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 それはまるで、空気を抱くようだった。

 その薄い背中の、――細い肩の感触は分からない。彼女の体温も分からない。

 分からなかった。

 本来の俺ならば、彼女の疾病について頭を働かせる事が出来たのだろう。今までの彼女の行動から、どのような疾病なのかを推測していたはずだ。確かにそれは頭の隅で出来ていて、けれども出てきた情報は全てどこかに流れ落ちていった。斎藤が、掴んだ砂を地面に落としていたように。

 掴めたはずの情報は、全てどこかに流れていく。流れていった物が、必要なのか不要なのかも判断出来なかった。

 どこかが、故障したのかもしれなかった。ショートしたのか、紛失したのか。プログラムを軽く確認する。異常は見られない。なのに、自分のどこかが壊れた事を確信した。

 この気持ちを何と表すのか、俺は分からない。斎藤なら分かっているかもしれない。

 斎藤は知らない事が多い。けれど俺は、分からない事が多かった。

 ――分からなかった。

 空気を、抱いているようだった。あるいは幽霊かもしれない。

 けれど、彼女の息遣いが耳元で聞こえる。時折漏れる嗚咽も。俺を呼ぶ声も。


 彼女は、ここにいる。それだけは分かった。



 研究のために二年間、白い部屋で過ごした時、俺は特別何も感じていなかった。

 本を読んで時間を潰せたし、好きではなかったので滅多と見なかったがテレビもあった。テレビをつければ様々な世界の話をしていて、それを知っていれば十分だと思った。例えば空や海なんかを、自分の目で見たいと思った事はない。知識として知っていれば、それでよかった。


 本を読むと、度々出くわす言葉があった。寂しい、そして悲しいだ。人間の感情の中でも、これがよく分からなかった。――ああ、また「分からない」だ。

 楽しいというのはなんとなく理解出来る。例えば俺は、頻繁に本を読む。これは単なる暇潰しではなく、読書という行為が楽しかったからだ。もしも俺が、ゲームの方が楽しいと思えばそっちをしていただろう。読書を選んだという事はそういう事だ。それと同様に人間も、趣味や会話を楽しいと思う。これは分かる。

 しかし、寂しいとは何か。人間の作る物語でよく出てくるのが、「一人ぼっちは寂しい」だ。一人の何が悪いのだろう。一人ならば、自分の時間を自分の好きなように使えるではないか。事実、そう思っている人間もいる。

 なのに、一人は寂しいと言う。それが理解出来なかった。


 悲しいはもっと謎だった。まず、幅が広い。誰かが亡くなった時――しかもその誰かは、人に限らず動物に対しても使われる。ペットが死んでも悲しいらしい。更に、努力が報われなかった時。自分の期待から外れた出来事に遭遇した時。様々な場面で人間は「悲しい」と言う。

 しかしどうだろう。努力が毎回報われる方がおかしいとは思わないのだろうか。やる事なす事全てが報われるなど、この世界ではあり得ない。外に出た事がない俺ですらそんな事は知っているのだから、外の世界の奴らならもっと知っているはずだ。なのに悲しいと言う。

 期待外れの事にも悲しいと言う。しかし、人間はエスパーではない。未来など分かるはずがないのだ。そんな事は分かり切っている。つまりは期待通りの事ばかり起こるはずがないのに、何を悲しい悲しいと言っているのか。

 ――生き物が死ぬ。当然だ。生きている物はいずれ死ぬ。俺だっていつか壊れる。人間は物心ついた時からそれを知っている生物だ。自分の最後も他人の最後も、あらかじめ知っている。それが実際に起こっただけなのに、何が悲しい。

 誰かが死ぬ。当然の事が起こっただけだ。なのに何が、悲しいんだ?

 ……俺は、分かっていなかっただけだ。


『一人の意味がlonelinessの方だったら、それは寒いのかもしれない。一人より大勢の人といたいって、思うかも』


 いつか、森口に教えてもらった、一人の意味。

 俺は二年だ。けれど、彼女は十二年だ。窓もない地下室の白い部屋で、十二年。

 何を考えた? 何を思った? 何を感じた?

 ――その十二年は、どれだけ寒かったのだろう。



「……治らないのか?」


 それは愚問だった。答えなんて知っている。彼女に訊くべき質問でもない。

 俺の腕から解放された斎藤は「ちょっとごめん」と言って、鞄の中からピルケースを取り出した。中身を手の平に出して、水もないのに飲む。それが何錠だったのか、パッと見では数えられなかった。


「――……治るなら、余命なんて言われない」


 薬を飲み干した彼女は、うっすらと笑った。俺から見ても、下手な作り笑顔だった。目は真っ赤になっているし、口元は歪んでいる。

 俺は、斎藤の手の中にあるピルケースを指さした。


「その薬は?」

「病気の進行を緩やかにするだけ。治す薬じゃないの。この薬を飲み続けたところで、進行する事には変わりない」

「ここではない所で治療に専念するというのは」

「意味ない。外でも、この病気の治療法は確立されてないから。むしろ、ここの研究所の方が研究は進んでるんじゃないかな。私が発症してから、この病気についての研究も始められたから。この薬も、最近ここで作られた物なんだよ。……そういう意味ではラッキーだったのかな」


 ――もう、外に行こうとは言えなかった。

 外に行く事は、彼女の死を意味している。

 けれどこれでは、彼女はモルモットだ。斎藤が飲んでいる薬も、恐らくほとんど臨床試験をしていないだろう。何故か? ――彼女自身が実験体だからだ。人格形成の実験から、疾病に関する実験に切り替えられているに違いない。俺は唇を噛んだ。


「……ほんとはね。運動神経いいんだよ、私。こう見えて。得意なのはテニス。というか球技全般かな」


 彼女はどこか自慢気に、そんな事を言った。先ほど、フェンスを軽々と乗り越えた斎藤を思い出す。


「――病気だから運動出来なかったのか」

「そう。こんな事になってなかったら、今頃海を泳いでたのになあ」


 彼女は残念そうに、冬の海を眺めた。


「寒い、んじゃないか? 俺には感覚がないが」

「うん。寒いというか、冷たいと思う。流石に今は泳ぎたくない。冗談だよ」


 力なく斎藤は笑って、ぽつりと言葉を落とした。


「――……夏にもう一度、来れたらよかったな」


 余命三か月。このままだと彼女にはもう、次の夏はない。桜の咲くころに彼女の意識があるかどうかも分からなかった。勿論、生きている可能性は十分にある。けれど夏に、ここに来るのは、きっと。

 ――五年後に沖縄の海に行こう。ある日、俺はそう言った。……なんて絶望的な言葉だろう。

 あの時、斎藤は泣いた。俺は、その意味が分からなかった。けれど、今なら分かる。あれは失言だ。誰がどう考えたって、何の慰めにもなっていない。むしろ、傷に塩を塗りこんだような物だ。痛みが分からないので、それがどれ程痛いのかは分かりかねるが、きっとそうなのだろう。

 先ほどは研究員にミサイルを落としたいと言ったが、今は自分にミサイルを落としてしまいたい気分だった。既に気持ちも気分もぐしゃぐしゃで、ミサイルを落としたのと変わりないような状態ではあるが。

 自分の身体を木っ端微塵に吹き飛ばしてやりたかった。知らなかったとはいえ、あれはない。――ああ、そうだ。「夏の海」と先に言ったのも俺だ。ギネスの世界長寿がどうこう言ったのも。


『明日死ぬかもしれないのに?』


 あの言葉の意味を、理解しようともせずに。

 馬鹿じゃねえの。轟ならそう言うだろうか。俺は馬鹿だった。どうしようもない位に。奇跡のアンドロイドは、ただの馬鹿だったんだ。


「……山田君、いい事教えようか」


 斎藤はそんな馬鹿に、優しく声をかけた。


「余命三か月でしょ。今は一月の中旬。という事は、私は四月までは生きてるかもしれない。ね、この意味分かった?」

「……分からない。なんだ?」

「私、このまま上手くいけば、ギリギリ高校生になれるんだよ」


 言葉を、失った。

 斎藤は幸せそうに笑う。両手をこすり合わせて、はあっと息を吹きかけた。両腕で膝を抱える。そしてまた笑う。幸せそうに。


「私ね。一日だけかもしれないけど、高校生になれるんだよ。これってすごいよ。だって高校生だよ? 青春だよね。四月三日生まれだから、上手くいけば十六歳になれるかも。やっぱりすごいよ。だって十六歳だよ? 一歳しか変わらないけど、きっと十五歳よりずっと大人だと思う」


 すごいの意味も、だっての意味も、分からなかった。十五歳と十六歳に、そこまで明確な違いがあるとも思えない。斎藤は分かっているのだろうか。

 けれど、何も言えなかった。

「そうだな」、それとも「違う」だろうか。何を言うのが正しいのか、何を言えばいいのか。

 何かを言おうとする度に、その何かは消えていく。それはやはり、手の平から零れる砂のように。


「私には贅沢だよ、高校生なんて。海に来れたのも贅沢。私の正体を知っても、離れない人がいてくれて。贅沢しすぎだよね。幸せ者だな」


 斎藤は笑顔のままで、両膝に顔を埋(うず)めた。

 世の中の人間にとってさほど特別でもない事を、斎藤は贅沢だと言う。幸せだと、言う。

 ――嘘だ。肩が震えている。息遣いが荒いのが分かる。……嘘だ。


「――……ごめん」


 くぐもった声は、もはや何度目かも分からない謝罪だった。


「本当は。本当は、私は欲張りなんだよ。これだけたくさんの物を貰えたのに、まだ願ってしまう。どうしようもないって分かってるのに。――言いたくないのに、言いたくなかったのに。病気の事がばれても、山田君の前ではいつも通りでいようって思ったのに。言ったら困らせるだけだって分かってるのに、なのにっ……」


 しゃくりあげながら、彼女はそれを言う。力強く、けれど囁くような声で。


「…………死にたくない」


 波の音はそれを攫(さら)っていったりしなかった。はっきりと、聞こえた。


「死にたくないよ……っ」


 ――俺はもう一度、震える彼女を抱きしめた。それしか、出来なかった。

 聞こえてくる呼吸音は不規則で、このまま呼吸困難になってしまうのではないかとすら思えた。身体も、見るだけで分かる位に震えている。それでも、彼女は決して声をあげなかった。もしかすれば、俺にその声を聞かれたくなかったのかもしれない。

 浅い呼吸を繰り返しながら静かに泣いていた彼女は、やがて顔をあげた。俺の身体から離れ、濡れた目や頬を手の甲で拭う。


「……ごめんよりも、ありがとうって言いたかったのに。なんでこんなに上手くいかないんだろうね」


 笑う。それからまた、顔を曇らせた。


「……山田君、ごめん」


 ありがとうと言いたいと宣言した直後に、何故また謝るのだろう。俺はぼんやりと思った。

 彼女は悲しいような、困ったような顔をしている。かと思えば、俺の顔を見て声を震わせた。


「――泣かないで」


 意味が、分からなかった。


「俺は泣いた事などない。寂しいや悲しいという感情は、斎藤達に比べてずっと薄いんだ。そんなプログラムは、」


 斎藤は黙って、俺の頬に手を伸ばした。そこにはやはり感覚がなく、けれども斎藤の手は透明な何かで濡れていた。


「あ……」


 ――俺は、泣いていた。

 目から何かが溢れ出す感覚も、それが頬を伝わる感覚も分からなかった。ただ、ようやく分かった事があった。

 悲しいんだ。誰かが死ぬのは。その人が特別ならば、尚更。

 俺は彼女を失うのが怖かった。笑いあい、語り合い、触れ合う時間が二度となくなってしまうのが、怖かった。

 そして悲しかった。斎藤を外に連れだしてやれない事も、幸せにしてやれない事も、――彼女が死ぬ事も。

 楽しかったはずの記憶までもが、全て絶望に変わる瞬間を俺は知った。


 三度目の抱擁は、斎藤からだった。彼女は俺を包み込むように、そっと腕を回してきた。


「泣かないで」


 ――彼女の体温すら分からない身体を、いっそ壊してしまいたかった。

 俺は砂浜に突っ伏した。彼女は強かったのだと知る。泣く時、絶対に声をあげなかった。

 彼女に抱きしめられたまま、俺は大声をあげた。獣が咆哮するように。その声はなんの言葉にもなっていなくて、ただ叫んでいるだけだった。

 傍から見ればその姿は、酷くみっともないに違いない。声をあげずに泣くにはどうすればいいのだろうか。分からない。……分からない。

 彼女は死ぬ。いなくなる。白い部屋。十二年。ひとり。水平線の向こう。夏の海。図書室。高校生。五年後。――三か月。

 彼女は、死ぬ。

 考えれば考えるほど悲しくなって、混乱すればする程、声が大きくなった。涙という物を止める方法すら思いつかずに、俺は延々と泣き続けた。

 アンドロイドの声は枯れるのだろうか。そんなどうでもいい事が、頭をかすめた。


 斎藤は俺を覆い隠すように、守るように、静かに抱きしめてくれていた。

 ……けれど分からないんだ、斎藤。まるで空気のようなんだ。空気に触れていると、意識した事はあるか? ――ないよな。風じゃない、空気なんだ。斎藤はここにいるのに、支えてくれているのに、まるで空気のようなんだ。何も感じられないんだ。

 俺の声のせいで、斎藤の呼吸は聞こえなかった。何か言ってくれたかもしれない。けれど、それも聞こえなかった。

 分からないんだ。俺には、何も。

 俺は空気を抱き、空気に抱かれた。空気に包まれて、思い切り泣いた。

 ――違う、空気なんかじゃない。

 触れられなくても、あたたかさが分からなくても。


 斎藤は確かに、ここにいる。



 空の青さと、海の青さの違いが分かるような時間になっていた。俺と斎藤は二人並んで座り、無言で海を見ていた。色々な意味で、どちらもぐしゃぐしゃだった。


「……いつか、おとぎ話の事を話したよね」


 言い出したのは斎藤だった。俺は無言で頷く。


「山田君は確か、おとぎ話にはハッピーエンドがないんだって言った。未来がないって」


 俺はまた無言で頷いた。声が出るかどうか、怪しかった。


「……私達のこれも、おとぎ話みたいだね」


 斎藤は笑った。俺に言われたくはないだろうが、情けない笑顔だった。


「クローン人間と、アンドロイドが恋しちゃうなんてさ。なんだかおかしいよね。作り話みたい。人間として育たなかったクローンと、人間のように育ったアンドロイドが、檻から脱走して海を見に行くの。――ね、おとぎ話みたい」


 でもさ。彼女は小さく息を吐いた。


「……おとぎ話は、未来をくれない」


 彼女が目を細めた拍子に、目尻から涙が一粒、零れ落ちた。


 斎藤卯月は十二年間、白い檻の中にいた。その後は、エメラルドグリーンの檻へと移された。それは少し広くなっただけで、人と多少交流できるようになっただけで、檻の中だという事には変わりなかった。

 彼女は檻の中で一人、膝を抱えていたのだろうか。今のように。おとぎ話に出てくる女の子のように、ずっと一人で耐え続けていたのだろうか。

 おとぎ話にはお決まりの結末があった。誰かが女の子を救うのだ。それは王子様かもしれないし、魔法使いかもしれないし、猟師かもしれなかった。

 けれど俺は、そのどれにもなれなかった。

 彼女をここから連れ出す王子様にもなれなかった。魔法が使える訳でもなかった。猟師でもなかった。


 山田実は、奇跡の存在とすら呼べないような、ただの一体のアンドロイドだったんだ。


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