19 つばめちゃん
何あれ。まだ心臓がバクバクしている。
品行方正、清廉潔白、温厚篤実、あとなんだっけ。そんな四字熟語が似合う樹神くんが、乗り物酔いでぐったりとだらしない姿勢でいるだけでも私はすでにそわそわしていたんだけど、ぼんやり飴玉というか酔い止め薬を無意識でカリカリと噛んだりしていたから、そういうの噛まないほうがいいのでは?なんて言おうと思ったんだ。そうしたら。
悪い姿勢で、微笑まれたのがだめだった。私はギャップに弱いみたいだった。樹神くんには隙がないと思っていたけど、何だあれは、隙だらけじゃないか。
撃ち抜かれたのがバレないように、私はそそくさと目を逸らしてスマホの画面を起動する。隣で桜井先生もスマホを操作していたが「何これ」と、前にかがんで私越しに樹神くんに話しかける。
「特進に返り咲くための勉強ログさん?」
「あ」
「そうだった、名前元に戻すから、山田さんのほうで変えておいて」
樹神くんはスマホをかばんから取り出す。しばらくしてからLINEのリストを見ると、表示が谷川に戻っていた。
私は表示名を『谷川 特進に返り咲くための勉強ログ』に変えた。樹神くんは、私がちゃんと名前を変更したかどうかを確認する。
「Botだと思って気軽に送ってよ」
「いやいや」
というか、樹神くんと桜井先生はLINEを交換しているんだ。いいなあ私も入れてほしい。
「他の先生も入ってるグループだよ。学年主任とか」
桜井先生が先回りして答える。
なんで考えてることがわかるんだろうなあ。
「先生、お子さんの写真とかないんですか」
樹神くんが藪から棒に話題を入れてくる。私に桜井先生を諦めさせようという作戦だろうか。そういうんじゃないのに。
「見てくれるの? これがつばめちゃんフォルダ」
「つばめ?お名前にですか」
「そう」
桜井先生はスマホの画面を私のテーブルの上に置く。そこには小さな女の子のおびただしい数の写真があった。
「さすが樹神くん。祖父母には反対されたよ。年配の人はダメっていうよね」
「気にはするかもしれないですね」
「なんですか、キラキラネームってことですか」
私はちょっと意味がわからず、薄く話に混ざりながらフォルダの写真をスワイプしていく。桜井先生の小さい版のような可愛い女の子だった。
「うん、そんな感じ。でも新幹線の名前になるような言葉が悪いわけないでしょ」
「たしかにそうですね」
「それに実際、俺がそうだったしね」
先生がそういうと、樹神くんは咽せ返る。
「え、奥さん結婚していたんですか」
「樹神くんにとっては大事なことだから言うけど、独身だよ。もとの語源もそうだし。大正時代には男のほうが年下ってだけでセンセーショナルだったんだろうね。時代が下がってそれが変に捻れて伝わったんだと思う」
「失礼しました」
私は意味がわからず桜井先生の顔を見る。
「何の話ですか」
「平塚らいてうが奥さんだなんて上等じゃんって話」
桜井先生はニヤッと笑う。
私はスマホの写真に視線を戻す。女の子の近くに、ときどき女の人が映っている。これが先生の奥さんかな。すごく普通の感じの人だった。
スワイプするうち動画があって、つばめちゃんと奥さんが動き出す。公園みたいなところで、つばめちゃんがめちゃくちゃブチ切れて泣いているんだけど、先生の奥さんはずっとにこにこしていて、手を大きく広げたら、そこへ怒っていたつばめちゃんがダイブしていた。するとケロッとしてまたつばめちゃんは遊び出す。その後、先生が撮っていることに気づいて奥さんは、はにかんだ。その顔が恋してるって感じでめちゃくちゃ可愛かった。
「それ俺すごい好きなやつ」
するといつも距離感をきっちり守る桜井先生が、私に顔を近づけて動画を覗いてきた。
「なんか映画みたいですね」
「そうなんだよね、毎日、映画見てるみたいな気分なの、俺」
「近い近い」
そう言って樹神くんがスマホを取り上げて先生に返す。
大丈夫だよ、樹神くん。先生は生身の女子中学生よりも、スマホの中の奥さんに夢中だから。
私はどちらかというと、いちいち世話焼きおばさんみたいな樹神くんに笑ってしまった。
「樹神くんってドラマとかのお局様みたいだよね」
と感想を述べると、桜井先生が吹き出して「どんまい!」と元気に言った。




