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甘い芳香の罠

 等間隔に立ち並ぶ褐色やら乳白色やらに塗られた瓦造りの建物、商業の盛んなこの街は何時だって盛大な盛り上がりを見せているものの、本日ばかりは少しだけその盛り上がりの方向が違っていた。



「雷佳さまー!」

「姫様っ! 本日はおめでとうございます!」


 普段は沢山の品が並ぶ大通りの商店も今日ばかりは店を閉め、我が店へ背を向けては他大勢の国民と共に声を張り上げて己の思いに熱を込める。主を白銀、赤銅で固め、少しの黄色(おうしょく)でアクセントを与えられた実に豪奢な馬車に向かい、俗にいう黄色い声援を浴びせている訳であるが、そのひとつひとつがしっかりとその装飾された馬車の乗客に届いているのかと問われれば確実に否であろう。けれどそれは気持ち次第なのだ、自分達の住むこの国を、自分達と共に愛してくれている若き姫君に声援を―――この国の人々は、皆で一体となって彼女に伝えたいだけなのだから。


「姫様! これからも頑張って下さい!!」

「雷佳さまは世界一の良き姫様にございます!!」


(―――気持ちの良い声援だな)


 近衛兵達の作る馬車道から少し外れた―――それでいてしかと馬車を捉えられる場所に立ち、イルはレンズ越しに見据えた光景に対してそう考えた。誰もが若き姫を愛し、心から溢れ出る思いを抑制することなく言葉にする、―――彼等の知らない秘密を知ってしまっていることで少々複雑な心境であることも事実なのだが―――そんな気持ちの良い声にイルは心地良さそうに若干双眸を細めた。

 イルの視線が捉えるは、馬車の上の若き姫、―――否、数週間前からギルドに住み着いた一人の小娘。靡く黒髪と薄桃色の瞳は日に照らされ光沢を放つ真白いヴェールによって若干遮られているものの、はたから見れば彼女は完璧に雷佳その人に見えることだろう。少々のぎこちなさを残しながらもにこりと笑みを浮かべながら手を振る彼女、四方八方から飛び交う声援に合わせくるくると忙しなく動くさまは姫に似つかわしく無いんじゃないか、など思っていたのは数秒前までで、彼女なりに必死に応えようとしているのだと気付けば黙って見守ることにしたのだった。


(及第点、といったところか)


 他では滅多に見られない分かりやすい笑みを浮かべ、背後の家の一角の柱に凭れ掛かった。このまま何も起こらずにこの桜の芳香と共に在れれば―――と、己の中に響いたその言葉で、イルの緩んでいた表情が引き締まる。桜の芳香―――涼しげな風に誘われるこの嗅ぎ慣れた甘い匂い。誰が居るとも見えないくうへ視線を左右スライドさせ、視界には映らないその香りを感覚だけで捉えればイルはひとつの違和感に気付く。




 ―――桜の芳香は、こんなにも―――







 ガガッ






 その思考とほぼ同時、イルの耳にだけ届いた雑音に眉を潜める。左耳に装着していた黒のインターカムからの音に透かさず手をやれば、雑音の中から聞こえる声を逃さぬように集中する。


「誰だ、……クレイドか?」

『―――あ、―――あー、聞こえてる? 聞こえてたら応答―――』


 シンビオスのギルド員専用コードで繋がれたインターカム―――インカムと略されるそれから聞こえてくる声、腕の良い技師に作らせたものとはいえそう広い範囲で使えるものでは無い。奇跡など考えなくとも今このインカムに連絡が出来るのは今回の護衛任務に付いている五人―――レイには渡されていないので、実質は四人―――だけのはずなのだが。


(クレイドの声では無い……? しかしそれにしてもこのノイズは……)


 普段ならば嫌という程鮮明に聞こえる声が耳に届いて来ない、何等かの妨害が働いているとしか思えない音だが、先程クレイドから入った通信ではこんなことは無かったはずなのだが。外を警戒して国が妨害電波でも発信しているのかもしれない、そう考えつつイルはどうにもならないと知っていながらもトントン、とインカムを二度指先で叩き、「聞こえている」と一言応答を入れた。


『―――近くまで来て―――』

「すまない、聞こえてはいるがはっきりとは聞こえない、外を警戒しているのか電波が邪魔をしている」

『―――チッ、―――待ってろ』


 ブツンッ




(……誰だったんだ? ―――まさかな)


 ひとつの舌打ち―――その背後では何故かどたばたといった効果音が聞こえたが黙殺することにした―――と共に切れた通信を訝しげに思いつつも、最後の言葉だけ聞き取れたこともあって怪しいとは思わなかったイル。どうするかと頭を悩ませるものの声は“待ってろ”と言っていたので、此処は素直に待つべきか、とイルは一度柱から離れた背を再び元の位置に戻す。声の主に覚えが無い訳では無いが、言い切るだけの言葉を交わすことが出来なかった、ひとつ溜息を付きつつ地を捉えていた視線を再びパレードの方へと向け、今はもう通り過ぎていった馬車の後ろ姿を暖かい眼差しで見送った。



「雷佳さま、今日は一段と元気だったな」

「何てったって式典ですもの! 雷佳さまらしいわー!」


「というか今日の姫様、何だか色っぽかったというか……」

「確かに、何だかふわふわしてきたよ……相変わらず美人だったなー」



 消えていった姫を自分同様に見送る国民たちの会話、何の変哲も無いはずの会話がやけに耳に残ることに先とは違った意味で眉を潜め、イルは他の皆が待機する王宮の方角へと身を翻した。


「わっ、……と、人込み動くと危ないぜ、おにーさん。桜の香りに酔っ払ったか?」


 幾ら人の波から外れているとはいえ、人が居ない訳では無い。いきなり身を翻したことで近くに居た青年にぶつかりそうになった。


「嗚呼、すまない、急いでいてな」

「いーってことよ、気をつけな」


 首元にゴーグルを下げたその青年はニッ、と口角を吊り上げるだけの笑みを見せて道を譲ってくれた。イルはもう一度すまない、と言い残してすたすたと歩を進める、アルにもこれくらいの表情豊かさがあればな、と思ったことは誰にも言わないつもりである。

 イルは脳内を切り替え、不可思議な通信が入った時に思っていた思考を引っ張り出す。嗚呼そうだ、気付いてしまえば造作の無いこと、春の国楼銀に住む国民や、桜の匂いに不慣れな他国民、要するに主犯格以外誰も気付きはしないことなのだ―――実際イル自身、分かっているのは異常だということのみ―――。



(予測の範囲内でしか俺には分からないが、今から対処出来るのか―――?)



 普段から判断し兼ねる表情に若干の苦悩の表情を浮かべ、イルは進める歩を一層は速める。とりあえず伝えるしか無いのだろう、パレードの後に行われる王宮でのパーティに際し残る他の奴等に、―――そう思ったのだが。




「……そうか、その手があった」


 くるり、と。

 王宮に近付くに連れて減っていく国民は皆行列のように姫の乗る馬車を追っていったのだろう、閑散としてきたその場所―――王宮と市街地の中間地点の小さな丘にまで辿り着いていたイルは四十五度進行方向をたがえ、王宮でも市街地でも無いともかく人が誰も居ないであろう場所を目指した。

 かつんかつん、再び二度インカムを指先で叩けば先程までの雑音は一切拾えず、やはりか、とイルは思う。思惑通りの内実にはピクリとも表情を緩めず、今度は此方から先の通信相手だと思われる人物の名を呼んだ。




「聞こえるか―――ソラリア」


『―――聞こえてるよ、イルジクト』




 己の内心のみでガッツポーズを決めたイル、確率は非常に低い、首の皮一枚が繋がった気分とはこういうことを言うのだろう。しかし今はそれで充分だった、このインカム通信が繋がったことが後の起死回生になるのだと、イルは疑わなかったのだから。




















「董雷佳殿、本日は誠におめでとうございます」

「う、うむ、恐縮である!」


 パレードが終わり、影武者雷佳こと浅倉レイは正午から大広間で開かれる100周年記念パーティ―――要するに式典第二関門―――へと参席していた。入れ替わり立ち代り国のお偉いさん方(※レイの見解)から賞賛の言葉を頂戴しているものの誰が何なのだか全く理解出来ていないレイは先程からレイ的には偉そうに聞こえる一言でその場を乗り切っている―――乗り切れているかどうかは危ういのだが―――。


(ふぁ、また人が来た……! もうどうすれば良いの!? 私ってば生まれも何も一般庶民なんですってば~!!)


 顔がヴェールで隠れているのをいいことに、レイは先程から滝のような汗を流し続けている。豪勢なシャンデリアのお陰でヴェールに反射しそれが誤魔化せているのだが、隣に居る御付の侍女たちにとってはさぞ冷や汗ものなのであろう。




「レイちゃん、大丈夫かな……?」

「安心しろ、勿論無理だろ」

「おやアルス、それ安心させる気ありませんね?」


 其処から数十メートル離れた大広間の一角、イルを抜いたシンビオスの面々は三者三様な態度を見せつつその様子を伺っていた。「外でやることがある、パーティでの護衛は任せた」と通信が入ったイルのことは誰一人微塵も心配していないのだが、彼とは違い想像以上のテンパリ様を見せる偽王女に誰という訳でも無く失笑が零れた。


「パーティくらい、雷佳さま自身に任せた方が良かったかも……?」

「そうかもしれませんが、ああやって言葉を交わす招待客の中に紛れているかもしれませんから気は抜けませんよ」




 ―――気をつけろ、やはりただでは終わらせてもらえそうに無い。




 先に入ったイルからの無線の最後の言葉である。直ぐに切れたその言葉の真意は分かり兼ねるが、彼の生真面目さと勘程度で物事を言わない性格を熟知しているクレイド他二人は真剣な眼差しでレイを見遣った。


「レイちゃんには、指一本触れさせないわ」

「ええ、期待していますよ」


 その中でも際立って鋭利な視線を漂わすサイに、一転して普段通りの柔和な笑みを向けるクレイ。さて、とひとつ前置きを入れれば通り掛かったボーイからワイングラスを流れ作業で受け取り、「それでは私は外れますね」と一言紡げば優雅な足取りで二人の元から去ろうとする訳で。


「え? ちょっとクレイ、何処に行くの?」

「我がギルドと懇意にして頂いている方がちらほらといらっしゃいますからね、挨拶に回ろうと」

「今!? だってさっきイルが無線で―――」

「だからと言って無碍には出来ないでしょう? 大切な我がギルドの理解者を」


 っていうかお前未成年なのに何ワイン受け取ってんだよ、なんて考えているアルを挟む形で討論をする二人。身に纏う若草色のドレスと夕陽色の長髪を揺らす彼女に優しげな笑みを向ける紳士的な彼、周辺の人から見れば目立っていることこの上ないのだが、本人たちは一切気付いてないのだろう。

 結局のところ決め手となったのはクレイの言葉で、



「―――貴女が破壊した建造物や、貴女―――いえ、これは主にアルスですね、が痛め付け過ぎた標的ターゲットの後始末に貢献下さっている方々に挨拶も無しで良いと?」



 ―――ということだった。サイだけでは無い、アルですら無表情のまま視線を外した。この時ばかりは何も言えなかった破天荒コンビ、耳覚えにあり過ぎて反論出来なかったというものあるが、何せクレイの視線が新鮮にも実に辛辣なものだったから。二人に悪気が無いことはクレイだって分かっている、が、―――ギルド長として、超えられない壁がある、ただそれだけなのである。





 クレイが去ってから。去るといっても大広間に居るのは分かっているし、時折姿を伺うことも出来る距離間なのだが。


「……うう、クレイったら楽しそうに話してる……」

「そう恨めしそうに見るな、浅倉レイの件はもうお前の頭には無ぇのか」

「ああ! あんなにデレデレしちゃってあの女の人! 絶対クレイに気があるんだわ!!」

「僕の言葉無視か貴様」


 既にクレイ周辺の人間以外アウトオブ眼中なサイに呆れたように溜息を付けば、何気無く辺り一面に視線を向けた。実際のところパーティ中に何かが起こるということは無いだろう、とアルは踏んでいた。多くの著名人が出席しているパーティというのはその分警備が重々になされているということだ、イルの言葉が引っ掛らないと言えば嘘になるが、パレードで何も無かったのにこのパーティで何かあったとすれば相手は随分な自信家であると考えられる。



(まぁ逆に、パーティ中に何か起きれば相手にそんだけの実力があるかもしれねぇ―――ってだけだが)



 すっかり警戒心の解けているサイに代わりちらりとレイの様子を伺うアル、未だ沢山の人の波に呑まれかけているようだがその辺りに妖しい気配は存在しない。細めた蒼色でそれだけを確認すれば安心したようで、己の右腕のグローブをぎゅっとはめ直し、握ったり開いたりを数回繰り返した。

 ―――それから。



「行くわよアル!!」

「ッ!? な、何処に行く気だ?」

「こうなったらヤケ食いよっ! ああもうクレイの馬鹿ー!!」


 直していたはずの左手首を掴まれ、あっという間にその場から移動させられるアル。気付けばサイが怒ったような表情で彼の腕を掴んでいて、連れ去られたその場所を見れば出席者の為に設けられたバイキングエリアだということに気付く。そんなアルの理解を待つこと無く大皿を持ちひょいひょいと手際良く食事を盛り付けるサイは自身がドレス姿なのを忘れているようで、「食べなきゃやってらんないわよっ! ああもうクレイの馬鹿……」なんてぶつぶつ呟きながら次から次へと食事を盛り合わせている。一見美麗な淑女がそんなことをしているのだから見慣れているアルはさておき、辺りは少々騒然としたのだが当の彼女が気付く訳も無く。


「……そんなことしてるんなら、クレイドに直接言や良いじゃねぇか」

「……」

「―――乙女心とあいつの補佐としてのプライドに板挟みなサイファンなのであった、ってか」

「なっ……か、勝手に人の心を読まないこと!」


 当たってんのかよ、と呟きつつもこれ以上言ってへこたれられても仕方が無い、アルはひとつ溜息をついてからそんなサイに付き合ってやることにしたのだった。


 勿論―――偽姫様の様子を伺うことは、刹那も忘れずに。



















「皆、お疲れ様だった」


 薄桃の双眸を部屋に居る全ての者に向け、今の今まで部屋に篭らされていた本当の雷佳は出来るだけ言葉を崩して言った。


「ありがたきお言葉、謹んで頂戴致します」

「そう畏まらずとも良い、妾の影武者などという危険な依頼を見事にこなしてくれたのだからな」


 恭しくお辞儀をするクレイドににこりと笑みを向け、雷佳は己が座るソファから立ち上がった。



 ―――パーティが終わり。

 雷佳の居る奥の部屋へと通されたシンビオス一行―――途中合流したイルと、主に精神面を疲労したレイも込みである―――は、奥の隠し部屋といえどだだっ広い其処に案内されそう雷佳の言葉を受け取った。ひとつの木製机の四方を囲む紅赤のソファに座るのは奥の雷佳から向かって右にレイ、左にサイ、そして正面のソファ前に立ち礼を入れたクレイ、他二人は空いていれども座る気配が無く、壁に凭れるイルはともかくアルに至っては壁際に置かれる骨董品のようなものを見つめていて、会話を聞いているのかどうかも危ういのであった。

 先程侍女の運んできた甘美でとろけそうな程の匂いを発する紅茶を片手に、ソファに付く面々は言葉を交わす。



「特にレイ、そなたこそ大儀であったぞ。慣れぬことをさせてしまってさぞ疲れたことであろう、此度はゆっくり休んで欲しい」

「へっ!? いえ、私は全然大丈夫ですよっ! 第一あんな格好滅多に出来るものじゃないので嬉しかったです!」


 右方に向けられた雷佳と目が合ったのは勿論レイで、彼女からの暖かな心遣いにあわあわと手を振れば、にっこりと笑って自分の無事と感動を目の前のお姫様へとぶつけた。ぶっちゃけ一度口に含んだ紅茶が熱過ぎて慌てていたなんて事実があるのだが其処は見なかったことにしておいて欲しい。私って猫舌なのかなぁ、なんて、正面で順調に同じものを飲み進めるサイを見ながらレイは思った。


「こんなに綺麗なお姫様の影武者なんて滅多に出来ないですし、役不足なのは承知で、とっても楽しかった! って言わせて貰います!」

「ふふっ、それならば良かった、このような服が気に入ったのなれば、土産に持っていくといい」


 妾一人では手に余る程ある、と続けたただ今の雷佳の召物は、チャイナ服はチャイナ服でも黄色を基調とする実にシンプルなものであって、髪は結い右側でシニヨンにしていた。しかしどんな格好でも感じるこの色香は一体何なのだろうか、なんて思ったのはきっとレイだけでは無いと信じている。シンビオスの面々の格好はと言えば元から変化の無いクレイとイル、そして雷佳スタイルから一転し元のサイのお下がり―――というものの実は結構気に入っていたりする灰色斜めストライプのブイネックを着るレイの三人他二名が未だ正装のままこの場に居合わせる形となっている。着替える時間が無かった、という訳でなくその服装を気に入ってしまったサイが自分ひとりそのままで居る勇気が無く、アルに頼み込んだ―――またの名を強制した―――為にまばらな格好をしている面々が出来上がった訳だが。


「良かったですねレイさん、素敵なお召し物が増えて」

「え、ほ、本当に良いんですか……?」

「嗚呼、妾はそなたに受け取って欲しい、感謝の印としてな」




「―――未だ終わってはいない」



 紅茶のティーカップを優雅に持つクレイと照れた様子を見せるレイ、感謝を述べる雷佳との間に凛と響いた声は、誰かが誰何すいかを問う前に続き発せられる。


「恐らくは此処からが本番だ、楼銀の姫よ」


 入口近くの壁を背に、レンズ奥の桔梗色が彼女を射抜く。その真剣な眼差しに雷佳は笑顔を正し、何があるのだ? 、と彼に問う。


「未だ判断し兼ねる事項だが、このままでは終わらないと見て間違いは無いだろう」

「―――や、やだなぁイルジクトさんったら。これから何かあるなんてそんな―――」



「失礼致します、お紅茶のお代わりは如何ですか?」



 無理矢理にそう思う込むだけの為に紡いだレイの言葉を遮るように、なんとも絶妙にその雰囲気をやんわりと制すように。先の侍女が部屋に入ってきては新たなるティーポットを運んできた。


「何があるかなんて分かりませんが、そうやっていると疲れが取れませんよ、イルジクト」

「そうよイル、少しはこっちに来て座らないと!」


「医者が倒れてちゃ洒落にならねぇぞ」

「お前にはだけは言われなくないな、怪我人は大人しく座れ」


 自分の言葉に耳を傾けながらも否定をせず、休憩を促すギルド員たちにひとつ溜息をつけば観念したようにイルは空いていたソファへと座り込んだ。自分だけ立っていた訳では無いのにそう言われ、付け焼刃のようにアルまで道連れにするところは大人気ないかもしれないが、彼の言う通り自分は医者で、怪我人だけを立たせるなんてことがあってはいけないのである。そろそろ骨董品にも見飽きたらしいアル―――元々そんなに興味があったのだろうか―――は悪態をつくことも無くソファに着き、侍女が自分用に淹れてくれる紅茶をじっと見つめた。続き淹れられた自分の分にすまない、と一言入れれば取っ手に人差し指を引っ掛けそれを持つ。


 嗚呼そういえば、インカムに連絡が入ったことを皆に伝えていなかったか。

 大切なことは基本的自分から話してしまう影響で皆尋ねてくることが少ないものだから忘れていたのだが。今直ぐ何かが起きる訳では無い、だったら今は何時でも対応出来るように情報を伝え、休息を摂るのも良いだろう、―――なんて。


「そういえばクレイド、さっき通信が―――」


 思ったのだけれど。







 ふわり。


 芳香が漂う。


 異様な程、


 むせ返る程の、

 

 甘い香りが。








 ―――この香り、さっきも何処かで―――?



















 パリンッ!!



 硝子が割れる音がして、紅の絨毯が色を更に深め、破片が舞うかの如く散ってゆく。音源は何処からか、突然のことにクレイですら瞳を丸くして視線をやれば、



「……どういうことだ、イルジクト」



 己の持っていたティーカップ―――しかもたった今飲もうとしていた紅茶入りの―――がガラス片と成り代わったことに不機嫌さを隠さず彼を睨み付けるアルへと辿り着く。

 口にした名の彼の仕業で破片と化したティーカップ―――イルジクトが動作少なく放ったナイフにより、退化したそれ。素早く反応したとはいえこの至近距離では避けることも容易では無い、それじゃなくとも正装だというのに、それに掛かった紅茶を恨めしげに見遣れば表情を一切緩めようとしないイルの態度に一層苛立ちが募る。

 だがしかし。これをやらかしたのが他の誰かでは無くイルジクトその人だということだけが、今のアルの沸点を抑制させている。意味の無い行動はしない、その彼が意味も無く自分のティーカップを割る為だけに―――自分に喧嘩など売るだろうか? と。


「おいイルジクト、何か言わねぇとコロスぞ」

「―――すまない、怪我は無いか?」

「無ぇよ、僕の反射神経を舐めるな」


 さらにはこれだ、最初に放たれた言葉が謝罪でも悪態でもなく、心配。やはり怒らなければならないような事態では無いのだと改めて悟ったアル、それにその他ギルドメンバーだった。イルは一度瞳を伏せ、手に持つティーカップをコトリ、と机上に降ろす―――それこそ、一度も口を付けないまま。





「“エトリーレ”、と呼ばれる木を知っているか?」


 何を慌てることも無い、とでも言うように淡々と呟き立ち上がれば、ソファの裏を回って壁に刺さったナイフの元へと向かう。皆の視線はそれを追うようにしてスライドするが誰もその言葉を知らないらしく、言葉が紡がれることは無かった。それを回答と受け取ったイルは壁に刺さる柄を掴みつつ、つらつらと説明を開始する。



「―――零度以下の環境下でなければ育たない特殊な木だ、煎じた木の葉は医療で使われることがあるものの、正しく扱える医者はほんの一握りとされ医療薬としては危険視されている。蕩けるような甘い匂いとそれに違わぬ甘美な味覚にはそれぞれ違う効能があり、匂いには催眠効果が、服用すれば身体を麻痺させる効能がある。それだけならば危険視などされることは無いだろうと思うだろう、だが―――」


 抜き取ったナイフを懐に納め、イルはちらりと、たった一言を投げ付ける為だけに其方を見る。



「嗅覚味覚どちらからの作用にしても、適応量以上を服用すれば、自我を失う程の悪影響が現れる」



 そちら―――雷佳の横に立っていたはずの、ひとりの侍女に向けて。温かな紅茶を―――明らかなる不適応量の芳香を発する、“エトリーレ”茶葉を運んできた侍女に。

 そして、イルがエトリーレのくだりを話し始めた頃から不自然に距離を取り窓辺へと遠ざかった、彼女に。





「言い訳くらいなら、聞いても良いのだが」


「―――人間風情の中にも、エトリーレを知る者が居たことが誤算でしたか」


 彼女に言い訳は無い、ただ冷静に、焦りの色も無く彼等は対峙した。


 あまりにも唐突に現れたもの―――単純明快なる敵、というものに、レイは背筋が凍るのが分かった。






















「いー感じに出来上がってるじゃん」


 街並の一角。ぞろぞろと王宮に向かい歩き出す人の波の中で、首元にゴーグルを携えた青年がくつくつと楽しそうに笑う、昼間、気さくな笑みを浮かべたあの青年である。あっちも上手くやっているだろうか、そんなことを思いつつも無線の先から聞こえてくる声に再び笑みを見せ、「ま、人生そう上手くいったらおっそろしいわな」なんて呟いて。

 ゴーグルを首から持ち上げ、一度頭上にまで引っ張ってから額にまで下ろして、鬱陶しいくらいに伸びていた前髪をゴーグルと共に固定する。パレードが始まる前に馬車に仕掛けた二つの装置―――電波妨害装置と効能拡散器―――のお陰で、此処までの計画に狂いは無い―――たった今王宮内で起こる騒動は案外想定内の出来事なのだ。



「デック、聞こえるか? ―――上手くやれよ」



 歩む足を止めることなく無線の通信相手を切り替えれば、一言激励を入れて直ぐに無線機をポケットへと押し込む。

 この先はどうなることやら―――無責任にも楽しくなってきた今の状況下に隠せない笑みを浮かべつつ、前日の夜半に“リーダー”と呼ばれた彼は人並みの中へと消えていった。











 ゴーグルが取り払われたことで首筋が露になった青年、そんな彼の首筋には灰色のマークがひとつ。

 それは正しく―――人外の証。






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