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斎藤卯月は、いまだに檻の中なのではないかと思う。
彼女はかつて、引きこもりだったと言っていた。そこからこの学校に来て、他の生徒と触れ合っている点では、彼女は成長したと言えるし、外に出たともいえる。
しかし、どうだろう。ここは孤島で、施設の外に出ることは許されていない。十三歳から二十歳まで、ずっとだ。思春期を全てここで、固定されたメンバーで、変わらない風景で過ごす事になる。
目の前にあるエメラルドグリーンのフェンスを見やった。針金であろうと、鉄格子にしか見えない。――檻だ。俺達は檻の中にいる。どうしてもっとこの事実に気付かなかったのだろうか。
本来ならば、様々な情報を吸収する時期だ。あちこち歩いてみたり、遊びに行ったり。色々な風景と出会い、そこにいる人々と一瞬でも繋がる。ここにいる限り、それができない。
無論、大人になってからそれをする事は可能だ。遅い事など何もない。しかし斎藤はどうだろうか。ここを出た後、自らの足でどこかに行こうとするだろうか。
――海、と言っていた。どこかへ連れて行くと言った時、彼女が答えたのはディズニーランドでもUSJでもなく、海だった。北海道なのか、沖縄なのか。それすら指定しなかった。あの時、沖縄の海に行こうと言ったのは俺の方で、彼女はただ泣いているだけだった。
左横から、搬入口の扉が開く音がした。俺は立ち上がる。校舎裏でずっと待っていた甲斐があった。
「すみません」
俺に声をかけられたトラックの運転手はこちらを振り返り、それから露骨に嫌な顔をした。被っていたキャップを取り、頭を掻く。顔を見る限り、二十代前半であるようだった。
「あー。君、ここの生徒だろ? 参ったな。生徒とはあまり話さないよう言われてるんだ。勉強に差し支えるからとかなんとかで」
こちらは「すみません」しか言っていないのに、これだけの情報を得られた。案外とお喋りなようだ。
これなら、いけるかもしれない。
「お手数はおかけしません。話もすぐに済みます」
「悪いけど……」
「恐らく、生徒に漏洩してはいけないと口止めされているのは、島の外の事でしょう。島が日本のどこに属していて、このトラックがどの港から来ているのか。違いますか?」
「そうだけど……」
そうやって肯定する時点で、ある意味漏洩したのと変わりない。口止めされた場合、口止めされた事をまず黙秘すべきだ。そう思ったが、黙っておいた。
「では、島の中の事ならば教えていただけないでしょうか。ご迷惑はおかけしません」
「いや、でも」
「島の外ではなく、中の事です。ここの施設との契約に抵触している訳ではありません。問題ないでしょう」
「いや、やっぱりまずいんじゃないかな……。俺も直接雇われたわけじゃないし、何とも言えないんだけど……どこまで言っていいのか……」
「では、こちらから一方的に質問します。答えられそうなら答えてください」
「聞くだけなら……。何?」
「この施設から埠頭まで、何キロほどありますか」
結局、可哀想なこの男は、全ての質問に答えてくれた。
フェンス沿いに歩いて、あちこちに目を配る。監視カメラの台数やアングルから考察するに、死角は山ほどあった。地下研究所にはこれでもかと言わんばかりにカメラが設置されているが、グラウンドに関しては無防備といえる。
人間を察知するようなタイプの警音器もなさそうだ。刑務所ではないのだから、高い塀に囲まれている訳でもない。あの男には訊ねなかったが、恐らくこの島から本土まではそれなりの距離があるのだろう。
フェンスの外に出たところで、外の世界まで逃げられるはずがないと高をくくっているのかもしれない。あるいは、わざわざ選抜試験に通ってきた秀才達が、人生を棒に振るような事はしないだろうと考えたのか。いずれにせよ好都合だ。俺の目的は本土ではないのだから。
ここまでくると、後は斎藤だ。もしもフェンスの外に出たとしたら、その生徒はどういった罰を受けるのだろうか。俺はアンドロイドであり実験体だから何の問題もないが、ただの生徒である斎藤がどうなるのかは謎だった。この施設に退学処分があるのかどうかは分からない。
特に俺の場合、後にデータを参照される。その際、『施設を抜け出して海に行った』というデータは確実に残っているだろう。無事にこの施設から抜け出し海まで辿り着いたとして、その後、太田と赤井にどう弁解するか。そこが問題ではあった。
だが、あの二人ならある程度の事は認可しそうでもある。施設を抜け出し海に行くというのは、今までの俺からは生まれない発想だ。
人間に海を見せたいがために、計画し、行動した。アンドロイドに人間らしさを求める研究員にとっては、ある意味おいしいエピソードだろう。大体、斎藤が俺を引っ張ったのではなく俺が斎藤を引きずり出すのだから、斎藤は被害者だ。そう主張すればいい。お咎めがあるとするのならば、俺の方だろう。
となると、残る問題はやはり斎藤だ。
退学処分になる可能性があっても、彼女はついてきてくれるだろうか。
「連れてって」
俺は恐らく、変な顔をしただろう。またしても『変』だ。斎藤はいつもよりも真剣に、こちらを見ている。俺が斎藤を校舎裏に呼び出し、「海を見に行かないか」と言ったのは一秒前だった。答えが早すぎないだろうか。
「念のために言っておくが、五年後の話ではない。ここを卒業してからの話ではないんだ」
「五年後じゃなくて、今だよね? じゃあ、行きたい」
じゃあ、の意味がよく分からなかった。斎藤の吐く息で、時折彼女の表情が見えなくなる。まるで、校舎裏で煙草を吸う不良のようだ。
冬に吐く息は紫煙に似ている。――二日前に読んだ本に、そう書いてあったのを思い出した。
「斎藤もある程度想像出来るとは思うが、この計画はばれたらおしまいだ。いや、計画時点でばれるなら問題ないだろう。ただ、フェンスの外に出た事が発覚したら、どうなるかは分からない」
「山田君は、どうなると思うの」
「最悪、退学処分だろう」
俺の言葉に、斎藤は顔を歪めた。それもそうだ。猛勉強してここに来た人間が、退学処分になってまで海を見たいと思うだろうか。
しかし、斎藤が心配しているのは、自分の事ではなかった。
「山田君はそれでいいの?」
「俺? 俺がなんだ」
「退学になっちゃうかもしれないんでしょ」
「最悪を考えるのであれば、そうだろう。流石に命を取られることはないと思うが」
「でも、退学なんだよね?」
「ああ」
「じゃあやめよう」
頷くのも早ければ、退くのも早い。俺は首を振った。もしも斎藤が、俺の事を心配しているのであればそれは間違いだ。俺はこの施設出身のアンドロイドだから、退学なんて物は絶対にありえない。彼女には伝えられないが、それが事実だ。
「俺は退学になっても構わない」
「どうして」
「この学校に、さほど愛着がある訳ではないからだ。だから今は、斎藤の意志を訊いている。最悪退学処分になるとしても行くか、行かないかだ」
「行きたい」
即答だった。しかし、またもや躊躇する。
「でも、……山田君は本当にそれでいいの?」
「それ?」
「退学になっちゃうかもしれないんでしょ。私はいいの。馬鹿だし、この学校にいるのもギリギリだと思ってるから。でも、山田君は頭いいじゃない。退学なんて勿体ないよ」
「退学になると決まった訳ではないだろう」
俺は笑った。
「それに、俺は斎藤が言う通り『頭がいい』。その頭を最大限に駆使して、海まで案内すると約束しよう。勿論、施設の人間にはばれないようにだ。それに、俺も海を見てみたい」
そこで斎藤が首を傾げた。
「見てみたいって……。山田君、海を見た事がないの?」
「五歳だからな。見た事がない物なんて、山のようにある」
俺がそう言うと、斎藤はくすくすと笑った。俺は至極真面目に、本当の事を言ったはずだ。なのに、
「何がおかしいんだ?」
「だって。山田君、変わったよ」
「そうか?」
「うん。クールビューティーのクールが抜けた感じ」
「なんだそれは」
「なんでもない」
斎藤はそう言って、フェンスの外へと目をやった。そこにあるのはトラックの通る舗装路と、鬱蒼と生い茂った木々だけだ。
「――その向こうに、海がある」
「うん」
「ついてきて、くれるか?」
俺が最後の確認をすると、斎藤はこちらを向いた。笑っているのか悲しんでいるのか分からない、奇妙な顔をしていた。泣きだし、そうな。
「……訊きたいのはこっちだよ。連れて行ってくれる?」
俺は頷いた。無言で、けれども力強く頷いたつもりだった。
それから、小さいながらも重要な問題を思い出した。
「斎藤は運動が得意ではないと言っていたが、そのフェンスは登れそうか?」
高さは二メートル程だ。俺ならば楽勝だが、運動音痴の人間がどうなるかまでは予想が出来ない。
斎藤はふいっと上を見上げた。それから、こちらを見て微笑んだ。
「大丈夫。駄目だったら最悪、フェンスを突き破ってでも行くから」
「物理的に考察して、それはまず不可能だ」
「うん知ってる」
斎藤は昔と同じように、楽しそうに笑った。
その笑顔が、嬉しかった。
ばれないように物事を進めるのであれば、まず、休日の土曜日か日曜日が良いだろうと思った。授業をサボれば一発でばれるし、夕方はグラウンドでサッカーやテニスをしている連中がいる。真夜中の海は興味がないので候補から外すとして、外がある程度明るく、かつ人目が一番少ない時。それは、休日の朝だ。
ただし、季節が季節なので、日の出が遅い。空が明るくなるのは六時三十分から七時頃だ。つまり、朝食の時間と被っている。海を見る時間はもちろん、海と施設を往復する時間も考慮すると、朝食を摂る事はまず不可能だった。
食堂の食事は必ず食べなければならない物ではなく、誰が食べたか、あるいは誰が食べていないかなど、職員はいちいち把握していない。おかげで、夜更かしする輩は朝食をパスする事も多い。例えば轟なんかがそうだ。一日くらい俺と斎藤がいなくても、誰もなんとも思わないだろう。
食事抜きになる、と斎藤に一応伝えてみたが、意に介する様子もなかった。まあ、退学処分もいとわない人間が、朝食を惜しむのもおかしい。
「クリスマスに澪から貰ったお菓子の余りがあるから、それ持っていくね」
どこか暢気に、斎藤はそんな事を言った。何故かおかしくなって、俺は微笑んだ。
そうして俺と斎藤は、海を見に行く決意を固めた。傍から見ればちっぽけな、けれど二人にとっては大脱走ともいえる計画だった。
その週の土曜日、午前六時半に校舎裏で待ち合わせをした。運搬用トラックは午前六時に入り、二十分頃に出ていくので、先日の運転手と鉢合わせることもなかった。
俺の方が、斎藤よりも一足早く到着した。一人で待つ時間は退屈で、しかし憂鬱ではなかった。
「ごめん、おまたせ」
薄暗い空の下、斎藤が小走りでやってくる。その姿を確認して、俺は何故か違和感を覚えた。
彼女のどこが変なのかは分からない。とりあえず服装をチェックしてみる。茶色のダッフルコートに、赤いチェック柄のマフラー。フェンスを乗り越えると話をしたからか、ジーンズを着用している。靴は相変わらずコンバースそっくりな、けれども名前も知らないブランドのスニーカーだ。これといって不自然な点はない。
髪型をチェックしてみる。いつもと同じだ。ならばなんだろうか。もしや、化粧でもしてるのか? いつもは化粧などしていないが。
「……えっと、どうしたの? 私、なんか変?」
「斎藤、化粧でもしたか?」
「え? ううん、ぜんぜん。いつもと変わらないはずなんだけど……。髪の毛でもはねてる?」
「いや、いつものボブだ」
「じゃあどうしてそんなにジロジロ見るの?」
何故なのか、俺にも分らなかった。ただ、俺の頭というか回路というかデータというかメモリというか、とにかく何かが急に壊れたような、得体のしれない気分がそこにあった。故障したのであれば大問題だが、そうではなさそうだ。こうして思考も出来ているし、身体も普通に動く。
「……なんで跳びはねたり、腕を回したりしてるの?」
「いやなんでもない」
故障していない。しかしなんだ? 斎藤と二人きりということに妙に意識がいく。今までだって、何度でも図書室で二人で勉強していたはずなのに。
俺がよほどおかしな行動ばかり取っていたのか、斎藤がくすくすと笑いだした。嬉しそうだ、とても。それを見て、俺の気分がとてもよくなる。
なのに、それに違和感を覚えた。斎藤の笑顔を直視できない。しかし、出来るならばもっと見たい。笑うのをやめて欲しい。やめないで欲しい。笑っていて欲しい。なのに見れない。しかし見たい。
どっちなんだ、訳が分からない。
「……山田君、本当に大丈夫?」
「俺は断じて故障していない」
「そりゃそうだよ、機械じゃないんだから」
斎藤は苦笑した。我ながら失言だった。ちらり、と斎藤に目をやる。分厚いコートを着ていても、彼女の肩の細さが分かった。男子の肩幅と女子の肩幅は違う。当然だ。
今まで何度でも見ている、斎藤の姿。
なのにどうしてここまで動揺しているのか。ここまでくると制御不能だ。
いや、もうこれ以上考えるのはとりあえずやめよう。今は時間がない。
「行くか」
俺はフェンスに手をかけ、斎藤に先に上るよう促した。とりあえず彼女に一人で登らせてみて、無理そうだったら俺が下から押し上げるなりなんなりしようと思ったからだ。
しかし斎藤は、案外すんなりとフェンスを登ってみせた。そしてこれまたすんなりと、地面に着地した。足音もほとんど立てないような、素晴らしい着地っぷりだった。
「――運動音痴というのは、嘘か?」
俺が呆然としていると、斎藤はちらりと舌を出した。
「運動嫌いなだけ。音痴って訳じゃないの」
斎藤に続いて、俺もフェンスをよじ登る。金網が音を立てるのが不安だったが、施設の人間が追いかけてくるような事は起らなかった。映画ならばそろそろ追いかけられる頃合いだろうが、外は意外と静かだ。出来る限り音を立てないようにして着地する。それから斎藤と顔を見合わせて、笑った。
「……フェンスの外、初めて出た」
「初めて?」
「嘘。なんでもない」
斎藤はフェンスを見上げながら、日も出ていないのに眩しそうな顔をした。しばらくそのまま動かずに、けれどやがて「えへへ」と笑いながら俺を見た。
「行こ。この道路をまっすぐ歩くんだよね?」
「いや、こっちだ」
俺は舗装路の向こうにある雑木林を指さした。
「ここを突っ切る。その方が早いし、人目につかない。道は悪いが」
「早いって……どうしてそんな事分かるの?」
斎藤の質問に、俺は微笑んだ。
「一万円で手に入れた、価値ある情報だ」
懐中電灯のみを頼りに進む雑木林は、想像よりかは歩きやすかった。たまに木の根や小石による段差がある程度だ。しかしその段差のせいで、何度かバランスを崩しかけた。
このペースで行くと、雑木林を突っ切るまでに大体三十分ほどだろうか。斎藤に確認したが、彼女は「三十分歩くのなんて余裕だよ」と笑った。
しかしやがて、彼女の息が切れだした。
「運動音痴じゃないはずだろう」
「運動音痴じゃないけど、運動不足だったって事だよ」
斎藤は少し苦しそうに笑って、それから「ねえ」と俺に声をかけた。
「なんだ?」
「…………手」
「手がなんだ?」
「……繋いでも、いい?」
俺は斎藤に目をやった。提案してきた彼女の方が、戸惑っているような目をしている。
「どうした? 歩きづらいか?」
斎藤は答えなかった。ただ、不安そうに俺を見ていた。
俺は腰のあたりで自分の左手を確認して、何故か一瞬躊躇して、けれどその手を斎藤に差し出した。
斎藤の右手が遠慮がちに伸びてきて、俺の左手を握る。
――その感覚はなかった。握られた事も、彼女の肌の柔らかさも、指の細さも、その体温も、全く分からなかった。
斎藤の右手が完全に俺の左手を掴んだ事を確認して、俺は彼女の手を握り返した。どの程度力をこめればいいのか、分からなかった。
感覚はない。彼女の右手が俺の左手と繋がっているのかどうか、目で確認しないと判別出来なかった。
感覚はない。だから、痛みもない。彼女の右手がどれほどの力を込めたとしても、俺には分からない。痛くはない。痛むはずがない。
――なのに、何故かとても苦しかった。
感じるはずのない痛みを、左手ではなく違うどこかで、俺は確かに感じていた。




