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夏の海は、酷く味気なかった。
別にそれは、夏の海のせいではない。海自体には活気があふれているし、夏ならではの様々な生物がいる。綺麗な海なら色とりどりの魚が泳いでいるのが見えるし、サンゴ礁も見ることができる。砂浜では人々がビーチボールなんかを使い、スポーツを楽しんでいる。砂浜の一角には海の家などという場所があって、かき氷やら焼きそばやらを、大しておいしくもないのに結構な値段で売っている。そして何故か、それを買ってしまう。
少し汚い海だと、わかめが大量発生していたりした。海に敷き詰めたみたいにわかめが浮いているのだ。あれはなかなかの恐怖映像だった。それを投げつけて遊ぶ子供も見たことがある。
「お姉ちゃん、このわかめ食べられる?」などと見知らぬ子供に訊かれて、わかめなんだし食べられるかもしれないねと無責任な発言をすると、「食べるためにはお日様に当てて、干さなくちゃいけないの?」とまで訊かれて困りきったこともあった。
あとは、砂浜に打ち上げられたクラゲを目撃してしまったり、それを棒きれでつついている成人女性を発見したりもした。
――今、私が思い出したのは、すべて『ここ』ではない海の話だ。ここの海は人気がなく、私以外誰もいない。予定よりも一足早く到着してしまった私は暇を持て余し、なんとなく、海に足を運んだ。……なんとなくではない。明確な意図があった。
夏の海は味気なかった。けれどそれは海のせいではなかった。私がひとりでいることに問題がある。
昔のように、ひとりぼっちだとは思わなかった。ただ、数字で表せばひとりなのは確かだ。私はひとり、波打ち際をなぞるようにゆっくりと歩いた。コンバースにそっくりな安物のスニーカーが、私の後ろにぽつりぽつりと足跡を作る。今は目立っているけれど、大きな波が来れば、あっという間に消えるだろう。
現に、あの時の足跡はひとつだって残っていない。
今から十五年前。十五歳の時に、私はこの海に来た。生まれて初めて見た海だった。
けれどその時は真冬で、とても寒かった。生まれて初めて見たのは冬の海で、しかも早朝の海は青色でもなくて、――それでも味気なくなんかはなかった。
好きな人と、一緒だったからだ。
あの時の私はというと、最悪で最高だった。毎日が絶望的で、悲観していた。――ある意味普通の反応だとは思う。余命三か月という死刑宣告を受け、それでも毎日へらへら生きていけるほど、私は強くなかった。中にはそういう人もいるのだろうけれど、一時的に自暴自棄になったり悲しみに明け暮れたりしてもおかしくはない。そういう意味では、私の反応は至極まともだったと思う。
そんな状況下で見た海は、それはもう強烈だった。広い。大きい。水平線まで、とてつもなく遠い。それが第一印象で、一目見た瞬間に泣いてしまった。
初めて空を見た時のように、怖いとは思わなかった。ただ、海水浴に来た子供のように「わあ、海だあ!」などとはしゃぐこともできなかった。
ああよかった、死ぬ前に見られて。そう思っていたんだ。だから、あの日の私は最悪で最高だった。
あの時、彼は確かに私が泣いているのを確認していた。何を思っただろう。――いや。それよりも、私と同じくあの日初めて海を見た彼は何を思っていたのだろう。何を感じていたのだろう。
今となっては、知る術もない。
桜貝が落ちているのを発見して、私はしゃがみ込んだ。拾って、光にかざしてみる。それは、彼にあげたローズクォーツの色に少し似ていた。
桜貝をしばらく眺めて、けれど急に馬鹿らしくなって捨てた。感傷的になっても、もはやどうしようもなかった。
どうしようもない。あのころの私がよく思っていた単語のひとつだ。
この辺だったよなあと見当をつけ、砂浜に腰を下ろす。服は汚れても構わない。どうせ安物だし、洗えばいい。
あの日もこうやって、砂浜に直接座り、二人で海を見た。水平線の向こうに見えている島の話をした。
――何県なのかなあ。日本かな。それとも外国かな。アメリカ、もしかしたらオーストラリアかも。そんなことを言った覚えがある。
今の私は、あれが何という島なのか知っている。この港から出ている船が、どこに向かっているのかも、知っている。
だって今日、私は『外』からやってきたんだ。
「――斎藤さん?」
背後から声をかけられて、私は振り向いた。紺色の薄い長袖カーディガンを着た中年女性が、私を見て微笑んでいた。懐かしい笑顔だ。あのころと比べれば、やっぱり年を取っているけれど。それはお互い様だった。
「お久しぶりです、……赤井先生」
私が名前を呼ぶと、彼女――赤井みどり先生はうっすらと微笑んだ。私は立ち上がり、ジーンズについていた砂をはらう。
「ごめんね。待たせちゃったかな」
「いいえ。私が一本早い便に乗って、約束よりも早く着いてしまっただけです。気にしないでください。海も見たかったですし、丁度よかったです」
「そっか。なら、よかったんだけど」
――赤井先生の口癖は、「そっか」だった。私は何故か嬉しくなって、笑った。
「変わらないですね、先生も。……ここも」
「私はめっきり老けちゃったよ。でもそうだなあ、ここは相変わらずかな。不便極まりないというか。コンビニが一軒でもあると、便利なんだけど」
「確かに。コンビニどころかスーパーもないですしね」
「スターバックスもね」
赤井先生は笑った。記憶力がいいんだなあ、と感心する。私が彼女にスターバックスの話をしたのは、もう十五年も前のことだ。
「さてと。移動しながらお話しない? それとももう少し、海を見る?」
「いえ。行きましょう」
私はそう答え、赤井先生と歩き始めて、けれど一度だけ振り返った。
――昔、好きな人とキスをした場所を。
雑木林からは、暑苦しいセミの合唱が聞こえてきた。十五年前は突っ切ったそこを、今度は迂回する。舗装路の上を歩きながら、私と赤井先生は話をした。車なんて便利なものは走っていないので、道路の真ん中を堂々と歩いても何の問題もなかった。
「――外での生活はどう?」
「十五年経った今でも、刺激と驚きでいっぱいですね。といってもまだ、行動範囲は限られてますし、監視係もいますけど」
「外に出る条件として、菱木先生が斎藤さんの監視係になったんだよね。今は、菱木先生と一緒に住んでるの?」
「そうです」
私の言葉を訊いて、赤井先生は周囲をきょろきょろと見渡した。
「今日、菱木先生は?」
「今日だけは特別に、私ひとりで行動していいって菱木さんが。まあ、ここなら危険物もないですし、大丈夫だと思ったんでしょう」
「そっか。……あのー、はっきり言っていい? 菱木先生には絶対に内緒ね」
「なんですか?」
「あのお方とふたりきりだと、肩が凝ると言うか、息苦しくない? 大丈夫?」
私は思わず吹きだした。今の発言はカウンセラーとしてではなく、赤井みどりとしての意見だと思った。
「正直、疲れるなあって思う時はありますね。あれこれうるさいんですよ」
「机の上とか、ピシッ! としないと気が済まないタイプでしょう。本棚の本をちょっといじって、順番変えちゃったら眉間に皺がよるし。ご飯も、メインと副菜と汁物をバランスよくどうこう、みたいな。あと、シーツも皺ひとつなく伸ばすとか、食器を洗う洗剤は地球にやさしいなんちゃらこんちゃらっていう成分のやつがいいとか」
「随分詳しいんですね」
「同僚だからね」
今の絶対に内緒だからねと、赤井先生は人差し指を立てて口元へ持って行った。
十年前、つまりは二十歳の時。私は、澪たちと共にこの施設を出た。卒業、したのだ。別の言い方をすると、『人格形成』の実験がフェーズ2からフェーズ3に移行した。フェーズ3の舞台は、外の世界だ。
ただし、条件はあった。まず、菱木さんと常に行動を共にすること。仕事は、自宅でできるタイプのものを選ぶこと。外部の人間と接触するときも、できる限り菱木さんを通すこと、などなど。条件すべてを覚えることはできなかったけれど、重要なものを挙げるのならこんな感じだ。
そうして私は港から船に乗り、日本へと渡った。船に乗るのも海を渡るのももちろん初めてで、私は酷く興奮し、早口でまくしたて、ついには「恥ずかしいからやめなさい」と菱木さんに言われた。港に着いた時もそうで、私は初めて見る景色に感動し、あちこち走り回り、菱木さんを疲れさせた。
もう二度とあなたと『遠足』はしたくない、と菱木さんにはっきり言われたのを鮮明に覚えている。
港から出た私の目が真っ先に捕らえたのは、スターバックスだった。たまたまそれはそこにあって、たまたま営業していた。
私は菱木さんの服を思いっきり引っ張って(今思うとよく怒られなかったなと思う)、「あの店に行きたいです」と懇願した。この時点で既にげっそりしていた菱木さんは、座りたいからまあいいわと付き合ってくれた。しかも、おごってくれるという。私は意気揚々と店に入った。
そうして初めてスターバックスのメニューを見て、私は引いた。知っている飲み物よりも、知らない飲み物の方が圧倒的に多かったからだ。
昔、彼とスターバックスの話をした時、彼も私もコーヒーを注文すると嘘をついた。それを事実にするため、スタバに行ったら絶対にコーヒーを飲もうかと思っていたのに、いざメニューを見てみたらもっと魅力的な名前の商品がいっぱいあった。コーヒーを飲もうという決心は一瞬でどこかに消えた。
澪が言っていたのはなんだっただろうかと、私は終始、店員の頭上にある黒板のメニューを見た。カウンターにもメニューが置かれているのだと知ったのは、それから五分後だ。ずっと上を向いていて、馬鹿な客だと思われただろう。けれど、カウンターにもメニューがあると教えてくれなかった菱木さんも菱木さんだ。
ただ。彼女は、私がメニューを決めるまで辛抱強く待ってくれた。
ような気がしていた。
五分ほど上を見ていた私は、ようやく菱木さんの方を見た。
「ええと、ふら、フラ……」
「抹茶クリームフラペチーノのトールふたつ。ひとつはシロップ少なめでミルクを豆乳に変更、もうひとつはホイップ多めで。あと、ふたつともパウダーを増量してください」
菱木さんの注文は早かった。神業だった。噛みもしない。おまけに、メニューに書いてない注文を追加した。この人は何者だろうか。何年もあの研究所にいたはずなのに、なぜそのような呪文をすらすら言えるのか。意味不明だった。
私はぼんやりと、菱木さんの涼しげな横顔を見た。そして思った。
菱木さん。私は、本当は、ダークモカチップクリームフラペチーノを注文するつもりだったんです。
窓際の席に、菱木さんと向かい合って座る。渡された抹茶クリームフラペチーノには、なめらかなホイップクリームがてんこ盛りになっていた。なんだこれ。カップには謎のアルファベットが書かれていて、更にはどこからどう見ても手書きのスマイルマークとハートマークが書かれてあった。なんだこれ。いつの間に書いたんだろう。菱木さんが注文してから、私たちに商品を渡すまでの間としか考えられない。あり得ない。なんだこれ。
え、そもそもどうやって飲むんだ? ホイップクリームは吸うのかな。それとも、スプーンか何かで掬うのだろうか。
「……頼むから、ちょっと大人しくしてくれない?」
私があまりにもきょどきょどとしているものだから、見かねた菱木さんがたしなめた。彼女は特別感動する風でもなく、濃い緑色のストローでフラペチーノを飲んでいる。ホイップの食べ方を訊いてみたけれど、好きにすれば? などという、田舎者を困らせるような答えしか返ってこなかった。
そうして私は、生まれて初めてスターバックスの飲み物を飲んだ。菱木さんと一緒のテーブルについているのがとても奇妙だと思ったけれど、それ以上に、その味にいたく感動した。このような飲みものが、世の中にあるのが信じられなかった。
――彼と一緒に、ここに来れたらよかったのにな。
気づけば、私はボロボロ泣いていた。何が何だか分からなかった。
初めてのスターバックスに感動したのか、抹茶クリームフラペチーノがおいしすぎたのか、外に出られたことが感慨深かったのか、二十歳まで生きられたことが嬉しかったのか。
彼がここにいないことが、悲しかったのか。
私は店内で注目を浴びる程度にむせび泣いて、「ホイップクリームが」とか「船が」とか「山田君が」などという、支離滅裂な単語をでたらめに繰り返した。特に、「山田君が」を何度も言ったような気がする。混乱しすぎていて、あまり覚えていない。
あの時、菱木さんは何も言わなかった。
いつもなら鬱陶しそうな顔で私を見下ろす彼女は、あの時ばかりはそんな顔をしなかった。とっくに飲み干した自分のカップを片手で揺らしながら、片手で頬杖をついて、窓の外を見ていた。彼女の視線の先には特に、面白いものなんてなかったのに。
泣き止みなさいとは言われなかった。どうしたの? とか、そういう言葉もなかった。
菱木さんは、私が自然に泣き終わるまで、ずっと待ってくれた。フラペチーノを注文する時のように、口を挟んでくることもない。店内の視線を浴びて、店員がおろおろしている様子が見えても、恥ずかしいとすら言わなかった。
彼女はただ窓の外を見て、私が泣き終わるのを、あるいは抹茶クリームフラペチーノを飲み終わるのを、待っていた。
日よけもない道路を、赤井先生とふたりで歩く。やがて、白い建物が視界の端に映った。
私が二十年間過ごした施設。表は、天才育成学校。裏は、倫理違反だらけの研究所。国のお偉いさんが作った、秘密基地。
クローン人間や疾病やアンドロイドなど、あらゆる研究がされていて、けれどほとんどの人間がこの施設の存在を知らない。私自身、この研究所について、それ以上のことを知らない。
「――……ほんとに、変わってないですね」
私は思わずそう言った。だって、本当に何も変わっていない。エメラルドグリーンのフェンスも、校舎のつくりも、グラウンドにある三本の桜の木も。
「こっちも変わってないよ。ほら」
赤井先生が扉を開ける。懐かしいカウンセリング室が、当時とまったく同じ状態でそこにあった。ここは、改装工事とか模様替えなどという単語を知らないらしい。あるいは、時間が止まってしまっているのか。
「――彼は」
私が言うと、赤井先生は床を指さした。厳密に言うと床ではなく、その下にある空間を、指さした。
カウンセリング室の中央にある机の裏。そこにあるボタンを押すと、本棚が無音でスライドする。壁にぽっかりと穴が開く。
本当に、変わっていなかった。
「……大丈夫?」
赤井先生が心配そうに、私を見つめた。私は頷く。
どうしても、私は彼に会わなければならなかった。でなければ、死んでも死にきれない。
「行こっか」
赤井先生が歩き出して、私はその後ろ姿を追う。懐かしい階段があって、懐かしい空間があった。白い照明が無機的に、地下を照らしている。
かつて私がいた場所。白に覆われ、窓もなく、外に憧れ続けた世界。
彼は今、そこにいる。




