月夜の侵略者
光と闇は、決して相容れる事は無い。
昼と夜がはっきりと二分されているのが何よりの証拠である。金色の空は急速に黄昏れ、月が宵闇を支配する―――逢う魔が時。
ガタッ、ガタガタガタ、
何とも形容し難い緊張感の最中、さざめく風が獣の唸り声にも似た音を立てて乱暴に窓を揺さぶる。先程までは気にも留めていなかった些細な効果音がやけに不気味に思えてしまい、レイは思わず生唾を飲み下した。
驚愕、困惑、牽制、敵意、意味合いはそれぞれ異なっているが、誰一人言葉を発さない―――否、発せない、威圧的で不自然な沈黙が長く続いている。
(……っ、息が詰まりそうだよ……)
未だにこの類の緊張感に不慣れなレイは、目の前に佇んだままの侍女に意識を集中する事で、何とか平静を保っていた。が、ヒュオオオ、と高く鳴く風の音を 耳にした刹那、レイはぎくりと全身を強張らせる。隙間風に煽られて一瞬だけ見えた、スカートに隠されていた渦巻きのような奇妙な形の痣。右足の太股にくっきりと刻まれているそれは、確か“妖紋”というんだったか。その言葉の意味を思い出すまでもなく、少なくとも今現在対峙している侍女が敵であるという事は確かだ。
そう、彼女は人為らざる者―――“妖怪”なのだから。
「今夜は一段と風が荒れていますね。春一番でしょうか」
重苦しい空気をものともせず、先程シンビオスメンバーに毒を盛ったであろう張本人は、まるで世間話でもするかのような調子でつらつらと語り始めた。いっそ穏やかですらある微笑を口許に浮かべている一見可憐な侍女であるが、その白金の瞳には、油断なく静かな敵意を漲らせている。
「―――随分と見縊られたものですね。この程度の小細工で、私たちが負けるとでも?」
開口一番、クレイは言葉の端々に嘲るような色を滲ませて小さく呟いた。恐らくこんな機会でもなければ見る事など出来ない、相手を射竦めるような鋭い眼差し。けれども侍女は尚も微笑みを絶やさず、クレイの視線を堂々と真っ向から受け止めてみせた。
「貴方こそ、我らを見縊られては困ります。確かにエトリーレは即効性に欠けますが、その代わり服用したら最後、時が経つにつれてその効力が表れ、徐々に徐々に身体と精神を蝕んでいくのです。恐ろしい病魔のようでしょう?」
「貴様……ッ!」
平然と残酷な事実を告げる侍女に向けて、アルが文字通り目にも止まらぬ速さで銃口を向けた。が、クレイはそれをやんわりと手で制す。無論、侍女からは片時も目を離さないままで。
「止しなさいアルス、安い挑発です。わざわざ乗って差し上げる事も無いでしょう」
「……ちっ」
アルは忌々しそうに舌打ちを零しながらも、クレイの言葉に従って一先ず銃を収めた。クレイはそれを横目で確認すると、ごく自然な動作でレイと雷佳を庇うように前に立ちはだかり、改めて侍女を問い質す―――問い詰める、と言った方が正しいかもしれないが―――。
「それで? わざわざこんな卑劣な手段を使ってまで、貴女は此処へ何をしに来たんです?」
「卑劣……? 心外ですね。我ら妖怪は、人間と違って周到だというだけですよ―――シンビオスの長、クレイド・ミルフィス」
「―――我々の情報は既に調査済みという訳ですか。では、せめて貴女が何者かだけでも話して頂きましょう。嗚呼、ついでに貴女の同志についても教えて頂ければ有難いのですが」
見透かしたようなクレイの言葉を聞いた途端、初めて侍女の表情に変化が表れた。余裕じみた笑みは消え去り、眉間に小さな皺が寄る。何故それを、とでも言いたげな侍女の様子に、今度はクレイが微笑を湛えてその疑問に答えた。
「今も、そして先程も“我ら”と口にしていたでしょう。誰の差し金かは知りませんが、貴女の他にも未だお仲間が潜伏しているのではないですか」
侍女の目が驚きに見開かれている所を見ると、どうやら図星であるらしい。彼女は一瞬だけ唇を歪ませたものの、次の瞬間には笑みの形に吊り上がり、何処か楽しそうにも見える嬌笑を洩らした。
「ふふっ、ご名答。中々面白い人間も居たものですね。貴方の聡明さに敬意を表して、ほんの少し情報を差し上げましょう。―――私の名はアーティリー・ケアル。レジスタンス組織である“カロディルナ”の一員です。そして貴方の推察通り、我が同胞である妖怪が、あと二名この街に潜伏しています」
拍子抜けする程あっさりと情報を洩らしてくれた侍女―――基アートであるが、恐らくそれは、彼女等が不利にならないぎりぎりのインフォメーションに過ぎないのだろう。肝心な情報は伏せたままで、要点だけを仄めかす。良くも悪くも、妖怪というものは総じて賢しい生き物であるようだ。
「レジスタンス組織……」
クレイは慎重に彼女の言葉を反芻しつつ、苦々しげに目を細めた。
レジスタンス―――、権力に与する事を良しとせず、武力を以て抗う抵抗運動を推奨する者達の総称。過激派ともなれば、無差別に理不尽なテロ行為に及ぶ事も厭わない危険な反逆者である。詰まるところ、彼女らは人間による支配、及び人間との共存、並びに平和的解決を全否定し、人間と真っ向から敵対しているという事だ。
成程、とクレイは皮肉げな笑みを浮かべる。となれば、彼女らの目的は只ひとつ。
「要するに、貴女方はこの国を武力で潰そうというのですね?」
「ええ、その通りです。その為には先ず、目障りな王女に消えて頂かなければなりません」
余りにも淡々と紡がれた非情な言葉に、瞬時にしてその場の空気が凍り付いた。何の感情も浮かんでいない冷めた瞳が、しかと雷佳を捉える。それを視認するや否や、シンビオスメンバーは統率の取れた無駄の無い動きで各々武器を構え、素早く戦闘体制に入った。しかし、意に反してアートは一向に戦う気配を見せない。それ所か、驚いた事に丸腰をアピールするように軽く両手を挙げてみせたのだ。
「そう怖い顔をしないで下さいな、直接手を下すのは私ではないのですから」
小さく首を左右に振るアートに、その場に居る誰もが怪訝そうに眉を顰めた。アートの意味深な言動に翻弄され、何時の間にか彼女のペースに嵌っている。
―――その事に気付いた時には、もう遅かった。
「ほら、見えてきましたよ。争いの火種が」
アートはゆっくりとそう言うと、視線だけで窓の外を示した。
薄暗い街中に、ぽつぽつと疎らに浮かび上がるオレンジ色の明かり。それも一つや二つではなく、続々と列をなして城の方へと向かっているのが見て取れる。それが篝火を持った市民だと気付くのに、さして時間は掛からなかった。
「あれは、街の者達!? 一体何故こんな―――!」
雷佳が悲鳴じみた声を上げても、不気味な行列は歩みを止めない。まるで歴戦の兵士のように武器を携え、迷いの無い足取りで此方に向かって来ている。だが、恐らく其処に彼らの意思は伴っていないのだろう、ぼんやりと炎に照らされた顔面は夜目でも判別出来る程蒼白く、全くと言っていい程生気が感じられなかった。
その様子を目にして、イルが何かに気付いたようにはっと息を呑む。
「……やはり、あの時エトリーレの芳香を街中にばら撒いていたのはお前達の仕業か」
絞り出すような低い声音で、イルはアートに詰問した。
鋭く睨め付けられた彼女は、肯定の代わりに裂けた傷口のような笑みで応える。
「言ったでしょう。我ら妖怪は周到だと」
悪びれた様子もなくそう言ってのけるアートを見て、イルはギリ、と奥歯を噛み締めた。あの時、即ちパレードの最中にうっすらと感じた、桜の香りに混じっていた不自然な甘い芳香。その時は、何も確証が無かった為報告するしか為す術が無かったとはいえ、その時点で自分が原因を突き止めていれば―――。
けれど、今頃歯噛みした所で正に後の祭り。幸い気付いてから直ぐに撤退したイルは無事だったが、長時間に渡って街中に出ていた市民達は、エトリーレによって妖の傀儡に成り果ててしまった。
「間も無くこの国は、我らの手に墜ちる」
呪詛のように響いた不吉な言葉が、冷えた大気を震わせる。
荒ぶる風によって、篝火の炎が一層勢いを増したのが遠目に見えた。
「煽られた火種は瞬く間に燃え広がり、やがて地獄の劫火と化すでしょう」
アートの自信に満ちた表情を見れば、その言葉がハッタリでない事は明らかだった。
彼女達は本気で、人を、街を、国を、戦火という名の大きなうねりに呑み込もうとしているのだ。
「それでは、ご武運を」
「Io sono protetto da una Artemis」
―――ガシャアアン!!
アートが何事かを呟いた直後の事。その言葉が合図だったかのように、突如けたたましい音を立てて部屋の窓硝子が割れた。
反射的に目を瞑ってしまったのは刹那にも満たない僅かな時間であった筈だが、アートが逃げおおせるには充分な隙であったのだろう、ひらりとココアブラウンの長髪が宙に舞ったかと思った時には、既に彼女の姿は闇に溶け消えていた。後に残されたのは、粉々に砕けた硝子の破片とシンビオスメンバー、そして雷佳のみ。
「なっ、何だったのよ今の。何かの呪文……?」
「いや、恐らくは只の常套句だろう。風に飛ばされた小石が、タイミング良く当たって窓が割れただけだ」
呆然と立ち尽くすレイに、イルが冷静な口調で答えてくれた。その視線を辿ってみれば、確かに窓辺の近くに小石が転がっている。どうやら彼の言う通り、アートの妖力によるものではないようだが、偶然にしては余りにも出来過ぎているようにも思えた。
「“Io sono protetto da una Artemis”―――女神の加護は我に有り、ですか。天が自分達に味方しているとでも言いたいんですかね」
小さく独り言つクレイの表情は何時もの笑顔であったものの、その声音には明らかな嫌悪、或いは憎悪が滲んでいる。彼の苛立ちを肌で感じたシンビオスメンバーは、揃って沈痛な面持ちになった。残念な事に、クレイの言葉が真実なのだとしても何ら不思議はない。
この世は何時だって、不条理なのだから。
「おい、暢気に喋ってる場合じゃねぇぞ」
ピリピリと殺気立ったアルの声音に、俯きがちだったシンビオスメンバーはハッと顔を上げた。
階下の方がやけに騒がしい。激しく言い争っているような怒声と共に、無数の足音が此方に向かって来ているのが聞こえる。エトリーレによって洗脳された市民達が、とうとう城に乗り込んで来てしまったのだ。
痛いくらいに張り詰めた空気の中、アルが扉を見据えたまま口火を切った。
「クレイド、―――命令を」
恐らくその言葉は、此処に居るシンビオスメンバー全員の総意。誰もが自分達の長を頼って視線を送り、次の言葉を待っている。
指示を仰がれたクレイは、一般市民が相手だという事で多少なりと戸惑っているのか、瞳を伏せて黙り込んだままだ。しかし、やがて短い黙考の末に目を開けた彼は、早くも全ての迷いを断ち切ったかのように凛然としていた。それはきっと、泰然自若たるリーダーとしての表情なのだろう。
「サイとイルジクトは、私と共にこの場で市民を迎え撃ちます。扉が開くと同時に奇襲をかけて先制攻撃を仕掛けますので、そのつもりで。アルスとレイさんは、私達が彼らを抑えている間に雷佳様を安全な所にお連れして、先の妖怪を追って下さい」
「ク、クレイド! こんな時に何をと思われるかもしれないが、その……」
テキパキと指示を出していくクレイの言葉を遮って、雷佳が珍しく大声を上げた。視線を泳がせ、言いにくそうに口ごもる彼女の様子に何かを察したのか、クレイは深く頷いてニコリと笑ってみせる。
「承知していますよ、姫君。―――残留組は、出来るだけ市民を傷付けないよう留意して下さい。彼らへの攻撃は、基本的に峰打ち、もしくはそれに準ずるもののみを許可します」
「了解!」
見事に雷佳の意を汲んだ命令を聞いて、彼女は心底ほっとしたように息を吐いた。それを目の当たりにして、レイは自分達のリーダーであるクレイを、改めて誇らしく思う。
「何をなさいます、其方には姫様が……きゃあああっ!!」
そんな小さな喜びも束の間、扉の外から洩れ聞こえる侍女の悲鳴に、レイは改めて気を引き締めた。
しっかりしなきゃ。そう自分に言い聞かせ、否応なく沸き上がる恐怖に耐えるように強く拳を握る。今迄戦闘に関しては蚊帳の外だったレイが、初めて自分の役目を与えられたのだ。アルと共に雷佳を連れて此処から脱出し、アートを追撃せよ、とクレイは彼女に命じた。まだ正式にシンビオスメンバーになっていないとはいえ、気持ちの上では既に彼らの一員なのだ。であれば、少しでも彼らの役に立ちたい、と強く想う。
―――バンッ!
やがて扉が乱暴に開け放たれたと同時に、大勢の市民が恐ろしい勢いで雪崩れ込んで来た。クレイがそれを見計らったように素早く黒いボールのような物を投げ付ければ、忽ち目が眩む程の光が部屋に満ちる。
「はあああああッ!!」
クレイが投げた黒いボール―――閃光弾によって怯んだ一瞬の隙を付き、部屋の奥に待機していたサイが一足飛びで前線に飛び出し、勢いそのままに大剣を真横に振るう。峰打ちとはいえ、自慢の怪力で繰り出される斬撃の威力は凄まじく、たった一太刀で先鋒に居た市民を一斉に薙ぎ倒した。その風圧で、彼らが手にしていた篝火は残らず掻き消えている。
虚を突かれてドミノ倒しのように総崩れになった市民達だが、余り痛みを感じていないのか、直ぐにゆらりと起き上がって態勢を立て直してしまう。
「くっ、これじゃあキリがないわ」
サイは大剣を地面と平行になるように持ってバリケードを作り、部屋に侵入しようとする市民を力技で押し留めていたが、多勢に無勢ではそれも長くは続かない。その上じわじわとエトリーレの効能が表れているようで、剣を支える細腕は小刻みに震えていた。
「もう駄目、身体が痺れて力が……嗚呼ッ!」
健闘空しく、ついにサイの大剣が弾かれた。
戒めを解かれた市民達が、再びどっと部屋に攻め入って来る。クレイとイルがすかさず前に出て彼らを迎え撃つが、やはり効果は薄いようで。
「何とも厄介ですね、此方は決定打を放てないというのに。―――サイ、大丈夫ですか?」
クレイは手慣れた剣捌きで市民の攻撃をいなしつつ、蹲ってしまったサイに声を掛ける。彼女は苦しそうに顔を歪めながらも、大丈夫だと言うようにヒラヒラと片手を振って応えた。
そういえば、サイファンさんはあのエトリーレの紅茶を気に入って結構飲んでいたっけ、とレイはつい数分前まで和やかだった出来事を思い返し、同時に疑問が浮かぶ。一度も紅茶に口を付けなかったイルや、そのイルに紅茶をおじゃんにされたアルは兎も角、クレイもそれなりに紅茶を飲んでいた筈なのだが。
ドガッ、バキッ、ザンッ
何故か涼しい顔をして戦っている。
「クレイドさん、身体平気なんですか?」
「あはは、毒には多少耐性がありましてね。まぁ、それでも少しは痺れますが」
「…………」
この人は今迄どれだけ暗殺されかけたんだろうか、などと空恐ろしい想像が咄嗟に頭に浮かんだが、触れてはいけない気がしたので口には出さなかった。
「そういうレイさんこそ、平気そうですね?」
「あ……」
そう言われればそうだ。クレイに指摘されて初めて気付いたらしく、レイは試しに自分の掌を軽く開閉して動かしてみる。特に違和感は感じない。自分はクレイと違って毒に耐性など無い筈なのだけれど、どうして何ともないのだろう。効果が表れるのに個人差があるにしても、全く効いていないというのはやはり不自然に思えた。
―――ガキィン!
そんなレイの思考を掻き消すように、鋭い剣尖が目と鼻の先で火花を散らせる。気付けば市民達による包囲網は徐々に狭まっており、じりじりと壁際に追い詰められつつあった。
「そろそろ限界のようですね―――アルス、行けますか?」
「誰に言ってる、当然だろ」
「ふふ、頼もしい事ですね。では、雷佳様とレイさんを頼みますよ」
「嗚呼」
クレイとアルは互いに頷き合うと、それぞれ自分のやるべき事に意識を集中する。
交わす言葉こそ少なかったが、彼らにはそれで充分だった。切羽詰まった戦場に於いて、言葉に頼るよりも有益とされるのが、仲間同士のアイコンタクトによる意思疎通である。恐らく彼らだけではなく、シンビオスメンバー全員が、自然とその要領を心得ているのだろう。
きっとそれこそが、揺るぎない信頼の証。
「僕が三つ数えたら威嚇射撃して奴らの動きを封じるから、発砲と同時に全速力で走れ」
アルは早速退路を探っているのか、忙しなく視線を動かしながらレイと雷佳に向けてそう指図した。二人が同時に頷いたのを確認すれば、彼はスッと銃を持った右手を掲げて合図を口にする。
「ひとつ、」
ぽつりと、小さく零れるアルの声が奏でるカウントダウン。
「ふたつ、」
緊張と不安で、握り締めた掌にじわりと汗が滲む。上手くいくだろうか。
「―――みっつ」
パンパン、パァン!
甲高く響き渡る銃声に、市民達が一瞬だけ身を竦めた。その機を逃さず、走れ、と鋭く叫ぶアル。
その号令に追い立てられるようにして、レイは爪先に力を込めると、強く地を蹴って扉の外へと転がり出た。多くの市民がひしめく隙間を縫って、長い廊下を一気に駆け抜けて行く。ちらりと後ろを振り返ってみれば、ちゃんと雷佳も付いて来ているようだ。良かった、と小さく呟いたレイは、次いでキッとばかりに回廊の先、つまりこの城の出口に焦点を合わせた。後は先導するアルを見失わないようにしっかりと前を見据え、千切れんばかりにひたすら走り続けるのみ。
―――の、筈だったのだが。
「逃ゲタ、」
「姫ガ、逃ゲタゾ」
やはりというかそう上手くいく訳もなく、遅ればせながら三人の逃走に気付いた市民達が、一斉に武器を投げ付けて来た。短剣や鉈、槍に至るまで、ありとあらゆる武器が雨霰の如く凄まじい勢いで降り注いで来る。それらはあからさまに雷佳を狙い、どう見積もっても避ける事は困難なスピードを伴って、真っ直ぐに此方に飛んで来ていた。
「―――! 危な……」
「危ないっ!!」
いち早く危機に気付いたアルが身を翻すよりも早く、雷佳を庇って前に飛び出したのはレイだった。両手を広げてきつく目を瞑り、数秒後には襲って来るであろう痛みに備えて全身を強張らせる。
「…………?」
ところが、何時まで経っても武器の嵐が襲って来ない所か、何の痛みも衝撃も感じない。代わりにカラン、といくつもの乾いた金属音が木霊し、先程まで勢い良く唸りを上げていた武器は、それ切り沈黙した。何が起きたのかと恐る恐る目を開けてみると、市民達の武器に混じって、見覚えのある小型ナイフが地面に転がっている。どうやらイルが咄嗟にナイフを投げ、それを武器に当てて軌道を逸らしてくれたらしい。
彼の攻撃は更に続き、直ぐ様放たれた第二射。今度は武器ではなく、武器を投げた市民等を狙った直接攻撃である。シュッ、と風を切る音と共に、鋼の刀身が瞬時鮮やかな銀の光を放ったのが辛うじて目視出来たものの、常人、増してや素人にその軌道を読む事など不可能に近い。
「ぐあっ!」
「ぎゃあッ!!」
ドス、という命中を示す重い刺突音が、辺りに反響する。軽量で小さなナイフは重力に逆らって空を切り裂き、繊細なコントロールによって見事にターゲットを貫いた―――但し、肉ではなく彼らの着ていた衣服を。
そう、彼らはうつ伏せに倒された格好で、ナイフによって床に縫い留められたのだ。
「悪いが大人しく寝ていて貰おう。―――今の内だ、早く行け」
残った市民達を懸命に抑えながら、イルはレイ達を促すように出口を指し示す。我に返ったレイは慌てて立ち上がると、雷佳の手を引いて再び疾走した。
どくん、どくん。高鳴る鼓動は止む事を知らず、絶えず悲鳴を上げるように大きな音を立てて躍動している。レイは震える足を必死に宥めて走り続けながら、込み上げそうになる涙を堪えようと宙を仰ぎ見た。怖い、怖くて堪らない。確実に差し迫って来る争いの渦に、今にも呑まれてしまいそうだ。けれど、それよりも遥かに勝る感情は、
(何の罪もない市民の人達を争いに巻き込むなんて……酷いよ……!)
煮え滾るような、怒り。
シンビオスメンバーのような軍人であればいざ知らず、戦闘のイロハも知らない一般人に戦いを強要し、あまつさえ彼らが誰よりも慕っている姫を襲わせるだなんて。外道、などという言葉は妖怪には通用しないのだろうけれど、余りにも理不尽かつ無慈悲な仕打ちではないか。
(これ以上、妖怪の好きになんかさせるもんですか)
レイは吐き捨てるように胸中で宣言し、雷佳の手を強く握った。
絶対に護ってみせる。彼女も、彼女の民も、彼女の国も、何一つ奪わせてなんかやらない。自分には妖怪を倒すだけの力なんてないけれど、こうして彼女の手を握って護る事なら出来る筈だから。
(例え剣を握る腕が無くたって、)
私は私のやり方で戦い抜いてみせる。この手が非力だというのなら、せめて心だけでも毅然と強くあればいい。その答えに辿り着いた時、レイは少しずつ心が軽くなるのを感じた。
とはいえ、直接的な戦闘になれば、専らアルに頼らざるをえないだろう。まだ怪我が完治していない彼の負担を少しでも減らす為にも、せめて雷佳だけは自分がしっかりと護らなければ。目前で滑走するアルの背中を追い掛けながら、レイは己の役目を再確認する。
決意は固めた。覚悟も決まった。後は彼女を護れるだけの、勇気さえあれば。
冷たい風が舞い躍る、朧月夜。
猛り狂う炎はいよいよ勢いを増し、天にも昇る大火となって容赦無くレイ達に襲い掛かる。皮肉な事に、目出度い筈の今日という特別な日に、戦端の火蓋は切って落とされたのだった。




