流し ――高野聖・現代異聞 第二夜
お盆の期間、休みの日にたっぷり読んでもらおうと1作25000字以上の中編小説を4編、用意しました。
夏なので怪談話を。
第ニ作目は、高野聖をモチーフに新たに現代のテイストを盛り込んでみました。
ゾッとする感じ。
それを表現できていたら執筆した甲斐があります。
※怪談話しが苦手な方は読まれないでくださいね。
第一章 圏外
その晩、東京へ帰るはずだった高速道路が雪のために封鎖になった。私はサービスエリアの電光掲示の前で足止めを食らい、いつ復旧するとも知れない曖昧な案内をしばらく眺めてから、カーナビの示すまま、名も知らない山あいの町へと、一般道をゆっくり下りていくことにした。積もりはじめた雪はやがて本降りになって、フロントガラスの向こうは、白い粒が斜めに流れていくばかりの、奥行きというものを失った世界に変わっていた。
ワイパーが払っても払っても、視界はすぐにまた白く塗りつぶされヘッドライトの光は降りしきる雪のなかで、行き場を失ったように途中で溶けて消えた。道の両側には、雪をかぶった杉の木立が、黒い衝立のように延々とつづいて、対向車の一台とも、私はもう長いこと出会っていなかった。世界に自分ひとりが取り残されたようなあの心細さを、いまでもはっきりと覚えている。
街灯もまばらな小さな町だった。灯りのついている建物は通り沿いにたった一軒きりでそれは木造二階建ての、ずいぶん古い構えの宿だった。雪をかぶった軒下に「民宿 たにかわ」と辛うじて読める板が下がっている。玄関の磨りガラスの向こうを人の影がひとつ水の底をゆくように、ゆっくりと横切っていくのが見えた。私が凍りついた引き戸を鳴らすとその影は、こちらへ音もなく近づいてきた。
出てきたのは小柄なおかみだった。歳のほどはどうにも見当がつかない。ただ、こんな雪深い山あいの宿には不釣り合いなほど色が白く、声が水のように清しかったことだけを、私はいまでもよく覚えている。空いている部屋はひとつきりで、先客と相部屋になってしまうが、それでも構わないか、とおかみは静かに尋ねた。凍えきっていた私に断るという選択肢は、もとよりありようがなかった。
通されたのは二階の奥の八畳だった。天井は低かったが、剥き出しの梁は丸太のままで、二抱えもありそうな太さで、頭の上を斜めに横切っている。この構えなら、裏の山から雪崩が来てもびくともするまい、とふと思わせるだけの、しっかりした古い普請だった。畳の上には、すでに布団が二組、隙間なく並べて敷いてあった。その片方には先客がいた。
歳のころ五十半ばの痩せて、どこかおだやかな顔つきの男だった。私が黙って会釈をすると男は軽く頭を下げただけであとはずっと、天井のあたりへ視線を投げていた。表情に険はなく、むしろ人懐こいくらいなのに、その目の底だけが、こちらの底をひそかに測っているような、奇妙な静けさをたたえていた。世の中をひとつどこかで静かに降りてしまった人間の顔だ、と私はそのとき感じた。
夕飯には、山菜の煮浸しと川魚の焼いたものと味噌汁とが出た。おかみは膳を運んでくるとこちらの顔をちらとも見ずに、また水の底を歩くような足どりで階下へ下りていった。その物腰のあまりに気配のなさに私は箸をとめて、しばらく襖のあたりを見ていた。先客の男は、私につきあうように、同じ膳を少しずつ行儀よく口へ運んでいた。
私は、その夜自分がなぜこんな山道を走っていたのかをうまく思い出せずにいた。都会での暮らしにこれといった不足があったわけではない。ただ、来る日も来る日も同じ電車に揺られ、同じ光る画面をのぞき込んでいるうちに自分という人間の輪郭が少しずつ薄れて、どこかへ流れ出していくようなそんな心細さだけがいつからか胸の底に、澱のように溜まっていたのです。だから、雪の封鎖という思わぬ口実に私はどこかで、ほっとしてさえいたのかもしれません。
宿のなかは、時計の針の音ひとつしないほどしんと静まり返っていた。廊下の底冷えも、階段のかすかな軋みも、そのすべてがこの雪に吸い取られて、家全体が深い水の底へ、そっと沈み込んでいくようだった。私は、枕もとに置いた腕時計の、ぼんやりと光る針だけを頼りにこの古い宿にはあのおかみと隣の男とそれに自分のほかに、はたして本当に誰かいるのだろうかと埒もないことをいつまでも考えていた。
布団に入ってからも旅先ではいつものことで、私はなかなか寝つけずにいた。雪が屋根を撫でていくさらさらという細かな音ばかりが、耳の奥でしだいに大きくなっていく。隣の男もまだ眠ってはいないようだった。その息づかいには、床についた人間のゆるんだ呼吸とは違うどこか張り詰めた、耳を澄ましているような気配があった。
気になって横を見て、私は妙なことに気がついた。この男はけっして仰向けにならないのだった。着替えもせず、シャツのまま体を丸め、腰から布団へすっぽりと潜って、肩に掛け布団の端を掛けると両手を胸の前で軽くつき、顔を枕へ伏せるようにして、じっと目を閉じている。我々とはちょうど反対で顔で枕をするようなそういう寝方だった。
そういえば、と私はふと思い返した。玄関口で私を迎えたあのおかみの、透きとおるように白い横顔を、私はどこか遠い昔に見たことがあるような気がして、それでいて、それがいつどこでのことだったのか、どうしても思い出せなかった。旅先で初めて会う人の顔を見知った気になるのはよくあることだ。私は、そう自分に言い聞かせて、その、妙に胸をざわつかせる思いを雪の降る音の底へと無理やり、押し流してしまおうとした。
どれほど時間が経ったろうか。眠れないまま寝返りばかり打っていると伏せた姿勢のまま、男のほうから、低く声をかけてきた。
「眠れませんか」
私が返事に迷っていると男は静かに言葉を継いだ。
「私も、若いころから、この格好でないと眠れない性分でしてね。急に寐つけないのは、たぶん、あなたも私も同じでしょう」
その声には、笑いのような諦めのような、奇妙にやわらかい響きがこもっていた。
「よければ、話でもしましょうか。眠れぬ夜の、退屈しのぎに」と男は天井へ向かって言った。「年寄りの繰り言と思って、聞き流してくださって構わない。ただ、こういう雪の晩には、いちど口に出しておかないと、どうも、こちらのほうが眠れないのです」
私は聞きますよ、と答えた。ほかにすることもない夜だったし、この静かな男が何を語るのかいくらか興味もあった。窓の外では、雪が音というものをすっかり吸い込んで、世界からいっさいの物音を奪っていた。枕もとの携帯を見ると電波の表示は消えていて、圏外の二文字だけが暗い画面に白く冷たく浮かんでいた。
男は、語りはじめる前にひとつだけ、断っておきたいことがある、と言った。この話には、はじめから、救いというものがまるでない。聞いたところで何の教訓にもならず、ただ、あなたの背中をひと晩じゅう冷たくするだけのものだ、と。それでも、まだ聞きたいと思われるなら、と男は暗がりのなかで、かすかに笑う気配を見せた。私は雪明かりのなかでええ、と、短く答えた。いまにして思えば、あのときいいえ、と答えておけば、よかったのかもしれません。
男の声は、低く落ち着いていて、嘘をついている者のあの上ずった調子は少しもなかった。だからこそ私はこれから語られることのすべてを頭から、信じてしまいそうでそれがかえって、怖かった。雪は、あいかわらず、さらさらと屋根を撫でつづけている。世界には、この暗い一室とこの男の低い声のほかにもう何ひとつ、残ってはいないようでした。
男は、天井へ向かって長い息をひとつ吐くとあれはまだ、山へ入れば携帯がすぐ圏外になるのが当たり前だった時代の夏でしてね、と、ずっと昔の話を静かに語りはじめた。私はその低い声を雪の音の底で、いつのまにか一言も逃すまいとして聞いていた。あとになって、思い返せば、あの晩の私は、聞いてはいけないはずのものを、自分から進んで聞こうとしていたのだと思う。
第二章 万金丹
あのころ私は、転職して初めての赴任地へ、中古の軽自動車で向かう途中の、若造でしてね、と男は語りだした。急ぐ用でもないのに、カーナビが「近道」と表示すると、つい細い道へ入りたくなるそういう齢だった。県境の峠を地元の者しか通らないような裏道で越えてやろうと、私は勝手に決め込んでいたのです。若さというのはそういうものでしょう。
最後の集落の最後のコンビニで飲み物を買ったとき駐車場に一台、やけに派手なワゴン車が停まっていた。健康食品だか何だかの訪問販売の車らしく後部座席は色とりどりの箱で、天井近くまでぎっしりと積み上がっていた。飲めば人生が変わると言って売り歩く粉薬だそうで、昔ならさしずめ万金丹とでも名のついた代物でしょう。効くと言い張って諸国を売り歩く、あの手のものです。その車の持ち主らしい男が店の入口のところで若い女の店員に、いつまでもねちねちと絡んでいた。声が大きいので、外まで筒抜けだった。
男の背後のワゴン車は車体の横腹に健康長寿という二文字を、金色の派手な書体で躍らせその下に賞状めいた印刷がいくつも、けばけばしく並べ立ててあった。運転席のダッシュボードには小さな招き猫と色の褪せたお守りとが、隙間なく貼りつけてあって、それがかえって、この調子のいい男の暮らしの拠りどころのなさを私に感じさせた。男は、大声で笑うたびに口の奥の金歯をちらりと光らせた。
その男の太く節くれだった指には金の指輪がいくつも窮屈そうにはまっていた。ところがその爪だけがなぜかどれも深く黒々と汚れていた。まるで、土を素手で力任せに掻きむしったあとのような汚れ方だった。人に健康だの長寿だのを売って歩く男の手とはどうしても、思えなかった。その後になって、気づいたことですがあの黒く汚れた爪こそがあの男の遠からぬ末路を誰よりも先に静かに告げていたのでしょう。
「なあ、こんな山奥に閉じ込められて、生きてて楽しいかい」と男は言っていた。「おれの扱ってるやつを飲めば、人生が根っこから変わるよ。騙されたと思って、一箱だけでも試してみなって。あんたみたいな若い子が、こんなとこで腐ってくの、もったいないと思わねえか」
女の子は困りきった顔で曖昧に笑っている。私がその横をすり抜けて店に入ろうとすると、男は品定めをするようにこちらを流し見て、それから、鼻の先でふっと笑った。
レジの女の子は、私と目が合うと助けを求めるように、かすかに眉根を寄せた。けれど、私は見て見ぬふりをして、その脇をすり抜けるほかになかった。あの子はいまごろどうしているだろうか。あの晩、あの明るい店のなかにいた者のうちでその後、無事に歳を重ねられたのは案外、あの子ひとりだけだったのかもしれない、と、いまでは思うのです。
「兄さんも、ずいぶん辛気くさい面してるな」と男は私に言った。「若いのに、もう死んだ魚みたいな目をしてやがる。世の中、楽しんだ者勝ちだぜ。あんたも一本、どうだい」
腹は立ったが、こういう手合いを相手にしたところでこちらが損をするだけだ。私は返事もせずに麦茶を一本だけ買って、逃げるように店の外へ出た。冷えた茶を一気に半分ほど呷ったところで店の奥から、腰の曲がった老いた店主がゆっくりと出てきた。私の顔と路肩に停めた私の軽とを見比べて、老人はどちらまで、と尋ねた。
私が峠を越えて信州側へ抜けるつもりだと答えると店主は急に声を落とした。
「峠は、必ず本道を行きなされ。旧道にだけは、けっして入っちゃならん」
その声の低さを私はいまでも忘れられません。老人は、頼みもしないことまで親切に、けれどどこか怯えたように話してくれた。去年も若い登山客が二人あの旧道で消えたのだ、と。
警察と村じゅうの者とが総出で山を捜し歩いたが、その二人は、とうとう見つからずじまいだった、と店主は言った。昔はあの奥にも、二十軒ばかりの村があったのだが、ちょうど二十年ほど前の豪雨で山ごと土砂に呑まれて、跡形もなく流されてしまった。人もそれはえらい数が死んだ。だから、あの谷はもう生きた者の通う道ではないのだ、と老人は繰り返した。
店主は、レジの脇に貼られたすっかり色の褪せた登山地図を節くれだった指で差した。あの谷はもう二十年ものあいだ地図の上では、通れないことになっているのだ、と老人は言った。それでも、道そのものはいまだにちゃんと山に残っている。残っているからこそ迷い込む者が後を絶たない。地図から線を消しても、消しきれないものがこの世にはあるのだ、と、老人はまるで独り言のように、低く呟いた。
「どうしても、あの道を行きなさるなら」と店主は言った。「道端の地蔵さまに手でも合わせて、念仏のひとつも唱えながら、静かに通りなされ。振り返って、後ろを見なさるなよ」
私はいくらか気味の悪い思いで礼を言って車へ戻った。戻ってみるとあの派手なワゴン車はもういなかった。旧道のほうへと折れていく赤い尾灯が砂埃の向こうにちらと見えただけだった。
あの派手なワゴン車が消えていった旧道の入口には小さな石の地蔵が、首から上を苔にすっかり埋もれさせて、ぽつんと立っていた。私は、店主の言いつけを思い出して、いちど、その前で手を合わせようとした。ところがなぜだかそのとき合わせようとした両の掌がひとりでに途中で重くなって、下りてしまったのです。祈ろうとした手が見えない何かに阻まれて、動かなくなった。あれがたぶんいちばん初めのしるしだったのでしょう。
本道は、集落を出てほんの少し行ったところで通行止めになっていた。前夜からの雨で斜面が崩れ土嚢と黄色いロープと赤く光る回転灯とで、道がすっかり塞がれている。引き返して別の道を探すにはあたりはもう、とっぷりと暮れかけていた。カーナビは、何度地図を書き換えても、うねうねと折れ曲がるただ一本の細道――あの旧道へと執拗に私を導こうとした。
車のなかで私はしばらくエンジンもかけずにただ、暮れていく夏の空を見ていた。カーラジオは、とうに耳障りな雑音しか拾わなくなっている。携帯の電波も、いつのまにか圏外の表示に変わっていた。世界と自分とを繋ぐ細い糸が一本また一本と静かに切れていくようでそれでいて、私はなぜか、少しも恐ろしいとは思わなかった。むしろ、長いあいだ張り詰めていた何かが、ようやくほどけていくような奇妙な安らぎさえ感じていたのです。
私はしばらく閉ざされた本道の前で迷っていた。旧道の名を口にしたときのあの店主の低い声がまだ耳の底に残っている。それでも、あの嫌味な販売員のワゴン車が、先にあの道へ入っていったという事実が妙に私の胸に引っかかった。まさか店主の言うような目に本当に遭うとは思えない。けれど、もし万にひとつでも本当だとしたら、あの男を見殺しにするようで、どうにも気が咎めたのです。
出家でもない私がなぜあんな男のことを気にしたのか。あとから、振り返れば、あれはただの若さとつまらない意地でした。挨拶を交わしただけの男なら、私はきっと打ち捨てて、さっさと引き返していたでしょう。けれど、腹の立つ相手だったからこそ、そのまま見捨てて背を向けるのがわざと突き放すようで、かえって気が済まなかったのです。それだけの意地でした。
ハンドルを切る前に私はいちどだけ来た道を振り返った。麓の集落のまばらな灯りが迫る夕闇のなかに頼りなげに瞬いている。あの灯りの下では、いまごろあの老いた店主が夕餉の膳に向かい、あのレジの女の子が退屈そうに、次の客を待っているのだろう。そんなありふれた人の暮らしの営みを私はまるで、もう二度と戻れない対岸のように、ぼんやりと眺めていた。あれが生きた人の世というものを私がまともに目にした最後の眺めだったのです。
よし、と私は声に出して言って、ハンドルを旧道のほうへ切った。侠気があったわけではない。血気に逸ったのでもない。ただ、あの晩の私は行かずにいられなかった。いまになって振り返れば、あれは私自身の意志などではなく、あの暗い谷のほうがこちらへ向かって、静かに手招きをしていたのだと思う。念仏のひとつも、地蔵への挨拶のひとつも私はとうとう唱えずじまいでした。
第三章 蛇の橋
旧道は、車のヘッドライトが照らし出したとたんに、もう人の通う道ではなくなっていた。舗装はあちこちで割れて隆起し、両側から迫る夏草の藪が車の腹を、ざりざりと不快な音を立てて擦っていく。速度はいやでも落ちて、私はほとんど徐行で、その荒れた道を上っていった。ライトの丸い光のなかをふいに白いものが一本横切った。私は思わず強くブレーキを踏んだ。
蛇でした。それも一匹ではなかった。乾いた道の上に太い胴だけを白々と晒して、頭と尾とを、両側の草むらへそれぞれ突っ込んだのがまるで橋のように、道を渡している。ゆっくり車を進めて一本を越えれば、その少し先にまた次の胴が、同じように横たわっている。私は生まれつきあれが何より苦手な性分でしてね。掌にじっとりと汗が滲んだ。
蛇というものは、車輪に轢かれても、すぐには死なないのだ、と、私はそのとき初めて知った。ライトに白く照らし出された一本がタイヤの下で、ゆっくりと身をよじりながら、それでもなお頭だけは草むらの奥へと進めようとしている。逃げるでもなく、こちらへ向かってくるでもなく、ただ、あらかじめ決められた方向へとひたすらに這っていく。その意志のようなものの見えなさが私には何より恐ろしかった。
窓という窓を締めきって、ハンドルを握る手に力をこめながら、私はじりじりと車を進めた。轢いてしまうときのあのやわらかく重い感触がタイヤ越しに、背筋のほうまで這い上がってくるようだった。それでも引き返す気にはならなかった。というよりこの細い一本道では、もう方向を変えることさえできはしなかったのです。道はただ前へ進むことだけを私に許していた。
何本の蛇を越えたかもう数える気力もなくなったころ道そのものがふいに尽きた。太い倒木が一本道いっぱいに横たわって、行く手を完全に塞いでいる。仕方なく、私は車をそこへ乗り捨てることにした。懐中電灯とわずかな荷物だけを掴んで倒木を乗り越え、その先を歩いて越えるほかにもう道はなかった。エンジンを切ったとたん山じゅうの闇がいっせいに、耳の奥へと押し寄せてきた。
鍵をポケットの奥へ押し込みながら、私はこの車には、もう二度と戻ってこられないだろう、という予感をはっきりと抱いていた。無数の虫の声が闇の底から、じい、と、耳を圧するように湧き上がって、たった一人の私を四方から、ぴたりと取り囲んでいる。それでも、私の足は自分の意志とはかかわりなく、前へ前へとひとりでに進んでいくのでした。まるで、この谷の底の何かに爪先を掴まれているように。
倒木を越えた先には森があった。昼なお暗い、というのはこういう森のことを言うのでしょう。杉の大木ばかりが見上げるほどの高さで隙間なく立ち並んでいる。懐中電灯の丸い光が辛うじて届く範囲のほかは墨を一面に流したような底の知れない闇だった。踏み込むと汗ばんでいた背中がすっと冷えた。足もとの土の色まで黒々と沈んでいる。
森のなかは外の道よりもはっきりと涼しかった。そのことに私はいっとき助かったような心地さえした。歩きにくい下生えを掻き分けながら、私はどこまでもどこまでも木の間を縫って、奥へと進んでいった。ときおり頭上のずっと高いところで常磐木の葉が、何十年ぶりかにようやく地上まで届くように、かさ、かさ、と乾いた音を立てて落ちてきた。
懐中電灯の電池が心細くなるのを恐れて、私はときどき明かりを消しては、闇のなかでしばらくじっとしていた。そのたびに森が生きて呼吸をしているような微かな気配を四方から感じた。木の幹の内側で無数の何かがじっと息をひそめて、私が通り過ぎるのを待っている、そんな根も葉もない考えがしだいに頭の隅にこびりついて、離れなくなっていった。
森の奥からは、ときおり水の流れる音とも、人のすすり泣きともつかない、細い、細い音が、聞こえてくるように思われた。立ち止まって、耳を澄ますとその音は、はたとやむ。ふたたび歩き出すとまたどこからともなく、そっと聞こえはじめる。私は、それが自分の血の巡る音なのかそれともこの森そのものの、静かな息づかいなのかしまいにはまるで、区別がつかなくなっていた。
歩きはじめてすぐ、私は杉の幹に古い鉈の傷を見つけました。
人の背の高さのところに、ひとつ。少し行くと、また、ひとつ。
道しるべに刻んだものだろうと思いました。
けれど、奥へ進むほど、その傷は新しくなっていくのです。しまいには、木の肌がまだ白く湿ったままの一つに行き当たって、私はそこで足を止めました。
下生えの葉の一枚一枚が懐中電灯の光を受けて、ぬらぬらと油でも塗ったように、濡れて光っていた。この森には、雨の一滴も降っていないのに、なぜこんなにも何もかもが、しっとりと濡れているのだろう。そう思って、私は何気なく、自分の手の甲に目を落とした。そこにも、いつのまにかうっすらと生温い露のようなものが貼りついていた。それを袖で拭おうとして、腕を持ち上げたちょうどそのときでした。
七分ほどもその森を越えたろうか、というあたりでした。頭の上五六メートルほどの高さの枝から、ぼたり、と重いものが落ちてきて、私のフードの上でぴたりと止まった。木の実か何かだろうと私は片手を後ろへ回して、それを無造作に掴んだ。掴んだそのとたんに指の背筋を冷たいものがするりと走り抜けた。
滑らかで氷のように冷たかった。なめくじを縦に裂いたような目も口もない、けれど確かに生きているものが私の指先へずるりと吸いついて、そのまま、ぶらりと垂れ下がった。慌てて振り払うと放れた指の先から、真っ赤な、いっそ美しいと言いたくなるほど鮮やかな血がたらたらと糸を引いて、垂れていた。私はそれが何であるかをまだ認めたくなかった。
月あかりに透かすようにして、目を凝らすとそれは蛭でした。幅が指の太さほど長さは十センチ近くもある黒く濡れて、茶褐色の縞を帯びた、化け物じみた大きさの蛭だった。どんな沼にも、どんな湿地にも、こんなものが棲むとは思えない。折り曲げた肘のあたりにも同じ形をしたのがもう一匹つるりと垂れ下がっていた。
私の首筋にも帯のあたりにもそれはいた。振り払っても、よほど深く食い込んでいるのかなかなか放れない。無理に引き剥がすとぷつり、と嫌な手応えがして、ようやく取れる。取ったのを力任せに地面へ叩きつけても、日の射さぬ森のやわらかな土はその虫を、ひとつも潰してはくれなかった。まるで、ここが奴らの棲み処で地面までが、奴らの側についているかのようだった。
あとになって知ったことですが蛭という虫は獣の吐く息のほんのわずかな温もりとその息に混じる気とを、離れた枝の上から嗅ぎ分けて、じっと通りかかる獲物を、待ちかまえているのだそうです。つまりあの森の枝という枝は暗い道を歩いてくる私ひとりの体温を、とうの昔に嗅ぎつけていた。私があの森へ最初の一歩を踏み入れたその瞬間から、幾万という目のない虫がいっせいにこちらへ向かって、鎌首をもたげていたのです。
森に入ってからは、時間の感覚がなくなりました。
懐中電灯の丸い光の外は、墨を流したような闇です。
何分歩いたのか、どれだけ進んだのかもわからない。
わかるのは、後ろへは戻れないということだけでした。
その太った黒い体が私の血を吸って、見る見るうちに膨れ、下の方から縮んでいくのを目にしたとき私は思わず、声を上げた。そうして、ほとんど無意識に懐中電灯の光をまっすぐ頭上の枝へと向けてしまったのです。あれを見なければ、私はもう少しのあいだ、正気を保っていられたかもしれない。けれど、見てしまった。見上げたその先の光景を私はいまでも夢のなかで繰り返し見るのです。
第四章 血の雨
枝という枝が幾万という蛭でびっしりと生っていた。杉の高い梢のあたりまで光の届くかぎりの枝が、黒く濡れた実を鈴なりにつけた木のように、うぞうぞと絶え間なく蠢いている。私が息を呑んだその気配を待ちかまえていたかのように、頭上のそれらがいっせいに枝を離れた。私は、逃げることも忘れて、しばらくその場に立ちすくんでいた。
上から、雨が降ってきた。黒い、痩せた筋の入った生きた雨が。フードに肩に手の甲にぼたぼたと落ちかかっては累なり、累なってはまた滑り落ちて、その上へ次のがすぐに貼りつく。落ちた一匹一匹が生きているものだけの持つ脈をはっきりと打っていて、思いなしかその体をひとつひとつ伸ばしては縮め縮めては伸ばしている。私は正気を失いかけていた。
引き剥がしたあとの皮膚からは血がいつまでたっても、止まらなかった。蛭は、噛みつくときに血を固まらせなくする毒を傷口へ流し込むのだとこれもあとで知りました。だから、傷そのものは針の先ほどに小さいのに、血だけがだらだらと後から後から、流れつづける。私の腕は、首は月あかりのなかで黒々と濡れて、まるで、自分の体から、命そのものが細い糸を引いて、こぼれ落ちていくようでした。
スニーカーのその甲にも蛭は幾重にも積もって、爪先がどこにあるのかさえわからなくなった。私は我を忘れて、大枝の下を一散に駆け抜けた。走りながら、手当たり次第に貼りついたのをもぎ取っては投げ投げては、またもぎ取る。それでも、駆けていく先の枝から、新しいのが次から次へと絶え間なく、私の上へ降りかかってくるのだった。
走りながら、私は何度もそれが、口のなかへ入ってくるのを感じた。悲鳴をあげようと口を開けると、まるで待ちかまえていたかのように、冷たくぬめるものが唇へ舌の上へぴたりと貼りついてくる。私は、とうとう声さえ出せなくなって、ただ、闇雲に腕を振り回し、頭を振り狂ったように、木の間を走りつづけた。人が恐怖のその極みにおいて、なぜ声ひとつあげられなくなるのか私はあの夜身をもって、思い知りました。
逃げまどううちに私の頭のなかにひとつの奇妙な考えがはっきりと浮かびました。この森の山蛭は、遠い太古の昔から、ここでじっと、人の来るのを待ちつづけているのだ、と。永い永い年月のあいだに通りかかった人間の血を少しずつ少しずつ吸い溜めて、いつか、ありったけの蛭が吸っただけの血をいちどきに地へ吐き出す日が来る。
その血で土がとろけて、山ひとつがまるごと血と泥との、巨大な沼へと変わってしまう。それと同時に日の光を遮って昼なお暗いこの大木の一本一本が根の方から、ぶつぶつと切れて、そのすべてが、無数の蛭に化けてしまうのだ。私は、そのとき二十年前の豪雨で流されたというあの村の人々のことをふと思った。あの人たちの血も本当は。
逃げまどいながら、私はふとあの二人の登山客のことを思い出していた。去年、この谷でこつぜんと消えたという若い二人連れ。あの人たちも、きっとこの同じ森でこの生きた雨に遭ったのだ。声も出せぬまま、走って、走って、走り疲れて、そうして、最後にはこのやわらかく黒い土の上へ崩れるように、倒れ伏したのだろう。土までが奴らの側についているこの森のいちばん底の暗がりに。それだけはまいと私は歯を食いしばった。
逃げる足がもつれて、私は石に躓いて転んだ。したたかに膝を打ちつけて、たぶんそのときに節を痛めたのでしょう。以来ずっと雨の降る前になるとこの膝が鈍く疼くのです。倒れたところへも、蛭は容赦なく、ぼたぼたと降り積もってくる。ここで倒れていては、あの黒い雨に生きたまま埋もれて、血を吸い尽くされてしまう。私は、自分で自分の首筋を掴んで無理やりに立ち上がった。
どのくらいのあいだそうして走りつづけたのか、いまとなっては覚えていません。禍いは、ちょうどその一帯が絶頂だったとみえて、やがて、トンネルを抜けるように、ふいに頭上の枝がまばらになった。雲の切れ間に欠けた月がぼんやりと一輪かかっていた。蛭の林の出口でした。私は、その月をまるで仏でも拝むような気持ちでしばらく見上げていた。
走るあいだじゅう、森は妙な音で満ちていました。
ぴちゃ、ぴちゃ、という、湿った音です。
落ちた蛭が地面で跳ねる音か、それとも私の腕から滴るものの音か。
どちらとも区別がつかないまま、私はその音に追い立てられるようにして走りつづけました。
森を抜け出たとき、私はもう何もかもを忘れて、砕けろ微塵になれとばかりに自分の体を山道の地面へ横なぐりに叩きつけた。砂利でも、針でもいい、擦り剥けても構わないと地面へ体をこすりつけ貼りついた蛭の死骸を、十いくつも引き剥がしては、五、六メートルも先へ飛びのいて、身震いをして、また立ちすくんだ。生きた心地はまるでしなかった。
あたりの山ではあちこちでひぐらしが鳴いていた。血と泥の沼になろうとしている森を背にして、その澄んだ声だけが場違いなほど涼しげに渓じゅうに響いている。日はもうすっかり斜めに傾いて、谷の底は、とっぷりと暮れかけていた。人を心の底から馬鹿にしたような静かで美しい夕暮れでした。私はしばらくその場から動くことができなかった。
月あかりの下で私はあらためて、自分の体を見おろした。着ているものは、血と潰れた蛭の汁とでどす黒く汚れ剥き出しの腕には噛まれた痕が赤い斑点となって、数えきれぬほど一面に散っていた。私は、その斑点をひとつふたつ、と、無意識のうちに数えようとして、途中でふとやめた。これを最後まで数えたら、もう正気ではいられなくなる。そんな気がはっきりとしたのです。
これでもうたとえ狼に食われても、それは一思いに死ねるだけましというものだ。私は、そんな投げやりなことを考えながら、痛む膝を引きずって、だらだらとつづく下り坂を里のほうへと少しずつ下りていった。蛭に吸われた痕が痛いのか痒いのかそれとも擽ったいのかもう自分でも判じかねる、名づけようのない苦しみだけが体じゅうにじっとりと残っていた。
だらだらとつづく坂を下るその足もとには、ときおり白い小さなものが群れて、月あかりに光っていた。こんな夜更けのこんな山の底に、まさか花でもあるまい、と思って、近づいて、よくよく見るとそれは花ではなく、朽ち果てた獣の骨が青白く光っているのでした。牛のような馬のようなそれでいて、どこか人のようでもある骨が坂を下るにつれて、少しずつ少しずつその数を増やしていくのでした。
私は、その白い骨を踏まないように、よけて、よけて、坂を下りていった。よけながら、ふとひとつのいやな考えが頭をよぎった。この道をこれだけの数の獣がかつて、生きたまま、下っていったのだ。それでいて、その一頭として、二度と麓へはたどり着けなかった。骨はどれも坂の途中でこと切れている。まるで、この坂のその先にあるものが生きて通り抜けることをはじめから、けっして、許してはいないかのようでした。
坂をどれほど下ったろうか。谷を渡る水の音がかすかに耳へ届きはじめた。そのとき、暮れかけた谷のずっと下のほうに灯りがひとつぽつりと灯っているのが目に入った。人の住むところがある、と思ったとたん、私は張り詰めていた気がいちどきにゆるんでその場に膝をつきそうになった。後になって、ようやく分かったことですがあの灯りこそがこの谷で、いちばん近寄ってはならないものだったのに。
第五章 孤家
それは一軒の古い家でした。谷を背にして、ぽつんと建っている。夏のことで戸という戸が開け放たれ門というほどのものもありはしない。破れかけた縁側に男が一人腰をおろしていた。私は、助けを求めるより先にその男の姿に、思わず足を止めてしまった。何かが決定的におかしかったのです。
成人した男でした。けれど、こちらを見るその目の奥に人がいなかった。だらしなく口を半分開け意味もなく片手を宙に浮かせて、風にあおられるように、ひらひらと動かしている。太鼓を張ったように膨れた腹をもう一方の手でゆっくりと飽きもせず撫でていた。私が声をかけても、応えない。ただ、瞬きもせずにじろじろと私の顔を見つめてくる。
その瞳を動かすことさえ億劫らしい、気の抜けた身の持ちようだった。私は正直に言えば、ぞっとした。こちらの命に別状はない。けれど、この男のなかをすっかり流されてしまったような顔つきがあの森の蛭よりもなお私の背を冷たくした。助けを求める相手を私はすっかり間違えてしまったのだ、と思った。
男の顔だちは、よくよく見れば、けっして醜いものではなかった。むしろ、若いころはさぞや、と思わせるほどの整った目鼻をしている。ただ、その顔からは喜びも悲しみも怒りも、人が生きていれば当然にじむはずのいっさいの色が、きれいに拭い去られていた。歳月が人の顔に自然と刻んでいくはずのあの深い皺というものがこの男の顔にはただの一本もなかったのです。まるで、時間というものがこの人ひとりだけを避けて、通り過ぎていくようでした。
「どなた」と家の奥から、女の声がした。清しい、ものやさしい声だった。私が思わず、そちらへ一歩後ずさったとき、奥からゆっくりと立ち現れたのは小柄なたいそう美しい女でした。こんな山奥にこれほど白い肌の人がいるのか、と、私は目を疑った。歳は、私よりいくらか上のようにもずっと若いようにも見えた。
私は、蛭にやられて熱を持った体を持て余しながら、山を越えて信州へ抜けるつもりが道に迷ったことどこの物置でも、納屋の隅でも構わないから、一晩だけ、雨露をしのがせてほしいことをすがるように話した。女は、私の顔を瞬きもせずにしばらくじっと見つめていた。その視線には、値踏みするようなそれでいて、どこか懐かしむような色が確かにあった。
「ああ、お泊め申しましょう」とやがて女は言った。「ちょうど、お米も炊けるところですし、夏のことですから、夜のものにも、ご不自由はさせません。さあ、ともかくも、お上がりくださいまし」
そう言うと女は言葉の切れないうちにどっかとそこへ腰を落とした。断る間もない、恐ろしく調子のいい人だ、と私は内心いくらか鼻白む思いでそう感じた。
それから、女はつと立ち上がって、こう言い足した。
「お坊さまでもないあなたに、ひとつだけ、お断りしておかねばなりません」
妙な前置きに私は思わず、はい、はい、と間の抜けた返事をした。女は、少しも笑わずに私の目をまっすぐに覗き込んで静かに言った。
「わたしは、癖として、外の世界の話を聞くのが、病でございます。あなたが、うっかり里の話を口になさっても、わたしは、無理やりにでも、それを聞き出そうといたします。けれど、そのときは、けっして、お話しくださいますな。是非にと、わたしがどれほど頼んでも、断って、お話しにならぬよう、きっと、念を入れておきます」
その外の話をするな、という妙な戒めはその晩、私の胸の底に小さな棘のように、刺さったまま、残った。里の話をすれば、この人はそれを、無理にでも聞き出そうとする。聞き出して、いったい、どうするというのか。私は、話してはならない、と自分に固く言い聞かせながら、その一方でこの静かな家で、たった一つだけ禁じられたことのその向こう側を、そっとのぞいてみたいという危うい誘惑を感じてもいたのです。
山の高さも、谷の深さも底の知れない、こんな一軒家の女の言葉だ。妙な戒めではあったが、守るのに、さして難しいものでもない。私は、はい、と頷いた。すると女は、言い終わるより早く、うって変わって打ち解けた声になって、さあさあ汚いところですが、と私を家のなかへ招き入れた。恐ろしいほど調子のいい人でした。
招き入れられた家のなかは外の荒れ果てた様子とは打って変わって、隅々まできちんと片づいていた。古い囲炉裏には、赤々と炭火が熾り鍋からは白い湯気が絶えることなく、静かに立ちのぼっている。壁際には、古めかしい薬簞笥がいくつも並んでいて、その小さな抽斗の一つ一つに色褪せた紙で薬草の名らしきものが几帳面な字で書きつけてあった。こんな山家にいかにも不似合いなその隅々までの几帳面さがかえって、私をぞっとさせた。
女は、私の腕の蛭に噛まれた痕を見ると痛みましたでしょう、と言って、白い指先でその傷の一つにそっと触れた。触れられたところから、嘘のように、疼きがすうっと引いていくのを私は感じた。ありがたいようなそれでいて、触れてはならないものに触れられたような名づけようのない心地が背筋をするりと上っていった。女の指は、氷のように冷たいのに、その触れられた痕だけがいつまでもぬくもって、いたのです。
女は、この裏の崖を下りると綺麗な流れがあるから、まずそこで蛭の血を落とすとよい、と言った。旅の人には、湯に浸かるのが何よりのご馳走だと申しますがあいにく、うちには湯もございませんので、と。それを聞いただけで私はいますぐにでも、その水へ飛び込みたい気持ちになった。全身にこびりついたあの生温い蛭の感触を一刻も早く、洗い流してしまいたかったのです。
夕餉の支度をする女のその後ろ姿を見ながら、私はなぜこの人がこんな山の奥にたった一人のあの空ろな男とだけ暮らしているのかを考えずにはいられなかった。夫婦には、とても見えなかった。母と子にも見えなかった。二人のあいだには、言葉というものがまるで交わされず、ただ、女が世話をし、男が世話をされる、その一方通行の営みだけが川の水が流れるように、静かに来る日も来る日も、繰り返されているのでした。
私は、その晩、この家に泊めてもらうことを心のどこかですでに後悔しはじめていた。けれど、外はもう墨を流したような闇であの蛭の降る森へ、いまさら引き返す気には、とても、なれなかった。前へ進めば、この美しくて、どこか怖ろしい人の家。後ろへ戻れば、血を吸う雨の降るあの森。思えば、私に選べる道は、はじめから、この一軒家よりほかに、なかったのかもしれません。
古い囲炉裏の火を挟んであの美しい女と空ろな目の男と私と三人で黙って向き合っていると外の底知れぬ闇がじりじりとこの小さな灯りの輪を四方から、狭めてくるように感じられた。火の粉がひとつふたつ、と、爆ぜては、天井の暗がりへ吸い込まれて、消えていく。そのたびに私は自分の命の残りがあの火の粉のように、ひとつずつ数え上げられ静かに闇へと運び去られていくようなそんな心地になるのでした。
壁際の薬簞笥の抽斗を、私はひとつだけ、そっと引いてみました。
中は空でした。
次のも、その次も、空でした。
几帳面な字で薬草の名の書かれた抽斗が、どれもこれも、からのまま並んでいる。この家では、薬を使うことが、とうの昔になくなっていたのです。
「では、ご案内しましょう」と女は言って、縁側から藁草履を履いて出ると板縁の下から、古びた下駄を一足引き出し、埃を丁寧に払って、私の前へ揃えてくれた。それを履いて、崖のほうへ向かうとき私はもう一度あの男を盗み見た。男は、同じ姿勢のまま、まだこちらをじろりと見ていた。その空ろな目がなぜだか行くな、行くな、と繰り返しているように、私には思われてならなかった。
第六章 水明かり
女のあとについて、慎重に崖を下りていくとそこは一面の大きな一枚岩だった。その岩の上を谷川の水が浅く流れて、ちょうど盥ほどの淀みを作っている。川幅は一間ほどで水のそばに立てば、音はさほどのものでもない。けれど、その水面の美しさは玉を解いて流したようでずっと遠くのほうでは水が岩に砕け散る凄まじい響きが、途切れることなくつづいていた。
その水は、欠けた月の光を浴びて、まるで銀の鎧を一面に敷きつめたように、白々と光っていた。向こう岸は、また別の一つの山の裾で、頂のほうは真っ暗だったが、月の射す斜面だけが大石も小石も剣のようなのも鞠のようなのも目の届くかぎり残らず、ぼうっと青白く浮かび上がって見えた。私は、その荒涼とした美しさにいっとき蛭のことさえ忘れて、見入っていた。
「さあ、遠慮なさらず」と女は言った。「わたしが、流してさしあげましょう」
言うより早く女は私の背へ後ろから手を回してきた。断る間もなかった。冷たいはずの谷の水がなぜだか、少しも冷たくは感じられない。むしろ、いい具合に身に沁みて、心地よいのだった。良い水というのは、柔らかいものだと申します、と女は耳もとで囁くように言った。
谷川の水は、手で掬って口に含めば、歯の根がきん、と鳴るほど冷たいはずのものだった。それなのに、女の掌を通して、私の背へかかるその同じ水だけはぬるい湯のように、生温く肌にまとわりついた。同じ流れの同じ一筋の水がなぜこうも違うのか。私は、そのときすでにこの水が、ただの谷の水ではないことをうすうす感じ取っていた。感じ取りながら、そのうっとりするような心地よさから、どうしても、逃れることができずにいたのです。
女の掌が私の肩から、背へ横腹へと水をすくいかけながら、ゆっくりと滑っていく。骨に通って冷たいかというとそうではなかった。私の血が沸いているせいなのかそれとも、この人の掌の温もりのせいなのか。蛭に吸われた痕のあの疼くような痛みが掌の触れる下から、すうっと遠のいていく。私は、気が遠くなって、いつのまにか、あたたかな花びらのなかに柔らかく、包み込まれているような心地になっていた。
目を閉じると瞼の裏に見たこともないはずの景色が次から次へと浮かんでは消えていった。青い稲田の広がるどこかの村。夏祭りの赤い提灯の列。若い男たちのはじけるような笑い声。それがこの女の遠い日の記憶の断片なのかそれともこの水に流された幾人もの男たちが人として最後に見た夢の名残なのか。私にはわからなかった。ただ、その景色のどれもが胸が締めつけられるほどなつかしくそして、底の知れぬほど悲しいのでした。
そのほんのりと佳い薫りがこの女の白い肌から立ちのぼるものだと気づいたとき藪のなかから、のそりと大きな蟇が這い出してきた。蟇は女の白い足に絡みつこうとした。
「お前たちは、虫でも吸っていれば、たくさんだろう」
女は、そう言って、それをいかにも邪険に足で払いのけた。蟇は、名残惜しそうにまた暗い草のなかへずるずると沈んでいった。
水の音というのは、聞いているうちに人の声に似てくるものです。
谷川の瀬が、遠くで誰かの名を呼んでいるように聞こえる。
呼ばれている気がして振り返れば、そこには誰もいない。
あの晩から私は、水の音のするほうへ顔を向ける癖がついてしまいました。
すると今度は、崖の上のほうから、小犬ほどもある鼠色の小猿が、ちょこちょこと駆け下りてきて、あなやと思う間に宙をひょいと飛んで女の背へ後ろから、ぴったりと貼りついた。
「畜生、お客さまが、見えないのかい」
女は、声に怒りをこめて、振り返りざまその猿の頭をぴしゃりと打った。猿は、耳をつんざく奇声を放って、木の枝を伝い、あっという間に高い梢へと消えていった。
それだけではなかった。ものの鳥ほどもある大きな蝙蝠がひらひらと、こちらの目の前を横切って、ふいに月を遮った。蟇と猿と蝙蝠と。三度もつづいたその執拗な邪魔立てに女は、子がはしゃぎすぎるのを叱る、若い母親のような顔をして、心底うんざりしたように、白い眉をきゅっと寄せた。どれもこれもがこの女に懸想して、纏わりついているように、私の目には、はっきりとそう見えた。
蟇も、猿も蝙蝠も女に邪険に払いのけられるたびに恨めしそうな目で決まって、私のほうをじっと見た。その光る目のなかにはまぎれもなく、嫉妬の色があった。ものを言わぬ獣が一人の人に嫉妬をする。そんなありえないはずのことがこの谷ではあたりまえのように、起きている。私は、あのときようやくあの獣たちがもとは、いったい何であったのかを考えはじめて、そうして、慌てて、その恐ろしい考えを打ち消したのです。
私は、その一部始終をただ呆けたように、水のなかに膝をついたまま、眺めていました。いまにして思えば、あのときこの水は私の名を、静かに数えていたのでしょう。何人目の男か、と。この谷で何人目の獣になるはずの男か、と。女の掌の下で私の体は確かに一度ふっと綿のように軽くなった。あちら側へ連れていかれかけたのです。
女の掌は冷たいのに、触れられた痕だけが、いつまでも熱を持っていました。
背中の、ちょうど手の届かないあたりです。
何度手を回しても、そこにだけは指が届かない。
届かないまま、その一点だけが、じん、と疼いていました。
女の手が私の背のちょうど真ん中あたりでしばらくぴたりと、とまった。そこへ掌を静かに押し当てて、まるで、消えない型でも押し込むように、ゆっくりと力をこめた。その瞬間私の体の芯から、すう、と、何かが、抜け出ていくような気がした。名前も、これまでの記憶も里に残してきた灰色の日々もそのすべてがこの掌の下から、水になって、静かに流れ出していく。あと、ほんの少しで私はきれいに空っぽになるところでした。
あなたは、なぜ逃げようとなさるの、と、女は咎めるでもなく、ただ、囁いた。ここにいれば、もう何ひとつ考えなくて、いいのですよ。あの灰色の同じことの繰り返しの日々へ二度と帰らなくて、いい。わたしがあなたの荷をぜんぶ洗って、流してあげましょう。その声は、この上なく、やさしくこの上なく、甘かった。都会で私がいちばん掛けてほしかった言葉をこの女はなぜか知っていたのです。だからこそ私はありったけの力を振りしぼって、その白い手を振りほどいた。
けれど、私はそのときふと里に残してきたものを思い出した。何ということもない、赴任先で私を待っているはずの、まだ見ぬ新しい仕事のこと。会ったこともない、同僚たちの顔。そんなつまらない、地続きの日々の断片がなぜだかそのとき太い鎖のように、私をこちら側へと繋ぎとめた。私は、そっと体をよじって、女の手から、静かに逃れた。
女は逃げた私を少しも咎めなかった。ただ、得も言われぬ色をその目に湛えて、「あなたは、ほんとうに、おやさしい」とだけ言って、じっと私を見た。その目を私は正面から受け止めることができなくて、思わず、水面へと視線を落とした。落とした水面には、月あかりを浴びた女の白い姿がゆらゆらと絵のように、映っていた。
その映った姿が千筋に乱れる水とともに粉々に砕けて、花びらのように散っては、またもとの姿に集まっていく。私はぞっとして、水面から、目を離した。この水は、と、そのとき私は思った。この水にだけは浴びてはならなかったのだ、と。けれど、すべては、もう手遅れだったのかもしれない。私の背には、そのときすでに何かがそっと刻まれていたのですから。
第七章 畜生道
家に戻ると庭先に一台の軽トラックが停まっていた。野良着を着た小柄な老爺がその荷台へ、何かを積み込もうとしている。太い縄で引いているのは獣でした。何の獣とも言えない、大きな鼻面をこちらへ捻じ向けて、いやいやをするように、四本の脚を突っ張って、頑として、動こうとしない。
「和尚さま、お帰りなさい」と老爺は私に向かって言った。「嬢さま、こいつは、これから市へ、出してめえりやす」
女がお願いね、と、あっさり応じる。老爺はこちらを見て、にやりと笑った。赤く濁った目の底で白いか黒いかだけはちゃんと見えている、という、薄気味の悪い笑い方だった。私は、わけもわからぬまま、その笑いにひやりと背筋を撫でられた。
太い縄で引かれたあの獣の脚は四本とも蹄ではなく、なぜか爪先の割れた人の足の指のような形をしていた。私はそれに気づいて、思わず、目をそらした。老爺は、私のその視線の動きに目ざとく気づくとにやりと笑って、荷台の板を力任せに引き上げた。閉じ込められた獣がひときわ高くひと声鳴いた。その声は、まぎれもなく獣の声でありながら、どこか助けを求める人の叫びのようにも私の耳には聞こえたのです。
その晩の膳は、山の香の物と名も知らない茸の味噌汁とで餓えていた私には、過ぎるほどのご馳走でした。女は、甲斐甲斐しく給仕をして、まるで長年連れ添った女房のように、振る舞う。その物腰には、こんな山家にはおよそ不釣り合いなどこか奥ゆかしい、上品なものがちらちらと覗いていた。私は、盆を膝の上に置いて、その姿を嬉しいような、落ち着かないような気持ちで眺めていた。
女は、私の椀に汁を注ぎ足しながら、あなたはいつまでもこの家にいてくださっても、よいのですよ、と、さらりと言った。まるで、明日の天気の話でもするような何気ない口ぶりだった。私は返す言葉に困って、ただ、曖昧に頭を下げた。囲炉裏の火に赤く照らし出された女の横顔はぞっとするほど美しくそして、その美しさのいちばん底のところにふと途方もなく深い、寂しさのようなものが透けて見えた気がしたのです。
縁側にいたあの男が退屈に耐えかねたものかぐたぐたと膝で這って、女のそばへその膨れた腹を運んできた。崩れるように胡坐をかいて、しきりに、私の膳のほうを指さしては、うう、うう、と濁った声を出す。あとで召し上がれいまはお客さまじゃありませんか、と女がなだめても、男は情けない顔をして、べそをかくように、口をへの字に歪めた。
女は、ほとほと困り果てて、こわれかけた古い戸棚から、鉢に入ったものを取り出して、男の膳へ手早く移してやった。何が出てくるのかと私はそっと窺っていた。片手に椀を持ちながら、男が掴み出したのは一本の古い沢庵だった。刻んだのではない、三つに切ったほどの太いのを男は横咥えにして、ばりばりと大きな音を立てて、やりだした。女は、恥じるように、手拭いの端をそっと口に当てた。
沢庵を食べ終えた男はこんどは女の袖口をしきりに引っぱりはじめた。何ごとかを懸命に訴えているのだが、それはついに言葉にはならず、ただ、うう、うう、という濁った声を繰り返すばかりだった。女は、根気よくその相手をしてやりながら、私のほうへ向き直って、静かに微笑んだ。この人は、昔はそれはそれは口の達者な賢い人だったのですよ、と。私は、そのやわらかな言葉の底に沈んでいる恐ろしい意味にあとになるまで気づかずにいたのです。
夜が更けた。私は、二階に寝床をあてがわれあの男のだらしのない寝息を隣の間に聞きながら、まんじりともせず、横になっていた。こんな山奥では寺の鐘が鳴るはずもない。夜の白むのがただただ、待ち遠しかった。やがて、その寝息さえも聞こえなくなったころふいに戸の外にものの気配がひたひたと満ちてきた。
雨戸の板の一枚に、外側から爪を立てた跡が無数についていました。
昼のうちに見たときには、気にも留めなかったものです。
古びて黒ずんだ跡の上に、木肌の白い、新しい跡が重なっている。
ひと晩やふた晩でつく数ではありませんでした。
それは獣の足音のようだった。そう遠くからでもなく、家のすぐ外をうろついている。しばらくすると正面の戸に近づいたそれが羊の鳴くような細い声になった。右手のあの蟇のいた草むらのあたりでは鳥が羽ばたく音がする。屋根の棟のほうへむささびか何かが駆け上がって、きっ、きっ、と甲高く鳴いた。私は布団のなかで息をぎゅっと凝らした。
やがて、小山ほどもあろうかというものが、胸を圧すほどに近づいてきて、牛のように、低く鳴いた。遠くのほうからは、二本足で草鞋を履いた獣がひたひたと小刻みに駆けてくる。二十三十という数の獣の鼻息と羽音とが家をぐるりと取り巻いて、そのなかには何ごとかひそひそと、囁き交わしているものさえあった。まるで、畜生道の地獄絵を月夜に映し出したような怪しの気配だった。
戸の外の獣たちのざわめきはただ、家を取り巻いて、うろついているだけではなかった。じっと耳を澄ますとその鼻息と羽音との合間にまぎれもなく、人の言葉の切れ端のようなものが混じっているのだった。帰りたい、という掠れた声。しきりに誰かの名を呼ぶ声。同じ一つの名を繰り返し、繰り返し、呼びつづける細い声。あれは、獣にされてもなお人であったころの何かを、どうしても忘れきれずにいる者たちの声だったのだといまでは思うのです。
奥の間で女が寝返る音がした。うむ、と長く息を引いて、女が魘されたように、ひと声叫んだ。
「今夜は、お客さまがあるよ」
しばらく間をおいて、二度目は、はっきりと清しい声で。
「お客さまが、あるじゃないか」
それから、ごく低い声で「お客さまがあるよ」と繰り返して、さらに寝返りを打つ音が二度聞こえた。
戸の外のあの獣たちのざわめきが、その女の声に応えるように、いっそう大きくうねって、家全体がぐらぐらと揺らいだ。私は、覚えている限りの言葉を心のなかで無我夢中で唱えつづけた。祖母がよく口にしていた意味も知らない念仏の切れ端をただ、ひたすらに繰り返した。それよりほかに私にできることは何ひとつなかったのです。
布団の上で体を石のように固くしたまま、私はふとあることに思い当たった。奥の間であの女がお客さまがある、と、繰り返しているのはもしやこの外の獣たちに向かって、告げているのではないか。今夜の客つまり次に、あの水で洗われて、獣に変えられる男はこの私なのだとあの清しい声は闇のなかの獣たちへそっと、知らせているのではないか。そう思ったとたん背中のあの水を浴びた痕がじん、と、熱を持ちはじめたのです。
夜のあいだじゅう私はあの水明かりの下で女の掌が私の背のちょうど真ん中にぴたりと押し当てられたあのひやりとした感触を繰り返し、思い出していた。あそこへ何かけっして消えることのない印を押しつけられた。そんな気がどうしても、してならなかった。手を後ろへ回して、自分の背に、じかに触れてみようとしたが、指の先はどうしても、その真ん中にだけは届かなかった。ちょうど手の届かない場所にそれはあったのです。
どれほどの時間そうしていたろうか。ふいに木の葉をいっせいに巻き上げるような鋭い風がひと吹きして、あの獣たちのざわめきが嘘のように、ぴたりと静まり返った。夫婦の寝間もしんと寝静まった。私は、とうとう夜が明けるまで一睡もできなかった。ただ、天井の梁の闇を見つめて、里の日々の断片を太い鎖のように、心のなかでいつまでも数えつづけていた。
夜が明けるまで、私は布団の上で体を石のように固くしていました。
戸の外の獣たちは、朝の光が差すころ、潮が引くように消えていった。
消えたあとの地面には、無数の足跡が残っていた。
蹄の跡にまじって、人の裸足の跡が、いくつも混じっていたのです。
第八章 化生
翌る日の昼過ぎ里へと下る途中の滝のある岩場で私はあの老爺とまた出くわした。昨日獣を市へ出しに行ったその帰りだという。小さな包みを肩にかけ手には一尾の鯉をぶら提げていた。鱗が金色に光るまだ尾の動きそうな活きのいい、丈が三尺ばかりもある立派な鯉だった。老爺は、私の顔をじっと見て、またあの薄気味の悪い笑いを浮かべた。
「何をしておいでだ、修行の身が」と老爺は言った。「この暑さで、岸で油を売っている場合では、あるまいに」
それから、ふいに声を落として、こう言った。
「あんた、命拾いを、しなすったな。あの嬢さまの手が触れて、あの水を浴びせられて、いままで人間のままでいられた男など、めったに、おらんのだ」
私は言葉が出なかった。並の男ならば、と老爺はさらにつづけた。牛か馬か猿か蟇か蝙蝠か何にせよ飛んだか跳ねたかせねばならんところだ。谷川から上がってきたときあんたの手も顔もまだ人のままだったので、わしはたまげたくらいよ。あんたは、よほど心根が堅固だったとみえるそれで命が助かったのだ、と。私の背にあのとき浮きかけていたものを老爺はたぶん見抜いていた。
「あの家の周りで、獣を見なかったか」と老爺は言った。「蟇を、猿を、蝙蝠を、兎を、蛇を。あれは皆、昔この谷へ迷い込んだ、男らよ。嬢さまに懸想して、あの流れで洗われて、獣に化けさせられた、輩だ。市へ出して、銭に化けさせ、その銭が、そら」と老爺は手にした鯉を軽く持ち上げてみせた。「こいつに、化ける」
背筋が根の先から、凍った。あんたここへ来る道で健康食品を売る男に逢わなんだか、派手なワゴン車の、と老爺は言った。逢った、と、私はやっとの思いで声を絞り出した。
「それ見い」と老爺は愉快そうに笑った。「あの助平野郎は、とうに馬になって、市で銭に化けて、いまは、この鯉に化けた。今夜、嬢さまの、膳にのぼる」
昨日、荷台でいやいやをして踏ん張っていたあの獣の濁った目を私は思い出した。宙をひらひらと動かしていたあの縁側の男の手を。空ろな、なかを流されたあの目を。私は震える声で老爺に聞いた。
「あの、縁側の人は。あれも、昔の」
老爺はすぐには答えず、ただ、にやにやと笑っているばかりだった。
「嬢さまはな」とやがて老爺は言った。「あの男だけは、獣にせず、傍に置いておかれた。中身を、すっかり、あの水で流してしまって、抜け殻だけを、夫のようにして、いつまでも。あれが、いちばん、むごい飼い方じゃ。獣にされて、市で売られるほうが、まだ、ましというものよ」
それから、老爺はあの嬢さまの生い立ちをぽつりぽつりと語りはじめた。もともとは、この谷の奥にあった村の腕のいい医者の一人娘だったのだ、と。生まれつき玉のように美しくその白い手が、痛むところにそっと触れるとどんな重い病人も不思議と痛みが引いた。近在の者は、薬師さまの生まれ変わりだと言って、我も我もとその手にすがりにきた。
では、なぜその薬師さまがあんなことになったのですか、と私は思わず身を乗り出して聞いた。
「水よ」と老爺はいっそう声を低めた。「二十年前のあの豪雨で、村はまるごと土砂に流された。生き残ったのは、あの娘と、たった一人の男と、供をしていたこのわしだけじゃ」
それからというもの、娘は人がすっかり変わってしまった。谷を穿って流れるようになったあの新しい水を、天からの授かりものだと信じて、迷い込む男をひとりまたひとりと洗っては、獣に変えていくようになったのだ、と。
獣にされた男たちはそれからどうなるのです、と私は乾いた喉で聞いた。
市へ引かれて売られて、銭に化けるのよ、と老爺は淡々と答えた。その銭で嬢さまは里から米だの塩だの油だのを買い入れなさる。
つまりこの谷の暮らしは、そっくりそのまま迷い込んだ男たちのなれの果てで成り立っているのだ。昨夜うまいうまいと夢中で啜ったあの茸の汁も、と、そこまで思って、私は胃の腑のものを吐きそうになった。
なぜ私にだけそんなことを話してくださるのか、と私は聞いた。
さあな、と老爺は遠い目をした。たまにあんたのような心の堅い客が来ると、わしはこうして逃がしてやりたくなるのよ。嬢さまの背負っておられる罪が、これ以上増えぬようにな。
あの人も、もとはといえば、人の痛みをその白い手で黙って引き受けてやる、やさしい娘だったのだ。それがこんな、水の底のような暮らしに堕ちておしまいなすった。……わし、か。わしはもうどこへも行けん。あの人をこの谷にたったひとりにはできんのよ。あの寂しさをいちばん近くで知っておるのはもうこの世にわし一人きりじゃでな。老爺のしわがれた声はそのとき初めて、湿って、いました。
それだけ言うと老爺は、たったいま覗かせてしまった素顔の悲しみを恥じるように、またあの薄気味の悪い笑いへとゆっくり顔を戻した。この老人が嬢さまを憐れんでいるのか、それともともにこの谷の底で朽ちはてることを望んでいるのか、私にはとうとう最後までわからずじまいでした。
「ひとつ、覚えておきなされ。あの水を浴びた者はな、生涯、仰向けでは眠れんようになる。背中が疼いて、どうにもならんのじゃ。嬢さまが、そこへ手を置きなさるでな」と老爺は付け加えた。
私は思わず自分の背へ手を回しましたが、指はやはり、その一点にだけ届かないのでした。
「あんたが助かったのは、心を、明け渡さなかったからだ」と老爺は言って、私の背をひとつぽんと叩いた。「早う、ここを、退きなされ。振り返らずに、まっすぐに、里へ。妄念を、起こしなさるなよ。嬢さまの、格別のお情けよ。命冥加な、お若いの。きっと、まっとうに、生きなされ」
そう言うと老爺は鯉をぶら提げたまま、二度と振り返らずに山のほうへ登っていった。その背が山陰に消えたとたん、油照りの空の頂から雲が湧き立って、遠くで雷が低く鳴りはじめた。私は、藻抜けのように、しばらくその場に立ちすくんでいた。
やがて我に返ると私は拝むように頭を下げて、駆け出した。一散に坂を下り車を乗り捨てた場所を過ぎ倒木を越えあの蛇の道を抜けて、ようやく本道の通行止めまで出たころ山はたたきつけるような驟雨になった。老爺が嬢さまのもとへ持ち帰ったあの鯉もこの雨で活きたまま、あの家に着いたろう、と思うような凄まじい大雨でした。私は、ずぶ濡れになって、里の灯りへと転げ込んだのです。
男がふつりと話をやめると、雪が屋根を撫でる音だけがまた部屋に満ちて、私はうまく相槌も打てずにいた。作り話にしては、あまりに手触りがありかといって、本当だと言われても、俄には信じがたい話だった。私は、こらえきれずにその女はいまも、あの山にいるのですか、と尋ねた。男は答えなかった。あの女とまったく同じように、口をつぐんだ。
かわりに男は暗がりのなかでぽつりと低く言った。あれからずっと水の音が苦手でしてね、雨の日も風呂も、体のどこかがまだあちらへ帰りたがるのです。そう言って、「もう、お休みなさい」とだけ言った。私は、その静かな声に押されるように、いつのまにか深い眠りへと落ちていった。
明け方私は水の流れる音でふと目を覚ました。真冬の凍てついた谷で水音などするはずがないのに、隣の布団はもぬけの殻で空だった。男の寝ていたあたりの畳がぐっしょりと濡れていた。人の形にたったいま、そこで誰かが体を流したように。
私は跳ね起きて、階下へと下りていった。帳場には、あの色の白いおかみが静かに座っていて、清しい声でこう言った。お客さんゆうべは終始お一人でございましたよ、と。布団は、はじめから、一組しか出してはいない、と。
その声を聞いたとき、私の頭のなかで何かがかちりと噛み合いかけました。色が白く、水のように清しい声をしていて、昨夜あの男が語っていた嬢さまの姿と、目の前のこの人とが、うっすらと重なるのです。けれど、その考えを最後まで進めるのが私にはこわかった。私は目を伏せて、黙って勘定を置きました。
私は返す言葉もなく、ただ、宿を出た。凍えた車に乗り込もうとして、シャツの背が妙に突っ張るのに気がついた。運転席のミラーに背中を映してみると肩から背いっぱいに痣のようなものが一面に青黒く浮かび上がっていた。それは、まるで、何かにそっと優しく、洗われたあとのようでした。
それから私も、雨の日も風呂も、水の音というものが苦手になりました。振り向かれたいと願っていたのは、獣にされた男たちや縁側のあの人だけではなかったのでしょう。輪郭が薄れかけていたこの私も同じでした。私はいまもまだこちら側にいます。いまのところは。
了
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
次話もお楽しみにしていただけると嬉しいです。
感想やご指摘をいただけると、今後の励みになります。
(更新:毎日22時投稿予定)
隠岐群青




