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「恋をすると、人間は欲張りになるんだって」
沈黙を破った斎藤の方を、俺は見やった。彼女は相変わらず、膝を抱えて海を見ていた。まるで、もう一生見れない物を見るようにして。
「赤井先生と話してた時、そういう感じの話題が出た。……ううん、実際はちょっと違うんだけど、多分そういう意味だったんだと思う」
「物欲が増すのか?」
「物欲というか……。相手と距離を縮めたくなるの。最初はね、会えるだけでよかったの。それが、もっと会いたいって思うようになった。それからそれは、もっと話したいに変わった。笑ってる顔が見たいなあとか」
ああ。俺は頷く。明確なラインがいつだったのかは判別できないが、似たような事を考えるようになっていた。
「そのうち、触ってみたいと思った。肩を叩くだけでもよかったのに、今度は手を繋ぎたくなるの。なんでかな。そしたら次は、抱きしめたくなる。……私じゃなくて山田君から抱きしめてくれた時は驚いたけど、嬉しかったんだよ、あれ。泣いちゃったけど」
「許可もなく、唐突にやってしまってすまなかった」
「いや、そこを責めてる訳じゃないんだよ。でもね……」
斎藤はどこか言いにくそうに身体を揺らして、それからきちんと俺の目を見た。
「今度は、キスしたくなった」
その笑顔は、切なさを孕んでいた。俺は硬直する。自分の正体はアンドロイドだと、斎藤には伝えたはずだ。それなのに。
斎藤は期待しているのか不安なのか、あるいはそのどちらもなのか、酷く緊張した表情をしていた。薄く開いた口から、囁くような声。
「――……キス、してもいい?」
小さく震えたその声は、けれど先ほどのような悲痛な音ではなかった。
俺は悩んだ。キスという行為の事ならば勿論、知識として知っている。そこで悩んだのではなく、斎藤は本当にこれでいいのかという事で悩んだ。
俺はアンドロイドだ。人間になる事はない。触覚もない。味覚もない。そんな奴相手に、キスをしたいと彼女は言った。けれどそれではまるで、
「……パソコンとキスするような物だ、とか思ってない?」
斎藤はいつから読心術を使えるようになったのだろうか。眉根をひそめた斎藤は、けれどもすぐに破顔した。
「山田君は自分の事を、ロボットとかコンピューターとか、パソコンだって言ったよね」
「ああ」
「じゃあなんで、今、そんなに悩んでるの?」
斎藤はふふ、と声を出して笑った。彼女の笑い声を、久しぶりに聞いたような気がする。
「私の事、嫌いになった?」
「いや」
「キスしたくない?」
「そうではないんだ。しかし……」
「こんなの、二択だよ。イエスか、ノーか。それだけの質問。……ただの二択なら、そしてただのコンピューターなら、すぐに返事が出来るんじゃないの?」
何も言い返せなかった。斎藤は微笑む。そして、もう一度。
「――キスしてもいい?」
俺は少し悩んで、それから意を決して斎藤に向き合った。
「……ムードをぶち破るであろう事を言ってもいいか」
「なに?」
「目を、開けていてもいいか?」
俺の言葉に、斎藤はぽかんとした。それはそうだ。恐らくこの場で、この雰囲気で、このような間抜けな事を言いだす男はあまりいない。
「先程も言ったが、俺には触覚がないんだ。味覚も。故に、目を開けていなければ、斎藤がいつキスをしてくれたのかも分からない」
説明すると、斎藤はくすりと笑って、それからゆっくりと頷いた。
ファーストキスはレモン味。本当にどうでもいい情報を、太田はインプットしてくれている。そもそもレモンの味すら知らないのに、どうやってそれを分かれと言うのか。
斎藤の顔が徐々に近づいてきて、距離が縮まっていく。三十センチ、二十センチ、十センチ、……五センチ。
唇の柔らかさは、やはり分からなかった。あたたかさも。
けれど、俺と彼女の距離がゼロになった瞬間だけは、はっきりと感じられた。
そっと唇を離した斎藤は、小首をかしげ、照れ隠しするように笑った。
しかしそれは、気恥ずかしさを隠す意味の照れ隠しではなかった。照れたのを隠したのではない。
照れたし、隠した。
隠したのはきっと彼女の本心で、俺はそれを一生聞けないのだろう。そんな予感がした。
「……ありがとう」
斎藤は微笑む。うつくしい笑顔で。俺はそれに、曖昧な笑顔を返した。
斎藤は自身の左手首に、右手を持っていった。ちゃら、とかすかな音を立てたそれを、俺に差し出す。俺はそれを両手で受け止めた。
それは、彼女が休日だけ身につけていた、ローズクォーツのブレスレットだった。
「恋愛に効果があるんだって、誰かさんが言ってた」
斎藤はあの日の事を思いだしたかのように、遠い所を見てくすくすと笑った。
「それ、山田君にあげる。今日のお礼。……男の子がローズクォーツつけてたら、変に思われるかもしれないけど。いや、どうなのかは知らないんだけど。外では皆、つけてるかもしれないし」
「しかし」
「安物だけど効果あるよ、それ。ほんとに。私が保証する」
斎藤は口元に手を当て、やはり照れたように首を傾げた。それから少しだけ何かを考えて、口を開いた。
「――……山田君が他の誰かを好きになっても、怒らないからね。幸せに、なってね」
ああでも、と斎藤は付け加えた。
「出来ればそれは、私が死んでからにして欲しいなあ。死ぬ間際に三角関係になるのは、流石に嫌かな。あはは」
「――斎藤、俺は」
「楽しかったね、山田君」
先に立ちあがったのは、斎藤だった。俺を見下ろす形で、けれども見下すようにはしなかった。
全ての事には、いつか終わりが来る。
斎藤の命も、俺の機能も、――今のこの瞬間も。
「帰ろ、山田君」
いつか終わりが来て、二度とそれは取り戻せない。斎藤はそれを知っていて、それでも俺に終わりを告げる。
俺は海を見た。広大なそれは冷たく行く手を阻み、真っ二つに割れてくれるような事もなかった。杖を持っていてもいなくても、海が割れる事はない。俺は、モーセではなかった。
俺は、色んな物が欠落した、ただのアンドロイドだった。
雑木林の中を二人で歩く。来た時のように手を繋いで。けれど、手を繋ごうと言いだしたのは斎藤ではなかった。俺が無言で手を伸ばして、彼女はそれに応えてくれた。
早朝とは違い、今では林の中は全てがはっきりとその輪郭を見せていた。どこに木の根や石があるかなんて一目瞭然で、バランスを崩す事もない。幾分歩きやすくなった林の中を、俺と斎藤はゆっくりと歩いた。途中で何度か斎藤に確認をしたが、彼女は自分で歩くと譲らなかった。
頭上を、鳥が鳴きながら飛んでいった。何の鳥なのかは見えなかったし、鳴き声だけで判別出来るほどの知識はなかった。
――そう、本当は何も知らないくせに。野鳥の本を見ただけで、野鳥について知っているつもりだったのだ。俺はどこまでも馬鹿だった。
左手を見る。斎藤の物だったローズクォーツは俺の手首を飾っていて、その左手は斎藤の右手と繋がっていた。
「――……不思議な、気分なんだ」
気づけば、思った事を口にしていた。
「……なにが?」
「手を繋いでいる事。俺には感覚がないはずなのに、何故か不思議な気持ちになる。しかし、なんと表現すればいいのか分からない。心地いいというのか……」
最初に手を繋いだ時は、ただ苦しいと思った。けれどあれは悲しいの間違いだ。感覚がない事が、悲しかった。
しかし今は違う。悲しいとは思わない。出来る事ならば、このままでいたいとすら思えた。不思議な浮遊感。しかし浮かれている訳ではない。あらゆるデータを引っ張り出しても、言葉にするのは難しかった。
斎藤は俺の様子をしばらく眺めてから、やがて笑い始めた。図書室で話をしている時のような、自然な笑顔で。
「何がおかしい」
「ううん、おかしいんじゃないけど。――さむがり猫と雪だるまの、人間が手を繋ぐ理由はなんだって話、覚えてる?」
「ああ」
それなら、一語一句間違える事なく言える。
――人間はどうして、手を繋ぐと思う?
――さむいからだろ? お互いの体温を分けているんだ
――それもある。けれど、手を繋ぐことで心も繋がるのさ。だからあたたかい
俺は斎藤を見た。それから、繋いでいる手を。
俺の変化に気付いた斎藤が、微笑んだ。
「あったかいって言うんだよ。……そういうの」
彼女は少し指先に力を入れ、俺の手を握った。俺はそれを握り返す。
「斎藤は今、あたたかいのか?」
訊くと、斎藤は嬉しそうに頷いた。
「――うん。とても」
「そうか」
血色の悪い彼女の顔は、とてもじゃないがあたたかそうには見えなかった。
けれど、そうではないのだろう。俺は握った手がほどけないように、そっと指を絡めた。彼女は、拒否しなかった。
作られてから五年も経った今日。
俺は、あたたかいという言葉の意味を、ようやく理解することが出来た。
それは、この世にたった一人しかいない、心優しいクローン人間が教えてくれた事だった。
何人でも作れると言われ、その命を尊重されずに育ってきたクローン人間。
奇跡の一体だと言われ、その誕生を心から喜ばれたアンドロイド。
どちらも今ここに存在していて、けれどそのどちらもが、自分は偽物だと言い張った。
人間のように育てられたのは、アンドロイドの方だったかもしれない。その存在を認められ、祝福され、ちやほやされて育ってきた。何か新しい事が出来るようになる度、いちいちと喜ばれた。まるで、言葉を話したり、ハイハイ出来るようになった赤ん坊のように。
しかし、人間なのは間違いなくクローン人間の方だ。クローンであろうとなんであろうと、彼女は人間だ。オリジナルが殺人犯であろうとなんであろうと、彼女は彼女だ。彼女は生きている。絶食しても死なない俺とは訳が違う。食べるし、眠る。笑うし、怒る。
偽物とは、なんだろうか。
いつだってなんだって、本物の方が優れている。廉価販売されている物は、類似品や贋作ばかりだ。それらは大して重要視されず、持っていたところで特別視もされない。どれだけ精巧にできていても、出来損ないのように扱われる。ゴミになるのはいつだって偽物の方だ。
偽物は、本物には敵わない。それが世の中の仕組みなのだろう。
俺と斎藤はどうなのだろうか。例えば斎藤は、サイトウツタコのクローンで、絵のように言うならばそれは複写だ。……だから、偽物なのか? 生きていて、死を恐れ、泣く。それでも偽物なのか。出来損ないなのか。
対する俺は、人間を模した機械だ。人間のような形をしていて、そこにただ少し、感情のようなものが出来ただけ。身体のほとんどは金属。心臓もない。臓器もない。人間のように恋をしても、大声をあげて泣いても、俺が機械だという事実は変わらない。
クローンとアンドロイドでは意味が違うが、何かの偽物だと言うのならば、そうなのだろう。
俺も、斎藤も。
会話し、学び、恋をし、笑って泣く、偽物だった。
フェンスをよじ登り、こっそりと校舎裏に戻る。日はすっかり高い場所まで登っていた。グラウンドでは、サッカーか何かをしている学生達の声が聞こえる。俺と斎藤は手を離し、そのまま寮へと向かった。少し横になりたいと言い出したのは斎藤の方だった。笑ってこそいたが、限界だったのだと思う。
「今日は本当にありがとうね」
寮の入り口で、斎藤はそう言ってうっすらと笑った。男子棟と女子棟は分かれているので、俺はここで通路を左に、斎藤は右に進む。俺は頷いた。それから、左手首を顔の横に持ってきて、指さした。
「これ」
淡いピンクの、ローズクォーツ。
「大切にする」
「そうしてくれると、あげた甲斐があるなあ。似合ってるよ」
「クールビューティーから、クールを抜いた山田君だからか」
俺が言うと、斎藤はおかしそうに笑った。そして、名残惜しそうに言った。
「じゃあ、またね」
「ああ」
踵を返した斎藤は、三歩歩いてこちらを振り向いた。
「山田君!」
「なんだ」
「……呼んでみただけ」
「そうか」
「お笑い芸人みたいなツッコミ入れてよ! 生真面目すぎ!」
斎藤はふくれっ面をして、けれど笑って。
「またね、山田君」
今度こそ俺に背を向けた。
俺は俺の姿を見ていないだろう相手に、右手を振る。
「……じゃあな」
その声が聞こえたかどうかは分からなかった。聞こえていなくても、よかった。
談話室に行こうか、ほんの一瞬だが迷った。きっと、いつものメンバーはあそこで話しているだろう。少なくとも一人くらいはいるはずだ。
爆弾の話をしている轟か、きゃあきゃあ騒いでいる鍵谷か、背筋を伸ばしてピアノを弾く森口か、繊細な絵を描いている名倉か。誰かいるだろうか。
そこまで考えて、やめた。行かなくてもいい。言わなくてもいい。そう思った。
斎藤が階段を上るのを確認して、俺は寮から出た。グラウンドを抜け、校舎に入る。校舎は、休日でもあいている部屋がいくつかある。図書室。保健室。――カウンセリング室。
ノックをすると、珍しく赤井が扉を開けてくれた。複雑な表情をしている。分かりやすい顔だ。
彼女はカウンセラーに向いていない。いや、ここで働くのに向いていない。どこかでそんな事を思った。
「俺の用件は、大体把握されていますか」
赤井は何も言わなかった。ただ無言で、机の裏のボタンを押す。壁にぽっかりと開いている穴を見ながら、赤井は言った。
「私も一緒に行くから」
「俺が一人で行くと言ってもですか」
赤井は頷く。その動作には、一片の迷いもなかった。
「――でしょうね」
予測は出来ていたし、そちらの方が好都合でもあった。黙って、赤井の後ろを歩く。
俺には分からない事があって、けれども知っている事がたくさんあった。
なあ、斎藤。知っているか。
人生の結末は、最初から全て決まっている訳では、ない。




