一歩でも、前に
誰も居ないギルドホームのダイニングにて、レイはひとり頭を悩ませていた。悩ませている、といえど、別段深刻な悩みを抱えてそうしている訳ではなく、誰もが一度は経験したことのある悩みを抱えてレイは眉間に皺を寄せていた。
「んー……」
朝方ギルドの幹部達と共に食事を摂ったダイニングテーブル、仕事に出掛ける前にギルドの専属コック―――本人は強く否定していたが―――ことソラが汚れひとつなく片付けていった其処。朝早くから仕事に出掛けた面々の居なくなった今、広い机の上にはレイが広げた書物が素晴らしい勢いで散らかっていた。レイの視線はその中のひとつ、ど真ん中に広げた参考書へと向けられていて、それがレイの頭を悩ませる要因だということを悟ることが出来る。
そう、レイが難しい表情で睨みを利かせる理由、それは。
「あーもう駄目! 全く読めないっ!!」
―――この世界の文字が、全く読めないことにあった。
元の世界に居た頃は、性格に似合わず読書にだって携わったものである。だがこの世界の文字は何時か社会の授業で見た歴史的な文字列とも、何処かの国で使われていそうな文字列ともとれる奇妙で理解し難いものであることを、レイは何度も体験していた。それじゃなくても勉強なんて出来た試しが無いのに、一体全体どうしろというのか。
(昼間の内の空いてる時間、出来ること探して何かしようって思った訳だけど、)
主にギルド内に居座ることで有名イルに頼んで本を借りたり、勉強します! と意気込むついでにクレイやサイ、アルにさえ文房具やノート、勉強に使えそうなものを各々頂いたというのに、だ。
「何なのよこのミミズみたいな文字……、本物のミミズだってもう少しやる気出すってものよ……!」
正午を過ぎた頃から開始した勉強は、一度の捗りもみせずにレイの頭を沸き立たせるだけ沸き立たせ、きっちり一時間の時を以って休憩タイムへと移行しそうである。誰も居ない空間で机にうっ伏し、ううう、と低い唸り声を上げる。元々勉強は得意でないが、此処まで難易度の高い勉強は生まれて初めてだった。何せ、先ず読めないのだ、文字が。参考書を元に勉強しようにも、参考にする文字すら読めないのにこれでどうしろというだ。
理不尽過ぎる現実に思わず立ち上がり、持っていた鉛筆で参考書を指し示し、叫ぶ。
「私だってあんたが読めれば言語のひとつやふたつ軽く覚えてやるんだから!! ……読めないからこんなことになってるんだけどね!!!!」
―――ただ空しいだけだったが。
けれど気持ち的には多少清々した、落ち着きを取り戻し椅子に座り直せば、気分転換でもしようと大きく伸びをして近くの本へと手を伸ばす。参考書のような分厚い本ではなく、両手に納まる程度のサイズの本。どうやら文庫本のようだ。
(こういうの読めたら面白いんだろうなぁ……。でもなぁ……読めないからなぁ……)
「何か動物の形した機械とかが、未来から翻訳するもの持って来てくれないかなぁ」
「―――レイさん、落ち着いて下さい?」
「うひゃあっ!!」
下らない独り言で気を紛らわせていたところに響いた声、物凄く近い位置から聞こえた声に思わず飛び上がったのだが無論その声に聞き覚えが無い訳ではなく、単純に気が緩んでいたが為に出た反応だった。文庫本を取りこぼし、机の淵に手をやり恐る恐る振り返れば、悪戯にくすくすと笑みを零す我等がギルド長が其処に。何度でも言うが、この人に気配というものは無いのだろうか。
「お、お、お帰りなさいクレイドさん……」
「ただいまです、勉強も良いですが、あまり頑張り過ぎると今の様に現実から遠退いたところに思考が飛んで行ってしまいますよ」
普段はギルドに居座ることの多い―――主に書類仕事と云う名の始末書整理が忙しいらしい―――彼も本日は出張っていたのだが、随分早い時間に帰宅することが出来た様だ。未だ驚いたことによる心拍数が元に戻ることはなかったが、小さく首を傾げて口角を上げるクレイに向き直ってそうですよね、と返事をした。
「その様子だと、どうやらあまり順調とは言えないようですね」
「あ、あはは……」
そしてすっかり見抜かれ、レイは苦笑を零す他に出来ることもなく、つい視線を逸らしてしまう。朝方意気込んだだけあって、非常に情けない。そんなレイの心情に気付いてなのかどうなのか、くすりと笑みを零したクレイは手荷物を机の隅に置き、レイの手元にあった参考書をそっと手に取ってみせた。
「端から読めない文章を読めというのは酷なことです、私達とレイさんの世界の言語がどれだけ違うのか私には分かりませんが、他国の言語を一から習うというのは少々骨が折れますからね。……レイさんの世界では、言語はひとつなのですか?」
「あ、いえ、国ごと……なのかな……、……あ! でも沢山あります! 私は自分のとこの言葉しかほとんど分からなかったですけど……」
クレイがぱらぱらと頁を捲る様を見遣りながら、かつてのテストの結果等を思い出す。腐ってもハーフだというのに、平均点を遥かに下回る点数しか採ったことの無かった語学系のテスト。赤点をすれすれで回避し続けた日々は未だ鮮明に思い出すことが出来る。
(まさか、異世界でまで勉強する羽目になるなんて……言葉が分かるんだから文字も読めるようにして欲しかったわよ……)
「―――いて下さいね」
「……へ?」
先程注意されたばかりだというのに、再度現実逃避を開始したレイの思考を引き戻したのはこちらを見て何かを言ったクレイの声。きょとんとして間抜けな声を上げたレイに苦笑を零せば、クレイはもう一度先程口にしたのだろう言葉を続けた。
「分からないことがあれば、遠慮せず何時でも訊いて下さいね……と、言ったんですよ、レイさん」
「え、……あ……」
「私やイルジクトなら大抵ギルドに居ますし、一人で黙考するよりはその方が良いでしょう。では、私は部屋に戻りますね」
穏和な笑みを浮かべそう提案してくれるクレイに碌な返事も出来ず彼を見上げるレイだが、クレイは気を悪くした様子もなく参考書を置かれていた元の場所に戻した。やっとのことで落ち着きを取り戻したレイがはっとした様子ででも、などと言い淀む頃には、既に彼は部屋に戻るのだろう手荷物を持ってレイに背を向けていて。今声を掛けるとすれば否定の言葉ではなく、そう言ってくれた彼のお言葉に甘えるのが正しい選択かも知れない。直感でそう感じ取ったレイはがたりと立ち上がり、必要になりそうな道具を抱えればそんなクレイの後ろ姿を追って、叫んだ。
「クレイドさん! 早速分からないので教えて下さい!!」
「ええ、構いませんよ」
隣に並ぶようにして彼を見上げれば、何処か満足げに微笑むクレイの横顔が見えて、レイもつられて笑みを零すのだった。
「もう、アルったらやり過ぎなんだから」
「僕一人の責任じゃないだろ、お前だってキレてた癖に」
「クレイー、入るわよー?」
「誤魔化しやがる……」
夕刻、ギルド内の廊下にてぶつくさと文句を言い合う二人―――サイとアルは、辿り着いた廊下の隅の部屋からどうぞ、と返事がしたのを合図に入室する。個人の部屋というよりは応接室として使われることの多いその部屋は我等がギルド長の私室であるのだが、入るや否や其処に居た人物は声の主とは違う銀糸の髪の少女であり、しかも彼女が其処にあるソファ……ではなくソファと机の窮屈な間にわざわざ座り、尚且つ机に伏してくたばり掛けているのだから流石に目を疑う。
「れ、レイちゃん……?」
「……あ、サイファンさん、アル、お帰りなさーい」
「……死んでるな、色々」
「冷静に観察結果を述べなくて良いのよアル。……え、と、……クレイ?」
自分達に気付いた様子で顔だけこちらに向け、ふふふ、と怪しげな笑みを浮かべているレイ。疲労し切った彼女の身に一体何があったのか、きょろりと室内を見回し隅に置かれたロッキングチェアを揺らしているクレイを発見すれば、困ったような表情を浮かべてサイは首を傾げた。
「机の上、見てみれば分かりますよ」
相変わらずの余裕綽々の微笑を浮かべるクレイの言葉に倣い、サイ、そしてアルもつられるようにしてレイの手元を覗き込んでみる。
「……わぁ、頑張ったわねレイちゃん」
「謎の文字の羅列」
開きっぱなしの参考書、そしてレイの下敷きになっているノートには、数時間前まで真っ新だったことなど嘘のようにびっしりと文字列が書き綴られていた。二人が簡潔に感想を述べた声が聞こえたのか、レイが身を起こしてキッと二人の方を見る。
「私、皆の名前くらいなら書けるようになりました!」
そしてこのドヤ顔である。
突然起き上がったレイに少なからず驚いた二人は、そんな自信満々な彼女を見て一方は頬を緩め、もう一方は呆れた様に溜息を吐いた。
「凄いじゃない、レイちゃんは物覚えが良いのね」
「名前くらい三分ありゃ覚えられるだろうが」
「えへへ……、大丈夫、私アルの言葉聞こえてないから!」
サイが手を合わせて賞賛の言葉を述べれば、レイははにかんで笑みを浮かべる。彼女が背にするソファから机を挟んで置かれるもう片方のソファに大仰に横になるアルの言葉は聞かなかったことにするらしい。
「最初は全然分からなかったんですけど、クレイドさんが教えてくれたのでどうにか少しは……ほんの少しは理解出来ました!」
「うん、少しでも凄いわよ。ちゃんと前に進めたってことだもの、偉いわレイちゃん。じゃあ、私の名前書いてみて欲しいな?」
「はいっ! ええと、サイファンさんだからぁ―――」
「……べた褒めだな」
「レイさんは実直で素直な方ですから、ああやって褒めてあげたくなるのでしょう」
「名前程度でかよ」
「サイには今迄居ませんでしたからね、褒め甲斐のある―――甘やかすことの出来る“年下の子”が」
「……」
クレイは机に向かうレイとそれを覗いて終始笑みを浮かべるサイを見遣りながら立ち上がり、人の部屋のソファを占領し始めたアルを背凭れの方から見下げてみれば無反応、どうやら先の嫌味は黙殺されてしまったようでやれやれ、と肩を竦めてみせる。このまま茶化しに掛かっても構わなかったが、仕事から帰って来たばかりのアルを怒らせてしまうのはクレイとしても得策ではないので、ひとつ苦笑を零すだけに留めて再び正面の彼女達に視線をくれた。
「―――はいっ、書けました! ……読めますか?」
「えぇ、読めるわよ。凄く上手! 他の皆のも書けるのかしら?」
「勿論です! クレイドさんの名前書けますよ! えーと、アルスは……あれ、家名忘れた。これで良いや」
「何で僕だけ雑なんだよ」
寝転がりながら不満を述べるアルを宥めつつ、レイの綴る拙い文字の羅列を見守る面々。
まるで小さな子供を見守るような空気は暫く続き、その後小一時間してから帰宅することになるソラの「其処の破天荒コンビ、今日の依頼完了書類クレイに出したんかい」という声掛けによりサイとアルが我に返るまで続いた。無論二人が部屋に来た理由を悟っていたクレイは、至極穏やかな笑み―――別名ほくそ笑んで―――を浮かべていただけだったが。
「―――相変わらず、ふざけた時間に通話を要求してきますね、貴方は」
『それで、どうだったんだ』
同日の、皆が寝静まった丑三つ時。静寂に包まれる一室に遠慮なく響いた通信機器の呼び出し音をきっちりコール三回で止めれば、通信機越しの人物に呆れた声音で応対する。こちらの話は聞き入れられず、直ぐに本題へと進んでしまったが。何のことだと間を置くことでクレイが問えば、通信機器の向こう―――通話先は医務室である―――から続けざまに言葉が紡がれた。
『浅倉レイ、楼銀に連れて行ったことで、何か彼女のことが分かったのか。……俺はそう訊いている』
平坦な物言いでそう問われ、クレイは不意に目を細める。どれだけ穏やかな雰囲気の中に居ようと、彼だけは自分を見逃してくれやしないのだろう……何処か確信にも似たそれに思わず口角を吊り上げた。
「そんな話を覚えていたのですか?」
『お前が言ったことだろう、……お前の考えていることなんて分からないし、分かりたくもないと常々思っているが、楼銀に行く前に言っていたことを思い出した。ただの影武者として連れて行ったなんて戯言を吐くようなら……、』
「物騒な間は止して下さい、イルジクト」
彼―――イルにしては物騒な物言いについ失笑を零し、クレイは通信機器の設置された位置の真横の壁に背を預ける。それからスッと、明かりのひとつも付かない月明かりだけの私室で、一人目を閉じた。
「―――貴方なら気付いているのではありませんか、イルジクト」
そしてそのまま、楼銀での出来事を思い返す。
『何にだ』
「私やサイ、アルスが目の当たりにした例の特殊能力について、今回表立って目にすることはありませんでした。ですが―――エトリーレ、そう呼ばれたあの毒物の効能について語ったのは貴方です。そして、―――今回その毒物の影響を受けなかったのは、浅倉レイただ一人」
『……お前だって、ほとんど症状は出ていなかっただろう』
「私は少々特殊ですから、今回は不問とさせて下さい。第一、私だって終盤に至る頃にはパラライズの症状が進行していましたよ」
『普通なら進行どころでは済まされん、どれだけ毒物慣れしているんだ。……だが、そうだな。お前で顕著に症状が出るエトリーレの紅茶を直接飲んでいたにも関わらず、一切の症状が見られなかったのは、彼女だけだ』
「……やはり、彼女には何等かのアビリティが備わっているとみて間違いはないのでしょう。妖術の強制解除、状態異常の効かない体質……それについて本人があまり気にしていない風なのが惜しいところです、……これから少しずつ解明していければ良いのですが」
『……クレイド』
一拍置かれて名を呼ばれ、クレイはあくまでも口調は穏やかに何ですか? と問いを返す。言葉を選ぶように、慎重に、一拍に込められた意味を悟りながらイルの言葉を待ち、薄く開いた双眸にて、僅少な明かりに浮かぶ薄暗い室内を眺める。
『“シンビオス”は、お前のギルドだ』
「ええ、そうですね」
『お前の考えていることなど分かりたくもない、……そうは言ったが、このギルドでお前を一番理解しているのは、間違いなく俺だろう』
「……ええ、そうでしょうとも」
だから、―――其処で再び置かれた間の意味ばかりは、クレイにも悟ることは出来なかった。
『お前を信じる仲間を裏切ることだけは、絶対にするなよ』
話は以上だ、と。自分から掛けてきておいて遠慮のひとつもなく通話をぶち切るイルを通信機器を見て思うも、浮かぶのは苦笑ひとつで他の何の感情も浮かびはせず。一体どういう意味で言ったのか分からない最後の言葉に頭を悩ませ、―――最後にはクッと声を上げて笑ってしまった。
(考えるのは止しておこう、……だって当たり前じゃないか、馬鹿にしてるんですか貴方は)
そんな忠告、杞憂も良いところだ。自分は確かにこのギルドの長で、ギルドの掲げる“目的”の為なら何だって出来る。どんなことだって、切り捨てられる。だがそれは、
「―――俺とて、一人では何も出来ませんよ、イルジクト」
仲間が居なければ、始まらないのだ。
自分を、そして自分が。最上級に信頼する彼等が居なくては。
既に届くことのない文句を暗闇の中呟けば、その言葉は無論、誰の耳に届くことなく消えて行く。だがそれで良いのだと、クレイは思うのだ。容易に言葉に出来る“信頼”など誰も信じやしない、だから今は、それで良い。
音の無い漆黒の世界で、時計の秒針が刻一刻と時を刻む音だけが聞こえる。
どうかこの一時のしじまが彼等の安眠を守り続けてくれることを、今は願うばかりだ。




