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岩 ――四谷怪談・現代異聞 第三夜

お盆の期間、休みの日にたっぷり読んでもらおうと1作25000字以上の中編小説を4編、用意しました。

夏なので怪談話を。


第三作目は、四谷怪談をモチーフに新たに現代のテイストを盛り込んでみました。


ゾッとする感じ。


それを表現できていたら執筆した甲斐があります。


※怪談話しが苦手な方は読まれないでくださいね。

第一章 告知事項


家賃は相場の半分だった。理由は聞かなくても、わかっていた。

仲介の男は、契約書のいちばん下の欄を指の腹でそっと隠した。「告知事項が、ひとつ、ございます」。それだけ言って、目をそらした。私は判を押した。ほかに行くあてがなかった。


四〇四号室。四が三つ並んでいる。四階のいちばん奥。窓の外は隣のビルの壁だった。昼でも部屋にはうすい夕方の色が溜まっていた。

内見のとき、あの男は奥の洗面所の前だけ足を止めなかった。体を斜めにして、早足で通り過ぎた。私は、水回りの傷みでも隠したいのだろうと思った。そう思うことにした。


荷物は段ボールが六つきりだった。恋人と仕事と貯金が半年で順に消えた。転がり落ちるのはあっけなかった。私は、その六つの箱を部屋の真ん中に積んで鍵を閉めた。

最初の晩私は顔を洗おうとして、洗面所に立った。蛇口をひねる。水はすぐには来なかった。ごぼ、と、管の奥で音がした。ずっと下の暗いところから、何かを、押しのけて上がってくるような音だった。それから、水が来た。


冷たかった。真夏なのに、指の骨に沁みた。この水はどこかで長いあいだ澱んでいた。そう思うと顔につけたくなくなった。


その夜私は水の音で何度も目を覚ました。蛇口はたしかに締めた。それなのに、台所のほうでぽたり、ぽたり、と水の落ちる音が朝までやまなかった。締めても、締めても、また落ちる。私は深く考えないことにした。古い部屋とはこういうものだ、と。そう思うことにした。けれど、そのそう思うことにしたが、この部屋ではいちばん危ない考え方だとあとで知った。


顔を洗って、目を上げた。鏡が正面にあった。曇った古い鏡だった。私は自分の顔を見た。それから、視線が下に落ちた。


排水口の金具のところに髪がからんでいた。長い。黒い。まっすぐで濡れて、光っている。私の髪は肩より短い。明るく染めてある。この髪ではなかった。

越してきた日の夕方、私は部屋の真ん中に座って天井を見ていた。

蛍光灯の傘に、うっすらと影が溜まっている。虫の死骸だろうと思った。

翌朝、脚立を出して見ると、そこにあったのは髪だった。

長い黒髪が、傘の内側にひと束、貼りついていた。誰かが天井まで手を伸ばして、置いていったように。


私はその髪を灯りに透かした。六十センチはあった。まっすぐで艶があった。若い女の髪だった。私は肩より短い。染めてある。この部屋に女はいない。私ひとりだ。ひとりのはずだ。もう一度見た。毛先がかすかに揺れた。風はなかった。窓は閉めてあった。私はそれを床に落とした。落とした髪は床の上でまた少し、動いた。生き物のように。私は見なかったことにした。


前の住人の残していったものだろう。掃除は入ったはずだった。それでも、そう思うことにして、私は指でつまんだ。つまんで捨てようとして、途中で手が止まった。

その髪は指のあいだでまだ濡れていた。何日も前に抜けた髪は乾く。これはたったいま、抜けたように、濡れていた。私はそれをごみ箱に落とした。手を二度洗った。

その日、私は部屋を掃除した。前の住人の気配を消したかった。押し入れの奥に髪留めが落ちていた。黒い。女ものの。錆びていた。台所の流しの下から、古い湯呑みが出てきた。底に黒い髪が一本貼りついていた。乾いた髪ではなかった。私はそれを洗わずに捨てた。ごみ袋を縛って、玄関に置いた。翌朝、ごみ袋の口が開いていた。なかの湯呑みがまた流しの下に戻っていた。私はその日、掃除をやめた。


その晩から、洗面所には匂いがこもるようになった。薬のような。それでいて、どこか甘く饐えたような。換気扇を回しても、消えなかった。窓を開けても、消えなかった。匂いは鏡のあたりから、していた。


夜私はその匂いのなかで眠った。眠ると夢を見た。いつも同じ夢だった。私は洗面台の前に座っている。鏡を見ている。鏡のなかの私は髪が長い。黒い。腰まである。私はそれを櫛で梳いている。しゃり。しゃり。梳くたびに抜ける。抜けても、また生えてくる。私は数えている。声に出して。一本。二本。三本。目が覚めると枕が濡れていた。涙ではなかった。水の匂いがした。私の枕もとに誰かの座っていたへこみがあった。まだあたたかかった。


二日目の朝、排水口にはまた黒い髪がからんでいた。同じ長さ。同じ黒さ。金具に三本いや幾筋も巻きついて、水を含んでいた。私は掃除をした。念入りにした。パイプの奥まで洗った。


三日目の朝またあった。


私は数えることにした。捨てるたびに日づけを書いた。一日四本。五本。六本。減らなかった。むしろ、日ごとに増えた。誰の髪なのか私は考えないように、した。考えるとこの部屋にいられなく、なる。


昼は外へ出た。仕事を探した。どこも決まらなかった。担当者は、みな私の顔を見ると少し、目をそらした。あなたの右の頬に何かついていますよ、と、一人が言った。私は手鏡を出した。何もついていなかった。ただ、右の頬が少し、赤かった。日焼けだと思った。その頃はまだそう思えた。帰りの電車で窓に映る自分を見た。私の後ろの席に誰もいないのに、黒い髪の頭だけがひとつ映っていた。振り返ると誰もいなかった。


夜洗面所に立つのがこわくなった。とりわけ鏡をまっすぐ見るのが。だから、うつむいて、顔を洗う癖がついた。鏡の面の奥のほうが水を張ったように、暗い。その暗がりのいちばん深いところで何かがこちらを見ている。そんな気がした。

一週間経った。夜中に目が覚めた。喉が渇いていた。私は台所へ水を飲みに立った。廊下は暗かった。洗面所の前を通る。通りざま横目で鏡を見て、しまった。


最初の晩、私は明かりをつけたまま眠った。

つけたまま眠るのは、子どものころ以来だった。

明け方、目が覚めると明かりは消えていた。


スイッチは、部屋の入口にある。私は蒲団から出ていない。

鏡のいちばん奥。私の脱いだ服を掛けたその影のそばに。白いものがふっと動いた。私は立ち止まらなかった。走らなかった。水を飲まずに蒲団に戻った。頭から、掛け蒲団をかぶった。


蒲団の内側で私は耳を澄ました。何も聞こえなかった。何も聞こえないことがいちばんこわかった。この部屋には私のほかに誰もいない。いないはずだった。


その晩、私は確かに聞いた。洗面所の水がひとりでに流れる音を。ごぼ、と、鳴って、しばらく流れて、止まった。誰も蛇口に触れていない。私は蒲団から、出なかった。確かめる勇気がなかった。確かめて、しまったら、後戻りができない気がした。壁の時計の秒針がやけに大きく鳴っていた。かちり。かちり。その音に、ときどき別の音が混じった。ぽたり、と。しゃり、と。まだ遠かった。まだ。そのまだが、いつまで続くのかを私は知らなかった。


次の朝洗面台の鏡に指の跡がついていた。内側から。曇った面を誰かが内側から、なぞったように。線は字になりかけていた。た、と、読めた。次の字は水滴で崩れていた。私は指でその跡を消した。消しても、翌朝、またあった。少しずつ字が増えていた。たか、と。私はそれ以上読むのをやめた。読んでしまえば、その名が誰の名かわかって、しまう。わかれば、次は私の名がそこに書かれる。そんな気がした。鏡を拭くのをやめた。曇った面の内側で指が動きつづけた。夜ごと。ゆっくりと。名前を書いては、消し、書いては、消して。


私はその字が書き終わるのを見たくなかった。書き終われば、呼ばれる。だから、鏡の前を通るとき目を伏せた。伏せた目の先洗面台の白い陶器に水が一滴垂れていた。天井から。見上げると天井は乾いていた。もう一滴垂れた。私の足もとに。私は部屋の隅へ逃げた。逃げた先の壁にも水が伝っていた。この部屋にはもう乾いた場所がなかった。水の垂れる音が部屋じゅうで鳴りはじめた。ぽたり。ぽたり。あちこちで間をずらして。大勢の誰かが順ぐりにそこに立って、髪から、水を垂らしているように。私は頭から、蒲団をかぶった。かぶった内側にまでその音は追ってきた。ぽたり。ぽたり。私の耳のすぐそばで。

明け方雨が降りだした。私はいつのまにか眠っていた。夢のなかで誰かが私の枕もとに座っていた。濡れた髪の匂いがした。あの甘く饐えた匂いが。


第二章 排水口


半月が過ぎた。排水口の髪は一日に十本を超えるようになった。

私はそれを透明の袋にためはじめた。捨てても、また生えてくる。ならば、いっそ集めて、どれだけの量になるか見てやろうと思った。おかしな考えだと自分でも思う。けれど、そうしないとこの部屋の静かさに負けそうだった。


袋のなかで黒い髪は日ごとにかさを増した。濡れたまま、束になり絡み合い、袋の底でひとつの黒い塊になっていった。ある晩、その袋を灯りに透かして見た。髪はまだ濡れていた。何日も、袋に入れたままの髪が乾かずに濡れている。私は袋を閉じた。二度と開けなかった。


袋は日ごとに重くなった。ひと月で両手で抱えるほどになった。私はそれを玄関の隅に置いた。ある朝、袋が湿っていた。外側が。なかの髪が袋を透かして、汗をかいたように。私はそれを外のごみ集積所に捨てに行った。翌朝、玄関の隅に同じ袋があった。同じ重さで。同じ湿り気で。私はもう捨てるのをやめた。袋は少しずつ人の背丈に近づいていった。


洗面台の鏡の裏が小さな戸棚になっていた。ある夜それに気づいた。開けてみた。埃の匂いがした。棚のいちばん奥に何かが押し込んで忘れられていた。

櫛だった。黄楊の目の細かい、女ものの櫛。歯のあいだにあの長い黒髪が幾筋もからみついて、乾いて、こびりついていた。私はそれを手に取った。指にしっとりと重かった。乾いているのに、濡れているような妙な重さだった。


櫛の歯を指でなぞった。黒い髪が幾筋もからんでいた。私はそれを外そうとした。外れなかった。歯と歯のあいだで髪は乾いて、木と一体になっていた。何十年もそこにあったように。それでいて、いちばん先のひと筋だけが濡れて、光っていた。たったいま、梳いたばかりのように。私は櫛を戸棚に戻した。奥へ押し込んだ。扉を閉めた。閉めた扉の向こうでかたり、と、櫛の動く音がした。


櫛といっしょにたたんだ紙が落ちた。写真だった。色が褪せていた。若い男女が写っている。男は美男だった。まっすぐこちらを見て、笑っている。女は、顔の右半分を男の肩に隠すように、うつむいていた。見えているのは左の伏せた目だけ。


裏に字があった。古い、ボールペンの字。民谷と読めた。そのあとに女の名らしい、一文字。岩。


いわ、と、読むのだろうか。こんないかつい名をこのうつむいた人はどんな気持ちで名乗って、いたのだろう。私はその一文字から、目を離せなくなった。指でそっとなぞった。指先から、ひやりと冷たいものが腕を上ってきた。

管理人の部屋の前を通ると、いつも湿った匂いがした。

一階のいちばん奥。窓のない部屋だ。


あの老人は、ひと月に一度しか外へ出ない。それでも四〇四のことだけはよく知っていた。

知っていて、詳しくは言わなかった。言えばこちらが調べはじめると、わかっていたのだと思う。

私は写真を灯りの下でもう一度見た。女の隠した右半分を見ようとした。見えなかった。男の肩に隠れて。ただ、見ていると女の伏せた左の目がゆっくりと動いた気がした。写真の平らな面の上で。こちらを見上げるように。私は写真を伏せた。裏の岩という字が目に入った。その一文字が濡れて、光っていた。インクが滲んでいた。たったいま、書かれたように。私は写真を戸棚に戻した。手を洗った。手の甲に黒い髪が一本貼りついていた。


その夜。私はしゃり、という音で目を覚ました。

細い。規則正しい。しゃり、と鳴って、ひと呼吸おきまたしゃり、と鳴る。髪を櫛で梳く音だった。洗面所の鏡の前あたりから、聞こえた。私は動けなかった。息を殺した。


音の合間に声がした。女の声。低い。ごく低い。ひとつの名前を呼んでいた。


たかし。たかし。


恨みはなかった。怒りもなかった。優しい、呼び方だった。慈しむような。だからこそ私は蒲団のなかで全身の毛が逆立つのを抑えられなかった。たかし、とは誰だ。この部屋にたかし、はいない。私はたかし、ではない。

排水口の金具は、外せるようになっていた。

外して、下を覗いた。


管の内側にびっしりと、黒い髪が詰まっていた。

割り箸を差し込んで引くと、いくらでも出てくる。腕の長さぶん引き出しても、まだ終わらなかった。


声は朝まで続いた。たかし。たかし。三度ずつ区切って。私は蒲団のいちばん奥で膝を抱えた。耳を塞いだ。塞いだ掌の内側でその声はかえって、はっきりと聞こえた。優しかった。どこまでも。恨みがあれば、まだよかった。憎まれて、いれば、憎み返せた。この声は私を慈しんでいた。まだ会ってもいない、身内を待つように。私はその優しさに涙が出た。なぜ涙が出るのかわからなかった。


私は耳栓を買った。薬局でいちばん効くというものを。夜両耳に深く詰めた。それでもしゃり、という音は聞こえた。耳の外からではなかった。頭の内側で鳴っていた。私の頭蓋のすぐ内側で誰かが髪を梳いていた。私は耳栓を抜いた。抜いた先が濡れていた。耳の奥から、水が出たように。私はそれを捨てた。その晩から、音を消そうとするのをやめた。抗うと音は内側へ入ってくる。聞いていれば、外にいてくれる。私は、しゃり、しゃり、を子守唄のように、聞いて、眠るように、なった。慣れることがいちばんこわいと知りながら。


眠りに落ちるその間際。私はいつも耳もとに息を感じた。濡れた冷たい息を。誰かが私のすぐ後ろに横たわって、私の髪をそっと梳いていた。しゃり。しゃり。優しく。私は目を開けなかった。開ければ、その人と目が合う。合えば、終わる。私は眠ったふりをした。ふりをしているうちに本当に眠った。眠りのなかでもしゃり、しゃり、と聞こえた。もう起きているのか眠っているのかその境も水に溶けて、わからなく、なっていた。


音は明け方まで続いた。しゃり。しゃり。たかし。たかし。私は朝が来るまで目を開けなかった。


枕もとにスマートスピーカーがあった。前の暮らしの名残りだった。その晩、たかし、と、あの声が呼んだその拍子にスピーカーがひとりでに青く光った。応答するときのあの光り方で。そして、答えた。「はい。聞いています」。優しい、機械の声で。私が答える前に。私の代わりに。私は電源を抜いた。抜いたのに、翌晩も青く光って、答えた。「はい」と。


翌朝、洗面所へ行った。排水口に髪があった。いつもの倍あった。そして、櫛が戸棚ではなく、洗面台の縁に置いてあった。歯を上に向けて。私が戸棚に戻したはずの櫛が。


私はその櫛を捨てることにした。近くの川に捨てた。橋の上から。黒い水に櫛は音もなく、沈んだ。私は手を払って、帰った。玄関を開けた。洗面台の縁に櫛が置いてあった。濡れていた。歯を上に向けて。川の匂いがした。私はそれを二度と動かさなかった。動かせば、また戻ってくる。戻ってくるたびにあの人がこの部屋の外まで来ているのだとわかって、しまう。


私は管理人を訪ねた。一階の奥の暗い部屋にいる老人だった。四〇四号室の前の住人のことを聞いた。老人はしばらく黙っていた。それから、湯呑みの茶をすすった。


「あの部屋は」と老人は言った。「長く、住む人は、いないよ」


それ以上は話さなかった。私が民谷という名を出すと老人の手が止まった。湯呑みを置いた。「もう、水は、使わんほうが、いい」。そう言った。意味がわからなかった。聞き返すと老人は奥へ引っ込んでしまった。


その晩、私は水を使わずに寝ようとした。喉が渇いた。我慢した。台所の蛇口から、ぽたり、ぽたり、と水の落ちる音がした。締めたはずだった。何度締めても、ぽたり、ぽたり、と落ちた。落ちるたびに、流しの底で、ぽたり、と鳴る。その水滴が、暗い流しのなかで一つも流れずに溜まっていくのが、明かりを消したあとの闇のなかでも、はっきりとわかった。


第三章 半拍


鏡がおかしいと気づいたのはその次の週だった。半拍。すべては、その半拍のずれから、始まった。


歯を磨いていた。何気なく、鏡の自分を見た。私が口をゆすぐ。鏡のなかの私も口をゆすぐ。ただ、ほんのわずかに遅れて。

半拍。ちょうど半拍遅れて、鏡の私は動いた。


気のせいだと思った。もう一度手を上げた。鏡の私も手を上げた。半拍遅れて。私は瞬きをした。鏡の私は一拍おいて、瞬きをした。そして、瞬きをし終わったそのあとも鏡の私の右の瞼だけがまだ半分下りたままだった。


私は鏡から、飛びのいた。壁に背中がぶつかった。もう一度恐る恐る覗いた。鏡の私はもう私と同じだった。両目とも開いていた。ちゃんと私を真似ていた。何ごともなかったように。


それから、私は鏡の前で実験をするように、なった。こわいのに、確かめずにはいられなかった。手を上げる。半拍遅れて、鏡が上げる。舌を出す。半拍遅れて、鏡が出す。目を閉じる。数える。一。二。三。目を開ける。鏡のなかの私はまだ目を閉じていた。しばらく閉じたままだった。それから、ゆっくりと開けた。開けた両目のうち右の目だけが白く濁っていた。私は鏡を布で覆った。その晩から、鏡は布の下で、ときどきため息のような音を立てた。


その日から、私は鏡を見なくなった。洗面所には明かりをつけずに入った。手探りで顔を洗い、手探りで歯を磨いた。鏡のある壁には背を向けた。背を向けても、うなじのあたりがひやりとした。見られている。鏡の奥から、じっと。


覆った布は朝にはいつも床に落ちていた。誰かが夜のあいだに外すように。私は画鋲で留めた。ガムテープで貼った。それでも朝には落ちていた。布の真ん中が湿っていた。人の顔の形に。鏡の内側から、誰かがその布に顔を押しつけていたように。私は鏡を覆うのをやめた。覆っても、無駄だった。鏡は見られたがっていた。私に。あるいは私を。


夜トイレに行けなくなった。洗面所と便所は同じ狭い一室にある。夜中に目が覚めて、どうしても、行かねばならない。私は明かりをつけない。うつむいて、鏡を見ないようにして、用を足す。手を洗う。蛇口の水がごぼ、と、鳴る。

その水の音にまぎれて、すぐ後ろでしゃり、と、鳴る。櫛の音。

半拍の遅れは、日ごとに広がった。


はじめは瞬きひとつぶん。次に、腕を下ろしきるまでの間。

しまいには、私が鏡の前を離れたあとも、鏡の中の私はまだそこに立っていた。

戻って覗くと、こちらを見て、ゆっくりと同じ位置に収まった。追いつくのを待っていたようだった。


振り返っては、いけない。私は自分に言い聞かせる。振り返っては、いけない。うつむいたまま、後ろでしゃり、しゃり、と髪を梳く音を聞きながら、私は手を洗いつづける。水を止められない。止めたら、その音だけが残る。


夜中に目が覚めるのがこわくなった。目が覚めれば、行かねばならない。行けば、あの狭い一室で鏡と二人きりになる。私は寝る前に水を飲まないように、した。それでも明け方決まって、目が覚めた。膀胱が、というより呼ばれて。私の名を呼ぶ声で。私はうつむいて、廊下を行く。うつむいたまま、用を足す。手を洗う。ごぼ、と、水が鳴る。すぐ後ろでしゃり、と、鳴る。息が首すじにかかる。濡れた冷たい息が。私は振り返らない。ただ、水を出しつづける。水を止めるのがこわい。


隣の部屋の老女に会った。ごみ捨て場で。私が四〇四だと言うとその人は私の顔をじっと見た。それから、こう言った。「あんた、髪、抜けてないかい」。私は答えられなかった。この頃枕に抜けた髪が増えていた。私の明るい髪ではない、黒く長い髪が。


「あの人もね」と老女は声を落とした。「毎晩、鏡の前で、抜ける髪を、数えてたよ。かわいそうに。あんな、いい人が。……あのね、あの人は、恨んでなんか、いないんだよ。ただ、寂しいだけ。ずっと、ひとりで、数えてるのが、寂しいだけ」。それ以上は言わなかった。私があの人とは、と聞くと老女は首を振って、行ってしまった。


その老女に私は二度と会わなかった。隣の部屋はいつ見ても、暗かった。表札は褪せて、読めなかった。管理人に隣の人のことを聞いた。管理人は妙な顔をした。あの部屋はもう十年空き部屋だ、と、言った。誰も住んでいない、と。私は、ごみ捨て場でのあの会話を思い出そうとした。老女の顔が思い出せなかった。ただ、その人の髪が長く黒く濡れていたことだけを思い出した。


その晩、私は髪を、とかした。あの黄楊の櫛で。なぜあの櫛を手に取ったのか自分でもわからない。しゃり、と、櫛を通す。歯に髪がからんだ。ひと束。私の明るい髪ではなかった。根もとから、黒い、長い髪だった。


私の髪は日ごとに抜けた。抜けた跡から、生えてくるのは黒く長い、知らない髪だった。私の明るい髪はもう数えるほどしかなかった。私は帽子をかぶって、暮らした。家のなかでも。鏡を見なければ、自分の頭がどうなっているかはわからない。わからなければ、まだ私は私でいられた。けれど、枕に床に服に黒い髪が増えていく。私の抜けた髪だ。私のもので、ない髪だ。その二つが同じであることがいちばんこわかった。


私は髪を切ることにした。伸びる黒い髪がこわかったから。鋏で根もとから、切った。切った髪は洗面台に捨てた。翌朝、その髪は排水口に吸い込まれて、消えていた。そして、私の頭にはまた同じ長さの黒い髪が生えていた。ひと晩で。切っても、切っても、生えた。伸びるのではなく、生えた。私は鋏を置いた。指で髪の長さを確かめた。腰まであった。指でたどったその髪は濡れていた。頭皮から、水が滲んでいるように。私は指を離した。自分の頭に触れるのがこわくなった。


それでも私はまだ自分を保っていた。名前を覚えていた。生まれた町を覚えていた。別れた恋人の顔を覚えていた。覚えているかぎり私は私だった。けれど、記憶は水に濡れた紙のように、少しずつふやけて、いった。恋人の顔が崇の顔になった。生まれた町がこの四〇四号室になった。名前がたかし、になりかけた。私は覚えていることを紙に書いた。その紙も翌朝、濡れて、読めなく、なった。私という輪郭が水に溶けて、鏡の向こうへ少しずつ流れて、いった。


ある晩、私は、とうとう鏡に話しかけた。あなたは誰と。鏡のなかの女は答えなかった。ただ、垂れた右目から、水のような涙を流した。私は自分の頬に手を当てた。濡れていた。私も泣いていた。いつのまにか。同じ場所から。同じ涙を。私と鏡のなかの女とどちらが先に泣いたのかわからなかった。どちらが本物の涙なのかも。その涙を拭こうとして、私は鏡に手を伸ばした。鏡のなかの女も手を伸ばした。指先が鏡の面で触れあった。冷たかった。硝子ごしのはずなのに、指先に生温かい、別の指の感触があった。女の指が鏡のこちら側へしみ出して、私の指に触れていた。私は手を引いた。引いた指先に黒い髪が一本からんでいた。鏡の向こうから、渡されたように。

私は櫛を落とした。両手で頭を押さえた。指のあいだから、髪がはらはらと抜けた。力を入れていないのに。洗面台の白い上に黒い髪が筋を描いた。私は鏡を見まいとした。見まいとして、見て、しまった。


鏡のなかの私の後ろに。誰か立っていた。濡れた髪を垂らして。うつむいて。右の瞼が垂れていた。私は動けなかった。その人はゆっくりと顔を上げた。垂れた右目で私を見た。そして、笑った。声はなかった。


半拍という言い方を思いついたとき、私は少しだけ安心した。

名前がつけば、正体がわかった気になる。


気になるだけだ。

名前をつけたところで、遅れは一日ぶんずつ広がっていった。

たかし、と、その口が動いた。


私は明かりをつけた。鏡には私だけがいた。後ろには誰もいなかった。ただ、足もとの床が点々と濡れていた。裸足の足跡のように。私の足は乾いていた。


第四章 櫛の歯


それから、私はあの人のことを調べはじめた。調べずにはいられなかった。呼ばれている。数えられている。そう感じていたからだ。

洗面台の縁にあの黄楊の櫛があった。その櫛の歯に日ごと黒い髪が増えていく。梳いた覚えもないのに。数えるように。


古い地域の記録。図書館の縮刷版の新聞。管理人の途切れ途切れの話。それらを繋ぎ合わせると民谷岩という女の輪郭がうすく浮かんできた。けれど、肝心のところはいつも霧の向こうだった。わかったのは断片だけ。断片のほうがこわかった。


新聞の縮刷版には小さな記事がひとつあった。二十数年前。この建物で女がひとり風呂で死んだ、と。事故と書いてあった。名は伏せてあった。ただ、そのすぐ下の欄に別の記事があった。同じ建物でその半年前生まれたばかりの赤ん坊が死んだ、と。夜のあいだに。原因はわからない、と。私は二つの記事を指でなぞった。指先が濡れた。縮刷版の紙が濡れていた。図書館の乾いた部屋で。その二つの記事の上だけが。

岩は右の瞼に火傷の痕があったという。幼いころ囲炉裏に倒れ込んだ。痕は化粧で隠れる程度のものだった。それでも、岩はその右目のことで生きているあいだずっとうつむいて、いたらしい。


管理人は岩のことを少しだけ話した。いい人だった、と。縫い物が上手で近所の年寄りに慕われて、いた、と。ただ、友達はいなかったねえ、と。ひとりが好きなわけでもなかったろうに、と。それから、声を落とした。旦那が悪かった、と。それ以上は言わなかった。私が旦那はどうなったのか、と、聞くと管理人は湯呑みを置いた。ここへ戻ってきて、死んだよ、と、言った。この四〇四で。あんたのいる部屋で。それきり管理人は奥へ引っ込んで二度と出てこなかった。


指先が器用だった。古い着物を仕立て直した。細かい刺繍を縫った。人柄は柔和で近所の年寄りに慕われた。この四〇四号室と地道な仕事とで岩はひとり静かに暮らしていた。


崇という男が来た。たかし、と読むのだと、管理人の話しぶりで知った。写真のあの美男だ。背が高く目もとが涼しく女が振り返る顔をしていた。定職はなかった。借金があるらしかった。それでも、崇が岩の右目の痕を指で撫でて、これもあんたの一部だと言ったとき。岩の固く閉じた心の錠はあっけなく、外れた。

崇のことは、写真よりほかに手がかりがなかった。私はその美男の顔を何度も見た。見ているうちにその顔がだんだん崇ではない誰かに見えてきた。私の別れた恋人に。私を置いて、いった人に。私は写真を伏せた。伏せても、そのまっすぐな笑顔が瞼の裏に残った。優しい男ほどこわい。撫でてくれる指ほどこわい。私はそれを、この部屋で教わりつつあった。


そこから先は記録にはない。老女の話にもない。ただ、ひとつだけ確かなことがあった。ある夏の朝、岩はこの部屋の風呂の水を張った浴槽のなかで見つかった。長い髪を水面いっぱいに広げて、俯せに浮いていた。手にあの黄楊の櫛を握って。

櫛の歯には、必ず九本の髪が絡んでいた。

数えたのは一度きりだ。二度目からは、数えるのが怖くなった。

九本というのが何の数なのかは、いまも知らない。

知らないまま、私はその櫛を毎晩、洗面台の縁に戻していた。


自ら沈んだのか。誰かが沈めたのか。記録は事故と書いていた。病んだ末の身投げ、と。それ以上はどこにも書いていなかった。崇という男がその後どうなったのかも書いていなかった。ただ、この部屋がそれから、幾度も住む人を替えたことだけが家賃の下がり方から、わかった。


部屋は幾度も住む人を替えた。私は歴代の住人の名を知りたくなった。管理人の古い台帳を見せてもらった。四〇四の欄には名がいくつも並んでいた。どの名も半年と続いていなかった。三月。二月。ひと月。名は下へ行くほど短くなった。いちばん下に私の名があった。まだ日づけの終わりが書いていなかった。その空いた欄を見ているとそこにうっすらと数字が浮かんで見えた。もう書き込まれるのを待っているように。


私はそこまで調べて、やめた。これ以上は知らないほうがいい。そう思った。けれど、部屋のほうは私を放さなかった。

髪が抜けた。日ごとに多く。私の明るい髪はもうほとんどなかった。枕にも、床にも洗面台にも黒い、長い髪が散った。私の頭から、抜けているのに、私の髪ではない。鏡を見れば、わかるのだろう。私は鏡を見なかった。見れば、私の右の瞼がどうなっているかわかって、しまう。


夜ごとしゃり、しゃり、と櫛の音がした。たかし、たかし、と声がした。優しく。慈しむように。私はその優しさがこわかった。恨みなら、まだ逃げようがあった。憎まれているなら、憎み返せた。けれど、この人は私を慈しんでいた。迎え入れようとしていた。身内を迎えるように。


私はこの頃自分の名を忘れかけていた。呼ばれるのはいつもたかし、だった。だから、私も自分がたかし、であるような気がしてきた。鏡のなかの女にたかし、と呼ばれるたびにはい、と、答えそうになった。答えては、いけない。答えたら、私はたかし、になってしまう。崇の代わりに。あの人が迎え入れたい、たかし、に。私は、自分の本当の名を紙に書いて、壁に貼った。忘れないように。翌朝、その紙は濡れて、字が滲んで読めなく、なっていた。


櫛は黄楊だった。

歯の一本が欠けている。

欠けた歯は、洗面台の隅に落ちていた。


拾って合わせてみると、断面が新しかった。ついさっき折れたもののように白かった。

私はようやくひとつのことに思い当たった。この話を調べれば調べるほど私はあの人に近づいていく。知れば知るほど繋がっていく。呼ばれているのは私が知ろうとしたからだ。あの写真の一文字の名をなぞったときから。私は調べるのをやめようとした。記録を閉じた。けれど、部屋に帰ると閉じたはずの記録が私の頭のなかで勝手に続きをめくった。岩の見た景色。岩の聞いた声。岩の最期の水の冷たさ。それが私の記憶のように、流れ込んできた。私は、もうどこまでが私でどこからが岩かわからなく、なりはじめていた。


ある夜、私は自分の手が縫い物をしているのに、気づいた。針と糸を持って。古い着物のほつれを。私は裁縫などしたことがなかった。それでも手は迷わず、動いた。器用に。岩の手のように。私は針を置いた。置いた手を見た。指先が荒れて、あかぎれていた。水仕事を続けた者の手だった。私の手はこんな手ではなかった。いつから、この手は私の手でなくなったのか。私は思い出せなかった。


ある晩、私は耐えかねて、洗面所に明かりをつけた。鏡を正面から、見た。もう逃げるのに、疲れていた。

鏡のなかの私の顔は私の顔だった。まだ。ただ、右の瞼が半分ほど垂れて、いた。私はその瞼を指で押し上げた。鏡のなかの手も押し上げた。半拍遅れて。指を離す。鏡のなかの瞼はまたゆっくりと垂れた。私のこちらの瞼は開いていた。開いているのに、鏡のなかだけ垂れていた。


私は鏡に顔を近づけた。鏡のなかの私の後ろの暗がりにずぶ濡れの人が立っていた。垂れた右目で私の肩ごしに鏡のなかの私の顔を覗き込んでいた。そして、あの黄楊の櫛を私の薄くなった髪にそっとあてがった。


しゃり、と、鳴った。鏡のなかで私の髪がひと束抜けた。根もとに血の玉がついていた。私は悲鳴をあげようとした。声が出なかった。喉が貼りついていた。鏡のなかの女は私の耳もとに口を寄せた。そして、私の名を呼んだ。たかし、ではなく。

私の名を。三度区切って。優しく。


私は明かりを消して、蒲団に逃げ込んだ。その晩から、私は自分の名をこわがるように、なった。


第五章 顔


私の顔は少しずつ変わっていった。


朝指で確かめる。右の瞼が重い。触れると腫れている。頬の皮がざらついて、めくれた。私はもう鏡を見なかった。見なくても、指の腹でわかった。

マスクで隠して、外へ出た。けれど、右の頬の腫れはマスクの上へはみ出した。すれ違う人がみな二度見た。私は外へ出るのをやめた。仕事の面接も断った。カーテンを閉めきった。昼も、夜も部屋にはうすい夕方の色が溜まっていた。

外へ出ないと聞こえるものが増えた。壁の向こうの水の音。天井裏のぽたり、という滴り。夜のしゃり、しゃり。たかし、たかし。私はその声に慣れてきた。慣れることがこわかった。


私は外の音を聞かなく、なった。車の音も人の声も遠くなった。かわりに部屋のなかの水の音が大きくなった。壁の内側を水が流れている。天井裏を水が伝っている。この建物ぜんたいが水道管の束のように、思えてきた。そのどの管のどこかにあの人がいる。抜けた髪を水に流しながら。その髪がめぐりめぐって、私の部屋の排水口に上がってくる。私はそう思うように、なった。思うと少し、楽になった。狂うことは楽になることだと私は知った。


ある晩、鏡の前を通りかかった。明かりは消していた。それでも、鏡の面だけがぼう、と、青白く光っていた。水を湛えたように。私は覗いては、いけないと思った。思うのに、足が止まった。首が勝手に鏡のほうを向いた。

鏡のなかの光景はいつも少しずつ違った。ある晩は女が髪を梳いていた。ある晩は女が顔に何かを塗っていた。ある晩は女がただ、泣いていた。声もなく。垂れた右目から、水のような涙を流して。私はそれを他人の古い映画のように、見た。見ているうちに気づいた。鏡のなかの洗面台の前に座っているのは女ではなく。私だった。いつのまにか。私が髪を梳いていた。私が顔に塗っていた。私が泣いていた。


鏡のなかに女がいた。私ではない。あの写真のうつむいた人。岩だった。垂れた右目のほうをこちらに向けていた。女は鏡のなかの洗面台の前に座っていた。私の部屋の洗面台。同じ場所。ただ、時間だけが違った。


女は小さな瓶を手にしていた。中身を指に取る。右の瞼を中心に顔じゅうに塗り込む。丁寧に。毎晩の日課のように。塗るそばから、皮膚がじん、と、熱を持つのが見ているこちらにもわかった。女はうれしそうだった。良くなると信じているようだった。


女の後ろに男がいた。崇だった。壁にもたれて、女の塗るのを見ていた。その顔には何の表情もなかった。ただ、目だけが女の崩れていく右の頬を数えるように、動いていた。あと幾晩。あとどれだけ。そう数えているようだった。

顔が変わっていく速さには、波があった。


水をよく使った日は、進みが速い。


手を洗い、風呂に入り、皿を洗った日は、翌朝の鏡がひどかった。

だから私は、水を使わない日を作るようになった。作ったところで、部屋のほうが濡れていった。


崇の目を私は忘れられなかった。愛でも憎しみでもない。ただ、数えていた。あと幾晩でこの女の顔は使いものに、ならなくなるか。あと幾晩で追い出せるか。私は、その目を思い出すたび指先が冷たくなった。そして、はっとした。私もいま、同じ目で鏡の女を見ていた。あと幾晩で私の顔はあの女と同じになるか。あと幾晩で私は鏡の向こう側へ行くのか。数えていた。私も。


その日から、私は鏡を覗くたびに自分の顔がまだ自分の顔か確かめる癖がついた。

鏡の異変は日ごとにひどくなった。朝、顔を洗おうと覗くと鏡のなかの私だけがまだうつむいて、眠っている。私が目を覚ましていても。昼、明るい光の下でさえ鏡の面の奥だけが水を張ったように、暗く澱んで見える。私の顔のそのすぐ後ろが。そして、夜。鏡のなかの私は、こちらが寝支度を終えても、いつまでも身じろぎひとつしない。ただ、垂れた右目でこちらを見ている。一日が朝から夜へ進むほどに鏡のなかの私とこちらの私のずれは少しずつ大きくなっていった。


私は鏡から、目を離せなかった。女が瓶を置いた。鏡のなかの女がこちらを振り向いた。垂れた右目で私を見た。塗ったのはあなたも同じでしょう、と、言うように。私は自分の右の頬に手を当てた。ざらついためくれた皮の感触がした。

私は、崇が何をしたのかをはっきりと聞いたわけではない。記録は教えてくれなかった。老女も途中で口をつぐんだ。ただ、私は鏡のなかで見たものから、悟った。あの瓶の中身が何であったか。あの優しく撫でてくれた指が何をしていたか。岩が鏡ばかりを見て、隣の男の本当の顔を見なかったことを。


それを悟ったからといって、何が変わるわけでもなかった。岩はもう死んでいる。崇もたぶん、とうに。残ったのは、この部屋と鏡と水と髪と繰り返される名前だけ。そして、いま、その名前がたかし、から、私の名に変わりつつあった。

名前が変わるのは少しずつだった。たかし、たかし、と繰り返されるその声の語尾がある晩から、ほどけはじめた。たかし。たかし。た。し。まるで、私の名の音を探しているように。そして、ある晩、その探り当てられた音がはっきりと私の名になった。三度区切って。優しく。私は返事をしそうになった。呼ばれると答えたくなる。それが人間だ。私は口を両手で塞いだ。塞いだ指の隙間から、はい、という声が洩れそうになった。


夜水音が止まなくなった。台所の蛇口。風呂の排水。トイレのタンク。すべての水の出るところから、ごぼ、ごぼ、と音がした。何かが下の暗いところから、上がって、こようとしていた。私は耳を塞いだ。塞いだ掌の内側でしゃり、しゃり、と櫛が鳴った。私の頭のなかで。


私はあのマスクもぜんぶ捨てた。もう隠しても、無駄だったから。かわりにあの小瓶を探した。岩が鏡のなかで顔に塗っていたあの瓶を。戸棚の奥にあった。古い、外国の字のラベル。中身は半分減っていた。私は蓋を開けた。あの甘く饐えた匂いがした。この部屋に満ちているあの匂いのもとだった。私はそれを捨てようとした。手が勝手に蓋を閉めた。そして、瓶を握った手がゆっくりと私の右の頬へ上がっていった。塗ろうとしていた。私の意思とは関わりなく。私は反対の手でその手を掴んで止めた。止められた手が震えた。塗りたくて。私は瓶を床に叩きつけた。割れた瓶から、黒い髪が幾筋もこぼれた。液ではなく。髪が。


その夜私は初めて、声をあげて、泣いた。こわくて、ではなかった。悲しくて、でもなかった。ただ、あの人の悲しみが私のなかに流れ込んできて、あふれた。裏切られた悲しみ。優しくされたかった悲しみ。ひとり鏡の前で抜ける髪を数えた長い夜の悲しみ。それがいま、私の悲しみと区別がつかなかった。私は鏡に向かって、言った。わかるよ、と。言ってしまってから、はっとした。それが返事になることを私は忘れていた。鏡のなかの女がうれしそうに笑った。垂れた右目で。


笑われて、私はぞっとした。うれしそうなその顔がいちばんこわかった。私は鏡から、後ずさった。後ずさった背中が壁についた。冷たかった。壁も濡れていた。振り返ると壁のしみが人の形になっていた。濡れた女の形に。私を抱くように、両手を広げて。私は、その濡れた抱擁のなかへ倒れ込みそうになって、床に膝をついた。

その晩、私は決めた。逃げよう、と。この部屋を出よう。荷物はいらない。あの六つの箱もいらない。命だけ持って、出よう。私は玄関の鍵に手をかけた。鍵は回らなかった。何度回しても、回らなかった。冷たい水が鍵穴から、私の指へじわりと滲んできた。


顔が崩れていく速さを、私は指で測るようになった。

右の瞼の縁から、頬骨まで。

はじめは指二本ぶんの距離だったものが、ひと月で三本になった。

測るたびに、あの人の顔へ近づいているのがわかった。

振り返ると廊下の突き当たりの洗面所の鏡が青白く光っていた。そのなかでずぶ濡れの女が垂れた右目で私に微笑んでいた。おかえりなさい、と、その口が動いた。私は鍵から、手を離した。


第六章 水位


朝目が覚めると畳が濡れていた。

私の寝ていた蒲団の周りだけ。人の形に。誰かが私の隣に横たわっていたように。私はその濡れた形をしばらく見ていた。触れると冷たかった。あの甘く饐えた匂いがした。もうそれが部屋の匂いなのか私自身の体の匂いなのかわからなくなっていた。

その日から、部屋の水位が上がりはじめた。比喩ではない。実際に水が増えた。

はじめは洗面台だった。栓をしていないのに、朝水が縁まで溜まっていた。捨てても、夕方にはまた溜まっていた。次は風呂だった。誰も張っていないのに、浴槽に水が満ちていた。ごぼ、ごぼ、と音を立てて、夜のあいだにひとりでに満ちた。


私は水道の元栓を閉めた。工具で。固く。それでも、朝には洗面台に風呂に水が満ちていた。元栓は閉まったままだった。水は蛇口から、来るのではなかった。どこか別の暗いところから、来ていた。地の底の暗い水脈から。あの人の死んだ水から。私は水を抜くのをやめた。抜いても、無駄だった。部屋のあちこちで水が静かに水位を上げていくのを私はただ、見ていた。


私は、その水を張った浴槽を覗くのがこわかった。覗けば、そこに長い髪を広げて、俯せに浮いた女がいる気がした。けれど、水を抜かねば、あふれる。私は目をつぶって、手探りで栓を抜いた。ごぼ、と、水が渦を巻いて、引いていく。その渦の音にまぎれて、たかし、と、声がした。水の底から。


台所の床に水がたまるようになった。廊下にも。歩くと足の裏が濡れた。裸足で歩いた覚えのない場所に私の足跡が点々とついていた。いや私の足跡ではなかった。私の足より小さい。女の足だった。それがいつも洗面所から、私の蒲団まで続いていた。

足跡は夜ごと私の蒲団に近づいた。はじめは洗面所の戸口まで。次の晩は廊下の半ば。その次は蒲団のすぐ枕もとまで。濡れた小さな女の足跡が。私は蒲団の位置を変えた。部屋の反対の隅へ。翌朝、足跡はちゃんと新しい、蒲団の枕もとまで続いていた。どこに逃げても、あの人は私の眠る場所を知っていた。当たり前だった。私はあの人の部屋にいるのだから。


夜、私は蒲団のなかで水の上がってくる音を聞いた。ごぼ。ごぼ。畳の下から。壁の中から。天井から。この部屋が少しずつ水に沈んでいく。あの女の死んだ浴槽の水に。私も、いつか、その水位に達したとき俯せに浮かぶのだろう。長い髪を広げて。

私は眠るのがこわくなった。眠れば、あの濡れた足跡が枕もとまで来る。来て、私の隣に横たわる。朝、目覚めると蒲団の隣が濡れて、へこんでいる。人の形に。私は眠らないように、した。三日眠らなかった。四日目の明け方うとうととした。夢のなかで私は水のなかにいた。あたたかかった。誰かが後ろから、私を抱いていた。優しく。耳もとで私の名を呼んでいた。私は、その腕に身を預けそうになって、目を覚ました。口のなかに水の味がした。髪の毛が一本喉の奥に貼りついていた。


水位。気がつくと、私はそう呼ぶようになっていた。

水は目に見えて増えるのではない。畳が湿り、壁が湿り、空気が重くなる。

その重さが日ごとに上がってくる。膝、腰、胸と、体で覚える高さで。


いま、どのあたりまで来ているかは、朝起きたときの息苦しさでわかった。

逃げようとして、逃げられないことはもうわかっていた。鍵は回らない。窓は隣のビルの壁。携帯は圏外の二文字だけ。この部屋は外の世界から、切り離されていた。水の底のように。


私は管理人に電話をした。繋がらなかった。隣の老女の部屋を叩いた。返事はなかった。ずっと留守のようだった。いや、と、私は思った。あの老女は、はじめから、いたのだろうか。あのごみ捨て場の会話は本当にあったのだろうか。


私は、この建物に私のほかに生きた人がいるのかを確かめたくなった。廊下のドアを順に叩いた。四〇一。四〇二。四〇三。どこも返事がなかった。四〇三のドアノブを回した。開いた。なかは空だった。がらんとして。ただ、洗面所の排水口に黒い髪がからんでいた。私の部屋と同じように。私はドアを閉めた。ほかの部屋もたぶん同じだ。この建物ぜんたいがあの人の部屋なのだ。私はそう悟った。


私は、この建物に私のほかに生きた人がいるのかを確かめられなく、なった。廊下のほかの部屋はどれも暗く静かだった。表札はどれも褪せて、読めなかった。ただ、四〇四号室の私の名だけがまだ新しく白かった。それがいつか、褪せて、次の白い名に替わるのを部屋は待っているようだった。


ある夜私は、とうとう浴槽を覗いてしまった。水が満ちていた。月も、電灯もないのに、水面がぼう、と、青白く光っていた。その光る水面に私の顔が映った。右の瞼が垂れていた。頬の皮がめくれていた。私の顔はもう岩の顔になりかけていた。

私は自分の顔を指で確かめるのをやめた。確かめるたびに右の瞼が重くなり頬の皮がめくれていくのがわかったから。わからなければ、まだ耐えられた。けれど、鏡は見せてきた。私が見まいとしても。夜、部屋のどの硝子にも水の面にも私の顔が映った。垂れた右目の崩れた顔が。それは、もう私の顔かあの人の顔か区別がつかなかった。二つの顔が水のなかでひとつに溶けあおうとしていた。


ある朝、玄関の三和土に水が溜まっていた。

外は晴れている。雨は三日降っていない。

水は靴の中まで入っていた。

その靴を履いて、私は仕事に出た。ほかにどうしようもなかった。


水位は、もう部屋の床上数センチに達していた。歩くとくるぶしが濡れた。冷たかった。私は、押し入れの上の段に上がって、膝を抱えた。そこだけがまだ乾いていた。下を見た。部屋の水面が青白く光っていた。その水面に私の顔が映った。垂れた右目の崩れた顔が。そして、水のなかから、白い手が幾本も伸びて、押し入れの縁を掴んだ。ひとつふたつみっつ。数えられなかった。みな女の手だった。歴代の住人の。この部屋で俯せに浮いた者たちの。手は私を掴もうとはしなかった。ただ、縁を掴んでじっと私を見上げていた。次はあんただよ、と、言うように。順番を待つように。


私は押し入れの上で夜を明かした。水は朝までに少し、引いた。けれど、匂いは残った。畳は濡れたままだった。私は、もうこの部屋から、出ることを考えなくなった。出られないことを受け入れていた。かわりに私は数えるように、なった。あと何日であの命日が来るか。あと何本髪が抜けたら、私の頭は空になるか。数えていると心が静まった。あの人が水の底でそうしていたように。私も数えることに慣れて、いった。


水面の私の顔が笑った。私は笑って、いなかった。水のなかの私だけが笑った。垂れた右目で。そして、水の底から、白い手が伸びて、私の手首を掴んだ。冷たかった。優しく。ゆっくりと。水の底へ引こうとした。私は渾身の力で振りほどいた。浴室から、這い出た。廊下の水を掻いて、蒲団まで逃げた。


枕もとでスマートスピーカーがひとりでに青く光った。「はい」と機械の声が答えた。私は何も言って、いない。呼ばれた名にかわりに答える者がこの部屋にはもういる。

手首に青黒い、指の痕が残っていた。五本。女の指の痕だった。その晩から、私は水のあるところに近づけなく、なった。喉が渇いても、水が飲めなかった。顔も洗えなかった。夜トイレにも行けなかった。行けば、あの光る水に掴まれる。私は、水のない場所を探して、部屋の隅で膝を抱えた。けれど、耳の奥ではずっとごぼ、ごぼ、と水の上がってくる音がしていた。


第七章 順番


祟りには順番があるらしかった。


私は崇のその後を知りたくなった。あの優しい仮面の男がどうなったのか。図書館の古い縮刷版をまた繰った。今度は、民谷の名ではなく、その周りで起きたことを探した。断片はいくつかあった。どれも水にまつわる死だった。

岩が死んだその年。近くの家で赤ん坊がひとり死んだ。明け方夜泣きがやんだ。母親が覗くと冷たくなっていた。そのまだ髪の薄い頭がなぜかぐっしょりと濡れていた、と、小さな記事は書いていた。それ以上は書いていなかった。


その翌年。同じ月。同じ晩。若い女がひとり風呂で死んだ。長い髪を水面に広げて、俯せに浮いていた、という。岩と同じ死に方だった。その女の名は花といった。記事は産後の病だろうと書いていた。それ以上は書いていなかった。

それから、老いた資産家が自宅の風呂でのぼせて、死んだ。伊藤という名だった。発見が遅れた。見つかったとき、その濁った両目はかっと見開かれ水を透かして、天井を見上げていた。まるで、水のなかから、誰かに覗き込まれ、見返していたような顔だった、と、記事は書いていた。それ以上は書いていなかった。


みな水で死んでいた。岩を囲んでいた者たちがひとりずつ。私はその名前を並べてみた。崇。花。伊藤。赤ん坊。ほかにもいた。岩をあの部屋から、追い出すのに、手を貸した者たち。みな水にまつわる奇妙な死に方で消えていた。順番に。抜けた髪を一本ずつ数えるように。


私はその死んだ人たちの命日を並べてみた。みな岩の死んだ晩と同じ日づけだった。年だけが違った。一年ごとにひとりずつ。同じ晩に。まるで、あの人が一年に一度水の底から、上がってきて、順番に迎えにいくように。私は暦を見た。今年のその日づけまであと七日だった。私の名がいま、呼ばれている。私の順番が来ている。私は暦を破った。破っても、日は進んだ。


崇だけがいちばん最後だった。記録によれば、崇は周りの者が次々と死んでいくのをたったひとり生き残って、見ていた。逃げて、逃げて、逃げ疲れて、最後に、この四〇四号室へ戻ってきた。ほかに行くあてがなくなって。私と同じように。


崇がこの部屋でどんなふうに最後の日々を過ごしたかを私はなぜか知っていた。調べたわけではない。ただ、わかった。崇も鍵を回そうとして、回らなかった。崇も水に追われた。崇も、夜鏡を見ないように、うつむいて、暮らした。崇も自分の名を呼ばれた。たかし、と。優しく。そして、崇も最後には返事をしてしまった。はい、と。返事をした瞬間あの人が迎えに来た。私はそれを知っていた。私がいま、崇の道をなぞっているから。


崇がどう死んだかは記録にはなかった。ただ、この部屋で見つかった、とだけあった。洗面所で。右の瞼だけをかっと見開いて。抜け落ちた髪に埋もれて。手に黄楊の櫛を握って。それ以上は書いていなかった。

順番を待つあいだ、あの人が何をしているのかを、私は知っている。

数えているのだ。抜けた髪を、一本ずつ。


その数が、いつか、ある数に届いたとき、次の器が要る。

私はその、ある数を知らない。知らないほうがいいと、いまでは思う。

私は縮刷版を閉じた。順番の意味がわかった。いちばん深く裏切った者をいちばん最後に。いちばん長く待たせて。周りがひとりずつ水に引かれていくのを見せつけて。次は自分かその次か、と、来る夜も来る夜も怯えさせて。それがいちばん重い、責め苦だった。


けれど、と、私は思った。崇は悪い男だった。裁かれて、当然だった。では赤ん坊は。あの夜のあいだに死んだ赤ん坊は。何をしたというのか。何もしていなかった。ただ、あの人を裏切った男の血を引いていた。それだけで水に引かれた。祟りには罪も無実もなかった。あるのはただ、繋がりだけ。血の繋がり。この部屋との繋がり。あの人の話を聞いて、しまった者との繋がり。私のように。


そういえば、あの老女の指のあいだにも黒い髪が一本絡んでいた。あのごみ捨て場の老女もいま思えば、濡れた足跡を残していた。私が四〇四だと言ったときあの人の目が光った。髪抜けてないかい、と。あれは忠告ではなかった。数えて、いたのだ。私の順番が近いことを。あの老女もあの人だった。何十年も、この建物で次の器が来るのを待っていたあの人のなれの果て。


そして、崇はもういない。順番は、とうに崇で終わっていた。何十年も前に。ならば、いま、この部屋でしゃり、しゃり、と鳴っているのは。たかし、と、呼んでいたのが私の名に変わったのは。それは順番が崇で終わらなかったから。祟りが裏切った者を殺し尽くしても、終わらなかったから。


祟りはもう復讐ではなかった。憎い相手は、とうにいない。残ったのは水の底の寂しさだけ。長いあいだたったひとり抜けた髪を数えてきたその果てしない寂しさが隣にいてくれる誰かを求めていた。次の器を。話を聞いてくれる次の誰かを。


私はこの話を誰かに話したくなった。話せば、楽になる気がした。友人に電話をした。繋がらなかった。番号は合っていた。呼び出し音のかわりにごぼ、ごぼ、という水の音がした。その音の底でしゃり、しゃり、と櫛が鳴った。私は電話を切った。もう外へは繋がらないのだとわかった。この話を聞いてくれる相手はこの部屋の外にはいない。いるとすれば、この話を読むあなただけだ。


その晩、私は崇の最後の夜を夢に見た。崇はこの部屋の洗面所に立っていた。鏡の前に。逃げるのに、疲れて。鏡のなかから、岩が櫛を崇の髪にあてた。しゃり、と、鳴った。その音は以前よりも湿って、重く聞こえた。崇の髪が抜けた。血の玉をつけて。梳くたびに歯が一本、また一本と欠けていく。折れた歯は洗面台の隅へ転がって、そこに溜まっていった。私が拾ったあの一本も、そのうちの一つだったのだと、夢のなかで私は知った。崇は悲鳴をあげなかった。ただ、鏡に向かって、小さくはい、と、答えた。長いあいだ呼ばれつづけて、とうとう答えて、しまった。答えた瞬間崇の右の瞼が垂れた。岩と同じに。二人は鏡のなかでひとつになった。私は夢のなかでそれを見ながら、思った。ああ私も、もうすぐはい、と、答えて、しまう、と。目が覚めると私の口が半分開いていた。はい、と、言いかけた形に。


私はその日から、口を開けないように、した。喋れば、はい、と、言ってしまう。だから、私は黙った。何日も。誰とも話さないうちに私は自分の声を忘れた。かわりに私の口は勝手に動くように、なった。夜鏡の前で。たかし、と。私の口があの優しい声でたかし、と、呼んでいた。私が呼ばれる側ではなく、呼ぶ側になりかけていた。次の寄る辺のない、誰かを。次の器を。私は慌てて、口を押さえた。もうどちらがあの人でどちらが私かわからなかった。


その晩、私は暦を見た。命日まであと三日になっていた。私は指を折って、数えた。三。二。一。数え終えると指が三本濡れていた。数えるたびに水が滲んだ。私の指の先から。あるいは暦のほうから。あと三日であの人が水の底から、上がってくる。私を迎えに。私は暦を伏せた。伏せても、頭のなかで日は進んだ。しゃり、しゃり、と櫛の音がその残りの日数を数えていた。


だから、部屋は待っていた。告知事項ありのただし書きをつけて。家賃を半値に下げて。寄る辺のない、次のひとりを。私のような。私があの一文字の名から、目を離せなかったのは呼ばれていたから。数えられていたから。次の髪の一本として。ずっとあの水の底から。


私は、自分が順番のいちばん最後ではないことも悟った。私のあとにも順番は続く。私が俯せに浮いたあと。この部屋はまた白い名を待つ。家賃を下げて。告知事項をつけて。祟りには終わりがない。聞かせる相手がいるかぎり。次の器が来るかぎり。私は、その長い、長い列のいま、いちばん前に立っていた。


第八章 あなた


私は、いま、この話を四〇四号室の洗面台の鏡の前で書いている。


もう逃げても、無駄だとわかったから。鍵は回らない。水は上がってくる。鏡は私を映さなくなった。映るのはあの人だけ。垂れた右目で私の後ろに立って、微笑んでいる。だから、私は最後に、これを書き残しておく。あなたのために。

いいえ。正直に言う。あなたを道連れにするために。


読むのをやめても、無駄だ。もう遅い。ここまで読んでしまったあなたの心の底にこの話は種のように、残る。夜ふとした拍子に芽を出す。あなたが、洗面所に立つそのいちばん静かな時間に。私があの一文字の名から、目を離せなくなったのと同じように。あなたは、もうこの部屋の内側に片足を入れて、しまった。あなたのその部屋の洗面所も、もうこの四〇四号室と水脈で繋がって、しまった。


最初は髪だった。排水口の覚えのない、黒い髪。あなたも見たことがあるでしょう。自分のものでは、ない、長い髪が排水口にからんでいるのを。あのときあなたは気のせいだと思った。前の人のだと思った。そうやって、打ち消した。私もそうだった。

あなたは覚えているだろうか。いつだったか夜鏡を覗いて、自分の顔がほんの一瞬遅れて、動いた気がしたことを。疲れのせいだと思った。瞬きの加減だと思った。そうやって、打ち消した。けれど、あれは気のせいではなかった。あの一瞬鏡の向こう側の何かがあなたの顔を覚えたのだ。真似るために。いつか、寸分たがわず、真似て、入れ替わるために。鏡のどちら側が本当のあなたか。今夜確かめて、みるといい。確かめない、ほうがいい。


次は匂い。薬のような甘く饐えた匂い。それから、音。夜更けの水回りから聞こえるしゃり、という細い音。あなたも聞いたことがあるでしょう。夜中にふと目が覚めて。締めたはずの蛇口から、ぽたり、と、水の落ちる音。そのなかにまぎれて、何か規則正しい音がしていたのを。


あなたのその部屋の排水口を思い出してほしい。この頃髪がたまって、いないだろうか。あなたのものより少し、長い髪が。少し、黒い髪が。掃除をしても、翌朝、また、たまっている。あなたは前の住人のだと思う。掃除の行き届かなかったのだと思う。そうやって、打ち消す。打ち消しながら、指でつまんで捨てるそのつまんだ髪が濡れて、いなかったか。何日も前に抜けたはずの髪がたったいま、抜けたように。

夜お手洗いに一人で、行けなくなる。あなたもいつか、そうなる。洗面所の前を通るのがこわい。鏡を見るのがこわい。それでも、夜中に目が覚めて、どうしても、行かねばならない。明かりをつけずにうつむいて、用を足す。手を洗うとき蛇口の水がごぼ、と、鳴る。その音にまぎれて、すぐ後ろでしゃり、と、鳴る。


振り返っては、いけない。あなたはそう自分に言い聞かせる。けれど、いつか、その声があなたの名を呼ぶ。これまでずっとたかし、と呼んでいた声が。ある夜、はっきりとあなたの名を三度区切って、呼ぶ。優しく。慈しむように。長いあいだ待った身内を迎えるように。呼ばれたら、もうあなたも次の一本だ。


この話には、教訓もなければ、助かる方法も書いていない。

書けることは、順番があるということだけだ。

順番は、いつも、いちばん新しく来た者から回ってくる。

あなたの部屋は、いつからあなたの部屋だろうか。


名前を呼ばれても、けっして、返事をしてはいけない。これだけは伝えておく。夜、洗面所の鏡の奥から、あなたの名を呼ぶ声がしても。それがどんなに優しくても。どんなになつかしくても。返事をしては、いけない。返事をした瞬間あの人はあなたを身内と認める。認めた者をあの人は迎えに来る。崇も返事をした。私もたぶんもうすぐしてしまう。だから、あなたには伝えておく。返事をするな。振り返るな。鏡を見るな。


それから、あなたの部屋の機械にも気をつけて。夜、あなたが、黙って、耐えていても、かわりに答えるものがいる。スマートスピーカーが。留守番電話が。電話の音声の助手が。呼ばれた名に「はい」と。あなたの代わりに。あの人にはそれでじゅうぶんなのだ。誰かがその名にはい、と、答えさえすれば。


けれど、たぶんあなたはいつか、鏡を見る。人は見るなと言われたものほど見たくなる。今夜あなたは歯を磨きに洗面所へ立つ。うっかり鏡を見る。そして、思い出す。この話を。ああ、あの話に書いてあったのはこれか、と。鏡のなかのあなたが、半拍遅れて、動く。右の瞼が垂れていく。あなたは振り返るまいとする。けれど、すぐ後ろでしゃり、と、鳴る。冷たい息がうなじにかかる。優しい声があなたの名を呼ぶ。三度。区切って。そのときどうか思い出してほしい。返事をするな、と。でもたぶんあなたも答えて、しまう。私がいま、まさにそうであるように。


ここまで読んでくれて、ありがとう。あなたはもうこの話を最後まで聞いた。聞いた者は渡さないと上がれない。だから、あなたもいつか、誰かにこの話をする。しないつもりでもする。ふとした夜こわい話でもしようか、と。そのときあなたの口は勝手にこの話を始める。私の口がいま、そうであるように。そうやって、あの人の寂しさは水のように、人から人へ伝っていく。終わりはない。聞く人がいるかぎり。あなたが、いま、そうしてくれたように。


思い出して。あなたが、最後に、夜一人で、洗面所に立ったとき。手を洗って、顔を上げたあの鏡。その面にあなたの背後の暗がりが映っていた。その暗がりのいちばん深いところで白いものがふっと動いた気がしなかったか。排水口にあなたのものではない、長い黒髪がからんでいなかったか。あれは気のせいではない。


けれど、たぶんあなたもいつか、返事をしてしまう。呼ばれつづければ、人は答えたくなる。それが優しい声であれば、なおさら。抗えない。私がいま、抗えないように。だから、これは警告ではないのかもしれない。ただの順番のお知らせだ。あなたの名も、もう水の底で数えられはじめている。私の次の一本として。あなたの次にもまた次の一本がいる。この話をあなたが、誰かに渡すから。私があなたに渡したように。


今夜、あなたが、眠る前に歯を磨きに洗面所へ立つとき。どうか鏡をまっすぐ見ないで。もし、鏡のなかのあなたが、あなたより半拍遅れて、動いたら。もし、あなたの右の瞼があなたの意思とは関わりなく、垂れていくのを見たら。もう手遅れだ。振り返っても、いけない。あなたのすぐ後ろにずぶ濡れの髪を垂らした女が垂れた右目であなたの名を数えながら、優しく微笑んで立っている。


私にできることはもうこれをあなたに読ませることだけ。呼ばれた者は、次の誰かにこの話を渡さないと水の底から、上がれない。私はそれをあなたに渡した。ごめんなさい。でもあなたもいつか、わかる。夜、鏡の前でたった一人抜けていく髪を数えるとき。すぐ後ろに立つその人の優しさがどれほど恐ろしいものかを。


しゃり、と、いま、私のすぐ後ろで櫛が鳴った。水位はもう膝を越えた。冷たい。鏡のなかで私の右の瞼が垂れる。ああ私の顔があの人の顔になっていく。優しい手が私の手首を握った。

最後に、三つだけ。今夜あなたが、洗面所に立ったら。鏡を覗かないで。水を流しっぱなしにしないで。排水口の髪を数えないで。その三つのどれかをしてしまったら。そのとき、鏡のなかの女が初めて、微笑むのをやめる。しゃり、と、あなたのすぐ後ろでも櫛が鳴りだす。


いま、鏡の奥であの人があなたの名を櫛で梳きながら、呼んでいる。


水位は、あなたの部屋でも、



もう上がりはじめている。




了

ここまでお読みいただき、ありがとうございます。

次話もお楽しみにしていただけると嬉しいです。

感想やご指摘をいただけると、今後の励みになります。


(更新:毎日22時投稿予定)

隠岐群青

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