんですよね……?」
「ええ、それは規則ですから。ですがペットとしてではなく、我々の仲間として戦力になるのなら、例外的に許可を出す事が出来ます。ただ―――」
「俺は反対だな」
途切れたクレイの言葉を取り次ぐように、ソラがきっぱりと言い放った。
「肝心のそいつに仲間になる気はあるのか? またさっきみたいに暴れ出したらシャレんなんねぇぞ」
年長者らしくしっかりとした鋭い指摘に、誰一人返す言葉もない。
クレイが判断を迷っていたのは、正しくその懸念があったからだった。いくら此方に仲間にする意思があっても、相手に敵意があっては総合的に問題が大きすぎると言わざるをえない。それでもレイは諦めがつかないようで、何とか説得を試みようと拝み倒す勢いで両手を合わせた。
「でも、普段は大人しいんです! お願いですソラリアさん、ちゃんと面倒見ますから……!」
「そんな事言って結局俺が世話する羽目になるんだから」
「大変だなお母さん」
「誰がお母さんだ!!」
呑気なアルの一言に冴え渡るソラのツッコミ。埒が明かない、このままでは何時もの調子で大喜利大会になるのは目に見えている。収拾がつかなくなる前にと、クレイは更なる意見を求める事にした。
「アルス。貴方はどう思いますか?」
「……こいつは人間に慣れてないだけだ。こっちに攻撃の意思がない事が分かれば、もう襲っては来ない」
肩口でゆらゆらと尻尾を揺らす獣怪を一瞥し、アルはやけに確信的な口調で断言した。根拠は不明だが、利発な彼はこういった判断を左右する議論の場において、ただの憶測でものを言ったりしない。アルが信憑性の高い第六感を持っているのは周知の事実であり、その研ぎ澄まされた感覚によって何度も死地を救われてきた。無論、リーダーであるクレイもそれを熟知している。どうせ何の確証もないのなら、仲間の言葉を信じるのが得策だろう。
クレイは顎に片手を添えて獣怪とアルを見比べ、やがて徐に頷いた。
「そうですか……確かに安全とは言い切れませんが、アルスの傍に置いておけば概ね問題はないでしょう。少なくとも、貴方の言う事は聞き分けるようですしね」
「この凄まじい丸投げ感」
半笑いのアルは既に色々と悟った顔をしている。何度でも言うが慣れとは諦める事である。
きっと後から気が済むまで文句を言われるのだろうけれど―――勿論クレイは全面的に聞き流すつもりなのだが―――、それでも任された事は律儀にこなしてくれるだろう。完璧にとはいかないまでも、アルがお目付け役となってくれればリスクは少なからず緩和される筈だ。あとは、ソラが首を縦に振ってくれれば満場一致で新たな仲間を迎える事が出来るのだが。ダメ押しとばかりに、レイが涙目でソラを見上げた。
「ソラリアさん……」
「あー、ったくもう、……わあったよ! その代わり、約束通り責任持って世話しろよ?」
ソラは吹っ切れたように叫ぶと、約束だぞ、と念を押してレイの頭に手を置いた。ぱああ、と分かりやすく表情を明るめたレイは、はいっ!、と良いお返事。流石のソラも、年下の女の子にうるうると見詰められては敵わない。それに、ソラとて動物が嫌いなわけではないのだ。寧ろ、世話焼きの彼としては好きの部類に入るだろう。
ようやく処遇が決まった事を感じ取ったのか、獣怪はアルの肩から飛び降りると、今度はレイの足許をくるくると回り始めた。大喜びのレイは獣怪を抱き上げ、頭を撫でたり頬をすり寄せたりしている。幹部の面々は、暫くの間その様子を微笑ましげに見守っていた。
「ふふ、良かったわね。ところでこの子、名前は無いのかしら」
「そうなんですよ、いい名前が思い付かなくって……ねぇアル、何かない?」
「……」
問われたアルは、無表情のまま二、三度瞬きして獣怪に視線を遣り、それに応えるようにくう、と鳴く声を聞いた。ややあって、ぽつりと零すように、
「……シルク」
「しるく……シルクかぁ。えへへっ、うん、いい名前!」
レイも気に入ったようで、何度も頷いてはシルク、と名を呼んでいる。
こうして新たに加わった仲間は身軽にレイの腕から飛び出すと、ふるふると全身を震わせて水滴を飛ばし、その名の通り美しい絹糸のような毛並みを躍らせて庭先を駆けていった。脚の怪我は順調に快方に向かっているようだと安堵し、レイもその後を追う。気付けば雨は上がっており、差し込む陽光が目に眩しい。青と白と灰色と、いくつもの色を塗り重ねたような不完全な空は、予想出来ない幸先を暗示しているかのようだった。
風が立ち、雲が晴れる。
青空が覗く上空には、大きな虹が飾られていた。




