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ただひたすらに、



 ―――ピチャン、ピチャン。



 陽光の届かない仄暗い廃坑に、一定のリズムを刻んで水音が響く。加えて地上より幾分冷えた外気と肌に纏わりつく湿気が、容赦なくプレッシャーを増し加えていた。レイは精一杯拳に力を込める事で、胸の奥から湧き上がる得体の知れない恐怖を必死に押し隠している。不安は尽きないが、握った手から伝わる温かみに少なからず安堵したのも確かで。そうだ、逸れないようにと、再び雷佳と手を繋いでいたのだった。レイはその事を思い返し、己の隣に居る筈の美姫を見遣った。この見通しの悪さでは輪郭がぼんやりと浮かぶだけだったが、確かに隣に居る。続いて前に向き直れば、仄かに発光する灯篭に照らされた特徴的な夕陽色が、歩調と連動して左右に揺れていた。


 嗚呼なんて、心強い。暗闇の中にあっても尚感じられるこの確かな存在が、今の彼女にとってどれほど心の拠り所になっているか。







「レイちゃんも雷佳姫も大丈夫? 足許気を付けてね」



 手の平サイズの小さな灯篭を片手に、サイが気遣わしげに声を掛ける。

 サイと合流後、雷佳から案内された古い廃坑。視界も足場も悪い為、頼れるのはサイが持参していた簡易的な灯篭の明かりのみだ。携帯用である為気休め程度の明かりではあるが、小さくとも光があるだけ有難い。何せ狭い上に複雑に入り組んでいて、明かりが無ければ確実に遭難してしまうだろう。にも関わらず、雷佳は「昔は父上や母上に内緒で、この廃坑でかくれんぼをして遊んでいたものだ」なんて懐かしそうに笑っていたのだが。色んな意味で怖いもの知らずである。


「大丈夫です!」

「妾も平気だ。それよりも―――この先」


 間髪入れずそう返した矢先、不意に鋭さを増した雷佳の声。

 つい、と人差し指を伸ばした先にはしかし、セメントで塗り固められた分厚い天井しか存在しない。が、雷佳が示したのは無論何の変哲も無い天井などではなく。











「この真上辺りが、丁度街の中心部の筈だ」





 つまり、この上にあの忌まわしい大嵐が留まっているのだと。彼女の凛然とした声が、そう告げた。

 あれだけの勢力を持った大嵐であるが、分厚い壁に遮られた地下は静かなもので。しかし静寂の中でも肌で感じる、圧倒的な威圧感。痛いほど耳鳴りがするのは気圧の変化の所為なのか、はたまた極度の緊張の所為なのか。



「雷佳姫、此処までのご案内に感謝します。レイちゃんも良く機械を見付けてくれたわ、頑張ったわね」



 雷佳に頭を下げ、レイの髪を撫でた後、サイは一段と表情を険しくする。

 視線の先に、あの挑発的な笑みを射止めるように。



「此処から先は、私だけで構わない。君達はこのまま地上に引き返して、残り四つある“自意識過剰な機械”を壊して頂戴。頼めるわね?」


 唯一の光源である灯篭をレイに託し、サイは二人の顔を覗き込む。肩に乗せられた手がやけに、重く感じた。彼女の言葉も指示も理解出来るのに、即答出来ない。言いたい事と言うべき事がちぐはぐで、言葉が相殺し合うように喉元で消えてしまう。お世辞にも聡明とはいえないレイにも、彼女が向かう先が“戦場”という事くらい理解しているのだ。

 衝動的に口を開き掛けたけれど、サイと一切目が合わずに言葉に詰まる。彼女は既に、己が戦うべき敵を見据えていたから。



 嗚呼、きっともう、何を言っても。








「……サイファンさん」

「なあに、レイちゃん」

「妖怪達を倒したら、皆で夜桜を見るんです。雷佳が取って置きの場所に案内してくれるって」

「あら、素敵じゃない」

「だから、一緒に見ましょう。サイファンさんも一緒に、皆で」

「ふふ、勿論よ。言ったでしょう? サイファン・フレアは誰にも負けないんだから!」



 発言したレイには一瞥もくれず、けれど何時も通りの柔らかな声音でサイは応える。恐らく頷きを返したであろうレイの表情が見えない。泣いてはいないだろうか、それだけが気になった。

 地下に入る前、一人で離脱したサイを気遣って通信を入れてくれた優しいテノールが、ふと耳に蘇る。何時も通りの平坦な声で、それでも心配の滲んだ声で、何かあったら通信を、と。誰よりも慕っている我らが司令塔の為にも、此処で負ける訳にはいかない。ドレスの裾を破き、ハイヒールを脱ぎ捨てて、サイはゆっくりと大剣を抜き放つ。


 行こう、レイ。未だ動けずにいる彼女を気遣い、雷佳がそっと手を引く気配。

 遠い、遠く、遠ざかる。音が。光が。希望の色が。それでも、











「此処からが、―――サイファン・フレアの真骨頂よ」





 それでも彼女は笑っていた。ただひたすらに、その強気な視線は変わることなく。
























「本当に、どうしたものですかねぇ」



 誰に向けた訳でもないその問いの無力さを、痛感する。

 見晴らしの良い丘から見える大嵐は、相も変わらずどす黒い渦を巻いて街の中心地を陣取っていた。目測では風速100メートルといった所だろうか。考えるだけで頭痛に見舞われるというものだ。これを見る限りでも、力の差は歴然としている。勝利への道は余りに険しく、途方もない。だが。



「何を白々しい。どうせ負けてやる気なんか更々無いんだろう」

「あはは、やだなぁ。―――当然じゃないですか」



 その自信は揺るがず、ついでに呆れたようなイルの問いにも動じる事なく、何とも爽やかな笑顔で応えたクレイ。どう見積もっても戦況は不利。そんな事は百も承知だ。しかしそれでも、負け戦にするつもりなど毛頭ない。


(アルスの様子もサイの体調も―――、イルジクトのタイムリミットの件も、気掛かりではありますが)


 けれど、だからこそ。彼等を護り、導くリーダーとして、今は私情に振り回される訳にはいかない。

 クレイは早速目を瞑り、頭の回転の速さを駆使して何パターンもの戦術を練り始める。妖怪との戦いにおける前例を可能な限り記憶から引っ張り出し、ありとあらゆる知識と経験をフル稼働させた。現在、楼銀に居座る妖怪はアディ、アート、デックの三名。その内二名はアルとサイにそれぞれ一任するとして、問題は今現在所在すら分からないデックだ。一刻も早く彼を見付けだして倒さなければならない訳だが、恐らく正攻法で攻めても返り討ちが関の山。


 何か。何かある筈だ。付け入る隙、欠陥、あるいは。






「―――弱点」



 其処でクレイはハッとし、滅多に開かない緑黄の双眸が鋭い光彩を帯びる。

 思い出したのだ。妖怪についての、重要な知識を。


「イルジクト、妖怪の中で“代償”と呼ばれる(ことわり)を知っていますか?」

「嗚呼。詳しくは知らないが、妖怪が力を使う際に何らかの負荷がかかる、というものだろう」

「そうです。その内容や程度には個人差があるようなのですが、その弱点をつけばあるいは―――、」









「へぇー、流石詳しいんすねぇ、お二方」



 漸く見えてきた勝機に、息巻いていた矢先の事。茶化すような不快な声が、クレイの話を遮った。噂をすれば何とやら。鋭い眼光はそのままに、振り向いたのは二人同時で。


 堂々とバズーカを構えたデックと、対峙する。その場が水を打ったように静まり返る中、有りっ丈の侮蔑を込めた嘲笑だけが、辺りに木霊していた。
























(リーダー、デック……。未だあいつらと戦っているのかしら)



 街の中心を占拠する、大嵐の内部。

 “台風の目”の中心にて一人術を行使するアートは、少しだけ不服そうな表情で溜息を吐いた。この嵐を発動してから、一体どれくらい経ったのだろうか。時間の感覚などとうに無いに等しい。何せ高度な術である為、並々ならぬ集中力を使わねばならないのだ。

 幾ら妖怪といえども、体力は無尽蔵ではない。あんな人間風情などさっさと倒してしまえばいいものを、あの二人は何をそんなに手こずっているのか。




(……じれったい、)


 いっそ残りの妖力を全て注ぎ込み、更に巨大化させた嵐でこの街ごと殲滅してしまおうか。そんな恐ろしい思考が、頭を過った。だがそれは、突如現れた“人間風情”に阻止される事となる。











 ―――ドォオオオオオオオ……ン!!






「ッ!!?」


 地を這うような轟音がアートの全身を震わせた後、何の前触れもなく足許が崩れた。

 一瞬、何が起こっているのか分からなかったが、心臓が浮くような浮遊感で漸く自分が落下している事を知る。持ち前の運動神経で受け身は取ったけれど、見事に陥落した地面を見上げる限り、結構な距離を転げ落ちたらしい。








「今晩はお嬢ちゃん。また会えて嬉しいわ」



 にこりと、目の前に仁王立つのは見覚えのある夕陽色。

 もうもうと立ち昇る土煙で視界が烟る中、自分よりも遥かに大きな人影を、確かに見た。盛大に穴の空いた天上から僅かに注がれる月光が、辛うじて彼女の姿を映し出している。言葉も表情も柔らかいというのに、その瞳は恐ろしい程据わっていた。


「な……っ、貴女、どう、」


 突然の事で混乱を極めるアートは、上手く言葉を紡げずにうろたえていた。何故この女が此処に居る。何故この私が見下されている。一体何が起こったというの。

 様々な疑問が胸の内で飛び交い、取り留めのない言葉が混濁するばかりで、理解が追い付かない。咄嗟に地上を仰いでみれば、先程まで我が物顔で居座っていた嵐が跡形もなく消滅し、街は静寂を取り戻していた。分からない事だらけだが、先程の衝撃で術が解かれた事は確からしい。


 カラン。セメントの破片と共に、大型の金属がサイの足許に落ちて来た。鈍い光を反射するそれ―――彼女の武器である大剣―――を目にしたアートは、ギリ、とばかりに奥歯を噛み締める。




「……その大剣で、天上に穴を開けたって言うんですか。呆れた! 何て野蛮なっ」

「そんな傲慢な事言ってるから、足許を掬われるのよ」


 やれやれ、というように首を左右に振り、身を屈めて武器を拾った。憤慨するアートは尚も言い募ろうとするものの、サイは聞く耳持たず。



「悪いけど、こちとら時間がないの。貴女とお喋りしている暇は無いわ」



 言うが早いか、サイはふわりと大剣を振り被り、上段からの強烈な一撃を見舞った。

 ドゴォン! と大きく地面を穿った攻撃はしかし、目標を捉え損ねて空振りに終わる。小さく舌打ちを零したサイを尻目に、アートは直ぐ様反撃の態勢に入っていた。ゆらりと不安定に立ち上がり、壊れたように口許を歪めるその様は、正に妖怪と呼ぶに相応しい。



「馬鹿なひと。大人しくしていれば、楽に死なせてあげたのに」



 呟いた刹那。アートを取り巻く空気が、一変した。

 文字通り目の色を変え、一定時間呼吸を止める。夜行性の動物のように金色に輝く光彩は、妖力を使う前兆である。サイが大剣を手に身構えていれば、風が音もなく速度を上げ、鋭利なかまいたちとなって体中に細かい傷を刻んでいく。堪らずしゃがみ込んで防御に徹するものの、全方位からの攻撃を完全に回避出来る筈もなく。それでも何とかして術を止めようと、苦し紛れに掴んだ小石をアートに向けて力任せに投げる、が、軌道が逸れたそれは、彼女の頬に小さな擦り傷を作っただけだった









「……ッ! あああああああッ!!」



 ―――筈であったが、何故か彼女は大仰に絶叫した。

 痛みに耐えるように両手で顔を覆い、その指の隙間から覗く表情は苦悶で歪んでいる。荒ぶる風は急激に勢いを失い、見る見る萎んでいった。


「何、何なの? ちょっと掠っただけじゃない」

「―――代償、ですよ」

「代償……?」

「妖力を行使する反動で、身体に掛かる負担の事です。そんな事も知らないんですか」


 訳が分からず呆然とするサイに向けて、アートは苛立ちを隠す事なく吐き捨てた。

 代償。そういえば昔、聞いた事があった。妖怪は人為らざる力を使える代わりに、何らかの犠牲を支払わなければならない。どんな代償なのかは個人によって違うらしいが、発動する術が強力であればある程、負担も大きくなるのだとか。何時だったか、小難しい文献を読んだクレイが(嫌味なくらい丁寧に分かり易く)解説してくれた。



(痛覚の、異常感知……)



 つまりはそれが、アートの代償。随分と酷なものに思えるが、あれだけ大きな術―――大嵐やかまいたち―――を使ったばかりなのだ、その反動も並々ならないものなのだろう。


「妖怪も大変なのね。同情はしないけど」

「それが何だっていうんですか。人間風情には丁度良いハンデだわ!」


 ダッと地を蹴るアートは、前進しつつアーチェリーを構え、ハンドルを最大限まで引く。サイは飛び来る矢を大剣で弾き、その勢いを保ったまま斬り返して猛進するアートを迎え撃った。サイの強烈な一撃をライザーで受け止めたアートは、再びハンドルを引いて矢を放つ。武器を牽制しつつの攻撃となれば流石のサイも防ぐ事が出来ず、無防備になった腹部を容赦なく貫かれた。鋭い悲鳴と低い呻きが壮絶に混ざり合う中、それでも剣を握る手は離さない。ぐ、と柄を握り直し、なけなしの力を全て集約してアートの武器を押し返した。



「悪足掻きもいい所ですね……! 妖怪の私に力で勝てるとでも?」

「あら、それはどうかしら」



 ぐぐぐ。先程まで保たれていた力の均衡が、少しずつ崩れていく。

 これまで余裕の表情だったアートだが、徐々に顔色を変えた。此処まで揺らぐ事の無かった優勢が、初めて傾いた瞬間。



「何かといえばアルに怪力女と馬鹿にされ、イルに今度は何を壊したと呆れられた上、あまつさえクレイにまでもう少し女性らしくと苦笑されたこの私を―――」



 どさくさに紛れて恨みつらみを言い募るサイは、その怒りも手伝って、持てるだけのパワーを全て自らの武器に込めた。もう時間も体力も無い。恐らくはこれが、最後の一撃。











「ナメるんじゃないわよッ!!」





 ―――ザンッ!!!



 (くう)を斬る風斬り音。宵闇に降り注ぐ血の雨。

 滑るように俊敏に、押し留めていたアーチェリーごとその細い身体を断ち切った。肩から肋骨にかけて、斜めに走る傷跡から鮮血が迸る。見事に袈裟斬りを見舞われ、アートは堪らずその場にうずくまった。



「ぐうううう、あああ、痛い痛い痛い痛いいたいいたいいたいいたいイタイイタイイタ―――」



 狂ったように叫ぶアートは、やがて痛みに耐えかねたのか、電池が切れたようにバタリと地に倒れ伏した。完全に気を失い、微動だにしなくなったアートを静かに見下ろすサイは、掌に張り付くほど握り締めていた大剣を漸く手放す。ガクリと膝を付き、そのまま重力に逆らう事なくうつ伏せに倒れた。


 戦闘中に貫かれた腹部から流れる血が、じわじわと赤黒い水溜りを作っていく。

 重い瞼の裏側に映るのは、何よりも大切な仲間の姿。



(護れた。護れたよ。私ちゃんと、あの子たちを)



 朦朧とする意識の中、安堵と喜びを噛み締める。まだ戦いは終わってはいないが、少なくとも自分の役目は果たした。仲間の戦闘には加勢に行けそうにもないけれど、きっと大丈夫。クレイもイルもアルだって、絶対に負けたりなんかしないから。



(どうか最後まで―――レイちゃんと雷佳姫を護って欲しい)



 痺れた頭で、勝利を願う。震える指で、無事を祈る。

 今のサイに出来る事は、ただひたすらに“想う”事だけ。無情にも、彼女の身体は既に限界を超えていたから。嗚呼、どうしてこんなに月が遠い。強烈な眠気と吐き気に同時に襲われ、目を開けていられなくなった。どうやら薬の効力も、底をついたらしい。
















 サイの意識はゆっくりと穏やかに、闇に堕ちていった。

 美しい夜桜と大切な仲間に囲まれた夢を、視ながら。






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