10話 月明りの下で
世界が回っていた。
ワーグから逃げるのに必死で、どこに向かっているかも分からず走り回った結果がこれだ。
崖から足を踏み外した僕は、見渡す限り一面の緑中へと飛び出した。
上も下も分からず、めまぐるしく変わる視界――
やがて、体にドンッという衝撃が走る。
「――――カハッ……!」
落下の衝撃に、全身が悲鳴を上げた。
それでも僕は止まることなく、急こう配の斜面をゴロゴロと転がり続けた。
いや、転がっているのかすら分からない。
ただ、頭の中はぐわんぐわんと揺れている。
痛いかどうかも、分からない。
ただ息ができなくて、目まいがして、意識が遠のいていく。
――――寒い。
僕はただ、ぼんやりとそう思った。
まるで、体が凍えるようだ。
指先は僕のものじゃないみたいに、言うことを聞かない。
目を開けようとしても、視界は真っ黒。
なんとなく思った――僕は死ぬんだ、と。
意識が、だんだん遠のいていくのを感じる。
すごく……眠たい――
「キ、キミっ! 大丈夫っ!?」
バシャバシャと音がして、誰かが叫ぶ声が聞こえる。
……幻聴だろうか?
「うわっ、すごい傷……! えぇと、どうしようどうしよう――!」
謎の幻聴は、何やら慌てている様子。
ううん、何もしなくていいから……このまま眠らせて――
* * *
「――――うっ!?」
体に衝撃が走った。
いや、衝撃というより……痛み。
いや、ただの痛みというより……泣き叫びたいくらいの激痛だ……!
「いっ!? いだっ、いだだだだっ!?」
思わず、バタバタともがく。
もがいた分だけ、また痛みが走る。
あまりに痛すぎて、逆に冷静になった。
そういえば体が動くなぁ、と。
「つッ――こ、ここは……?」
ゆっくりと上体を起こして周りを見る。
……暗い?
いつの間にか、夜になっていたんだろう。
森の木々たちは、ざわざわと揺れる黒い影となって夜の不気味さを際立てている。
見上げれば、夜の帳を裂いて煌煌と照る丸い月があった。
「…………満月、か」
状況も分からずに、呑気に月を眺める僕。
どっちにしたって体は痛いし、歩くこともままならない。
それなら、少しくらい綺麗な月を眺めてもバチは当たらないだろう。
「――――」
「……えっ?」
瞬間、何か声のようなものが響いた。
慌てて辺りを見回しても、誰もいない。
「だ、誰ですか?」
「――――」
また、声が響いた。
しかも、さっきよりも強く……僕のすぐ近くで。
「――――――」
「えっ? う、うわっ!」
それは、近くどころではなかった。
まるで、頭の中に直接語り掛けてくるような感覚――。
直後、全身が淡い青色の光に包まれ、体の中に不思議な力が宿ったのを感じた。
僕自身はそれが何かも知らないのに、まるで、”最初から知っていた”かのような感覚――
戸惑いながらも、僕は頭の中に浮かんだ言葉を口にした。
「…………ル、【月詠】」
パアァッと、僕を包む青い光がさらに強さを増した。
そして青い光の粒子となって弾け、まるで帰って来るかのように僕の体に吸い込まれていった。
「これは……魔法? でも、なんで……?」
僕が初めて魔法を――基礎魔法を覚えたころと、同じ感覚だった。
でも、月詠なんて魔法は主要五属性にも特異四属性にもない……もし、あるとすれば――
僕の知識が告げた答えは、突拍子もないものだった。
仮称を”星属性魔法”、魔法分類名……古代魔法
「い、いやいや、そんなはずは無いって、うん。 無能な落ちこぼれの僕に限って、そんなものを覚えるはずがないって、うん」
自分で導き出した仮説を全力否定。
なぜって、古代魔法は原理原則がほとんど解明されていない謎の魔法だからだ。
いつから存在するのかも不明だし、それを使える人もいない。
この魔法分類そのものが、習得方法が確立されていない――いや、そもそも存在するかどうかすら曖昧だからこそ、古代魔法という特殊な枠組みに収められているものだからだ。
とにかく、学術的知見は様々あれど、僕なんかが覚えられるような魔法じゃないってことは確かだ。
……確かなんだけど、僕は現にこうして謎の魔法を使えている。
「えぇ……本当になんだよこれ。 あいてて……」
今日は色々なことが起きすぎて、頭がついていかない。
それに冷静に考えたら、こんな状況で呑気に考察してる場合でもないよな。
「足は……まあ、動かなくはないか。 うん、よし……【光輪】」
光の魔法を放つと、ボヤァッと優しい灯りとなって辺りを照らした。
少し開けた場所らしく、身を隠せる場所もない。
ひとまず這ってでも木の近くに行かないと、こんな所で弱った僕は格好の獲物だ。
匍匐前進の姿勢でずり、ずり、と動き出したその時……暗闇の向こうから声が聞こえた。
「あっ、起きたんですね!よかった~! あ、でもでも、動いたらダメですよ!?」
抑揚が強いけど、柔らかな声。
意識を失う直前に聞いた幻聴と同じ声だ。
「ちょっ、ちょっと待っててくださいね!? 今そっちに――――あっ、でも、危ない人とかじゃないですよね? いきなり斬りかかってきたりとか、しませんか?」
「え……? あ、はい。 丸腰……です」
「よかったぁ~! じゃあ、今行きますね!」
幻聴はそう言うと、ランタンに火を灯して近付いてきた。
……あれ、もしかして幻聴じゃない?
死の淵からギリギリで戻った僕は、この時、運命的な出会いを果たした。
でも、そういうことに気付くのはもっともっと後のことだ。




