1
近頃、斎藤の様子が変だ。
変、と表現したが、別にいきなり発狂した訳ではない。いつも通り食事をしているし、会話もするし、放課後の勉強も続けている。彼女が熱心なのか、それとも勉強の素質があったのかは分からないが、学力は目に見えて伸びていた。
日常生活における彼女はきわめて普通だ。平常運転と言える。問題は、俺と接している時の態度だ。
会話が弾んだかと思えば、急によそよそしくなる。楽しげに笑ったかと思えば、ふと悲しそうな目をする。「山田君は」とまで言っておいて「やっぱりいい」というのを何回言われた事か。
月経による女性ホルモンのバランス……にしては期間が長い。俺が気付いた限りでは、クリスマスから現在、一月中旬に至るまで斎藤はその調子だった。月経不順か? それとも、女性ホルモンによる影響は二週間以上にも及ぶ物なのか? もしそうであるならば、世の女性達は月の半分以上、情緒不安定なままで過ごしている事になる。しかしどうだろうか。鍵谷も森口も、そのような態度は見せていない。
あらゆるデータを総合して、結論を出そうとする。
――つまるところ、俺は斎藤に。……斎藤に?
何故かここで回路が途切れそうになる。俺は慌てて修復し、もう一度結論を出す。
つまり俺は、斎藤に、嫌われてしまったという事だろうか。
だとすれば何が原因だろうか。確かに、不適切な発言は何度かした。自覚しているだけでも何度かはしているのだから、斎藤からすればもっと多かったかもしれない。いつの、どれが決定打になったのだろうか。考えてみるが、きりがない。
仮に発言の問題でないとするならば、なんだろうか。最近、何かしただろうか。した事といえば、正月というイベントを迎えた位だ。木々に覆われているこの建物からでは初日の出は見えず、結局朝食時に「あけましておめでとう」を言い合った程度だった。特におかしなところはなかったはずだ。大体、あの時は二人きりでも何でもなく、他のメンバーも一緒だったし、斎藤に不自然な点は見られなかった。少なくとも、俺から見る限りは。
訳が分からない。放課後の勉強は続いているのだから、斎藤は俺の事を嫌ってはいないのだろうか。それとも、本当は嫌なのに断れず、渋々やっているだけなのだろうか。
――生理的に受け付けなくなった、というのはどうだろうか。
これならばもう、対処のしようがない。大体俺はアンドロイドであり、『生理的に受け付けなくなる』という現象を頭では理解していても、そこに陥った事はない。
この仮説が正しいのであれば、俺はどうすればいいのだろうか。
何度でも言うが、訳が分からなかった。一人で考えていても埒が明かない。しかし誰に相談する。鍵谷と名倉は論外だ。森口か? それとも轟?
俺は、斎藤に嫌われたくはなかった。出来るのであれば、仲良くしたかった。野鳥の本を見ていた時のように、純粋に笑いたかったし、笑う彼女が見たかった。それだけなのに。
「……正月が終わったかと思えばバレンタインだもんな。せわしない世の中だぜ」
轟の呆れたような声が聞こえてきて、俺は顔をあげた。ここは談話室。俺は轟と共に、テレビの前に座っている。今日は水曜日で、時刻は夜の八時過ぎ。斎藤の事を考えすぎていて、自分の現状を把握するのに多少の時間を要した。
轟はテレビでチョコレート特集を組まれているのを見ながら、頬杖を突いた。
「友チョコだの逆チョコだの考えた馬鹿は誰だろうな。いい迷惑だっつーの」
「なんだ、それは」
バレンタインデーに、日本ではチョコレートを贈る習慣があるのは知っている。しかしそれは、大まかに分けて二つだったはずだ。女性が好意を抱いている男性に送る本命チョコと、友達として渡す義理チョコ。俺のメモリには、その二つしか入っていない。
「なんだ、おめー知らないの? 友チョコってのは、同性同士で送るチョコの事だ」
「ならば俺には不要だぞ、轟」
「誰がお前に贈るって言った? 俺も要らねえよ。あとこの友チョコってのは、どっちかといえば女子同士でやってるのが多いな」
「つまり、同性愛者間で贈るチョコレートの事か?」
「だーかーらー、『友』チョコだっつってんだろうが。……いやどうなんだろうな、同性愛者同士で渡すチョコって。本命に分類していいんじゃねえのか? 好き同士な訳だし」
「成程、理解した。では、逆チョコというのは?」
その逆チョコが面倒なんだよと、轟が鬱陶しそうに頭を掻いた。
「逆チョコはな、男が女にやるチョコだ。つまり、女から男に渡すっていう本来のスタイルとは逆。だから『逆』チョコだ」
「男性が、好意のある女性に渡すのか?」
「そういう事だな。誰だよこんな面倒なイベント立てたの。所詮、製菓会社の陰謀に踊らされてるだけだぜ」
「――その、女性だが」
「ん?」
「女性は、バレンタインデーに男性からチョコレートを貰ったら、喜ぶのか?」
俺の言葉に、轟は目を見開いた。
「え、何お前。渡したい奴でもいるのか?」
斎藤の顔が浮かんだ。が、瞬時にデリートした。
「単なる興味だ。俺は逆チョコなる物をやった事がない。轟はあるのか?」
「一度もねえよ。俺は、年賀状もバレンタインも、くれた奴にだけ返す主義だ。あと、女子が喜ぶから逆チョコも流行ってんだろ? 自分が相手に渡すつもりが、相手が自分にくれたとか、そういうドッキリシチュエーションが好きなんだよ女子は」
「そうなのか。ならば」
「まだなんかあんのか」
「自分が嫌っている男性からチョコレートを貰ったら、女性はどう思うのだろうか」
轟は眉をひそめた。今まで見た事のないような顔で、というよりも今まで見た事のない俺を見るような目で、こちらを見ている。
「……つまりなんだ? おめーを嫌ってる女に、逆チョコを渡すつもりなのか?」
「例えばの話だ。俺の話ではない」
「ふーん。あっそう。じゃあ普通に忠告するけど、それは逆効果かもな。仮にお前が、嫌いな女子に本命チョコ貰ったらどうだよ。反応に困るだろ?」
「そうか理解した。ならば」
「まだなんかあんのか」
「女性が喜ぶ物とは、なんだろうか」
轟はあんぐりと口を開いた。さながらそれは、猫のフレーメン反応のようであった。轟があまりにも無言なので、こちらから話を続ける事とする。
「一般的には、花やケーキなのだろうか。少なくとも欧米などでは、そういった物が贈られているはずだが」
「……花束渡すのか? お前が? その仏頂面で? まさかラフレシアとかアロエの花なんかを組み合わせたりしねえだろうな」
「轟と違い、そういった趣味はない」
「俺がいつ、そういう趣味があるって言った」
ここで俺は思い出した。斎藤はガーデニングをやっている。それならば少なくとも、花は好きなはずだ。
だとすれば、花をやったら喜ぶだろうか。いや待て、どうやってそれを調達する。このような孤島ではネットでも入荷できないし、整備されたグラウンドには野花もほとんどない。
「花束ではなく、花の種というのはどう思う?」
「……相手にもよるだろうけど、喜ぶっちゃ喜ぶだろうな。インパクトに欠けるが」
「そうか、インパクトが必要なのか。ならば、そうだな例えば」
「いやもうマジでお前なんなのさっきから。真剣な人間にこう言うのも悪いけどな、正直ちょっとキモいって」
「キモい?!」
俺は思わず大声を出した。しかし、キモいとはすなわち気持ち悪いという意味だったはずだ。気持ち悪いのか俺は。キモいのか俺は。
もしや、気持ち悪いと思われているのか? 斎藤にも? 斎藤にも「山田君、キモい」などと思われているのだろうか。キモい。山田君キモい。
明らかにおかしな態度を取っている俺を見て、轟は「悪い」と謝ってきた。
「そこまで反応しなくてもいいじゃねえか……」
「しかし今、お前がキモいと」
「悪かったって。だってお前、いつもと違うじゃん。変だし」
「変? 俺が?」
変なのは俺ではなく斎藤だ、と声を大にして言いたかった。しかしこらえる。
轟は今度こそ真面目な顔で、身を乗り出した。
「あのさあ、山田。もう言っちまえって。好きな奴、出来たんだろ」
「好き? 好きとはなんだ。どういう状態になったらそうだと言えるのだ。相手を見て心拍数が上昇した時か? 頬が紅潮した時か? それとも男性ならば相手に性的興奮を覚え、ぼっ」
「はいストップな。それ以上言ったらお前完璧変態だぞ」
轟はもう呆れかえったを通り越したような、手の施しようがないといった様子で立ち上がった。
「ま、精々頑張れよ。女が喜ぶものなんざ、千差万別だぜ。花束で喜ぶ奴もいれば、メッセージカードで喜ぶ奴もいる」
「特定のパターンはないという事か」
「人間なんざ、そういうもんだろ」
轟は踵を返し、右手をあげた。
「じゃーな。俺はゾンビドラマでも見るわ」
「あ、待て轟。最後にもう一つ聞きたいことがある」
「まだなんかあんのか。……いいよ、なんだ?」
「――キモいというのは、一般的にどういう時に感じる物なのだろうか。キモい人間というのを、具体的に表現してくれると非常に助かる。故に出来れば今から、キモい人間を演じてみてくれないか。是非ともそれを、客観視してみたい」
その時の轟の顔は、俺が故障し破棄される時まで忘れないだろうと思う。
「――という訳なのですが」
斎藤の様子が変である事と、轟との会話をかいつまんで赤井に説明した。赤井はうんうんと頷きながら、ノートに何やら書き記している。
俺用のノートがあるのであれば、斎藤用のノートもここにはあるのだろうか。あるだろう。斎藤は、カウンセリング室を利用しているのだから。
だとすれば、どういった悩みを話しているのだろうか。まさか、俺がキモい事を相談しているのではないだろうか。
そういえばこの前、ここで斎藤と出くわしたとき、彼女はやたらと挙動不審だった。それはてっきり『カウンセリング室』という、他者には知られたくない場所で出会ったせいだと思っていたが、もしかしたら違うのではないか。あれは、『山田実がキモい』という話を赤井に相談した直後で、そんな時に張本人の俺が扉の前に立っていたから驚いていたのではなかろうか。
――そう考えると、全て納得がいってしまう。なんという事だ。
「……山田君? なんだか様子が変だけど大丈夫?」
赤井が心配そうに、こちらを覗き込んできた。『珍しい』の次は『変』ときた。最近の俺は一体どうなっている。
「俺は何ともありません。全パーツが正常に作動していますし、データもメモリも破損していません。ウイルスに感染した訳でもないですし、正常です」
「うん、そっか。そうだよね。それで? 山田君はどうしたいの?」
「仲直り出来れば、と思っています」
「仲直りかあ。喧嘩したんだっけ?」
「いいえ。データを参照した限り、言い争ったりした事はありません。しかし、どうも避けられている気がするんです。よそよそしいという単語の方が当てはまっているのでしょうか。とにかく、嫌われているのではないかと思うんです」
「喧嘩してないのに、山田君はそう思ったんだね。そっか。じゃあ、山田君はどうしてその子には嫌われたくないのかな?」
どうして斎藤に嫌われたくないか? 俺は考える。斎藤と仲良くする事によって、俺に生じるメリットとは何だろうか。
「――新作の小説を読ませて貰えなくなる、からでしょうか」
「答えなのに疑問形だね」
赤井はそう言って、ふっと笑った。それからぽつりと呟いた。
「――……これでも結構ヒント出してるつもりなんだけどなあ」
「ヒント?」
「ううん、なんでもない。これは山田君が、自分で考えなくちゃ。人間と一緒に暮らすためには、必要な事だよ」
「必要、ですか」
俺が考え込んでいると、赤井は何故か目を細めた。成長する子供を見守るような目だ。
「それで。相談っていうのはなにかな?」
「赤井先生は、逆チョコなる物を知っていますか」
「うん。男の子から女の子にあげるんだよね、確か」
「先生は、それを貰ったら嬉しいと感じますか」
「思うよ、勿論」
「では、どのようなチョコレートがいいと思いますか」
「私は、ウイスキーボンボンが好きだなあ」
その単語を、俺はすぐさま検索した。ウイスキーボンボン。
「アルコール入りのチョコレート、ですか」
「そう。あの渋い感じがいいんだよね」
「それは駄目です」
「うん? なんで?」
「似たようなチョコレートを食べて、彼女が顔をしかめていました。恐らく、彼女はそれを好んでいません」
クリスマスの事を思いだす。アルコール入りのチョコレートを食べた斎藤は、軽くショックを受けたようだった。味覚のない俺はチョコレートの味の違いなど全く分からないが、においから察するに、酒の味がするのだろう。
あの時、斎藤は美味しいとは言っていなかった。恐らく苦手な部類だったのだと思う。
「ウイスキーボンボンが苦手な女性が好きなチョコレートとは、なんでしょうか」
「んー。それは流石に個人の好みの問題だから、私は答えられないなあ」
「そうですか」
「……山田君。前に、パフェを奢った時に彼女がコーヒーを返してくれたって話、あったでしょう」
それならメモリに残っている。俺はチョコレートパフェを奢って、彼女は俺にコーヒーをくれた。パフェではなく、ホットコーヒーを。俺がより好きな物を選んだんじゃないか、というのが赤井の意見だった事も覚えている。
「あの時の彼女の気持ち、今ならちょっと分かるんじゃない?」
相手が喜んでくれるものを、あげたくなるの。赤井はそう付け加えた。
「――別にバレンタインじゃなくてもいいし、チョコレートじゃなくてもいいんじゃないかなあ」
そう言って、赤井は大学ノートを閉じた。今日はこれ以上記録するつもりはない、という意志表示のようだった。それとももう、今日の記録は全て終えたのか。
「相手が喜ぶ物を、いつでも渡せばいいんだよ。チョコじゃなくて、花でもいいし」
「ここでは花束は手に入りません」
「あ、そっか」
赤井はくすくすと笑う。
――何故だろう、その顔はどこか、斎藤に似ていた。楽しそうに笑うのに、悲しそうな表情を作る。声と顔が、矛盾しているような、違和感。
「とにかく」
赤井は咳払いして、まっすぐに俺を見た。
「相手が喜ぶかどうか考えるのが、大切なんだよ。その結果選んだものが、相手にとっては不要な物だったとしてもね」
「不要な物を貰って、嬉しいのですか?」
「そこも宿題だなあ」
そう言って、赤井は立ち上がった。俺も腰を上げる。地下研究所に向かいながら、俺は斎藤が欲している物が何なのかを考えた。
『……ここがもしも外だったら、どこに連れて行ってくれてた?』
いつかの斎藤の声が、言葉が、頭をよぎった。
その後の俺の返答も。その後の斎藤の要望も。
「――海」
先を歩く赤井には聞こえないよう、俺は小さく呟いた。